風と人のカルテ(7)

日本と祖国の「難民」を救うレシャード先生の「命がけの生き方」

色平 哲郎


 静岡県島田市に「地域の医療・介護」を支えながら、祖国アフガニスタンのために命がけの「国際医療」を展開している医師がいる。レシャード・カレッド先生だ。

 レシャード医院の院長で、介護老人保健施設アポロンなどの理事長も務める。そしてアフガニスタン支援NGO「カレーズの会」の理事長として、いまなお混乱が続く故郷へ毎年、医療支援に出かけている。ひとりで二役も三役もこなすタフな医師だ。

 レシャード先生は、1950年、アフガニスタンのカンダハルで生まれ、1969年に国費留学生として来日した。千葉大学で日本語を学んだ後、京都大学医学部に編入して卒業。苦労の末に医師国家試験に合格した。日本の病院で胸部外科医として経験を積み、腕を上げてから祖国に戻ろうと考えていた。

 ところが、1979年12月、ソ連がアフガニスタンに軍事侵攻して、すべてが変わった。「目の前が真っ白。家族とは音信不通で、やっと連絡がとれたとき、妹は難民キャンプでした。従兄弟は牢獄に入れられて命を落としました。何とかしたくて翌年、パキスタンの難民キャンプに向かった。リュックに抗生物質や注射を詰め込んで、元軍医からもらった古い診療鞄に聴診器を入れてね」
 (週刊金曜日2012年5月25日号、山岡淳一郎「脱混迷ニッポン」)

 持参した薬は3日でなくなった。1986年に日本国籍を取得し、JICA(国際協力機構)の「イエメン共和国結核対策プロジェクト」のリーダー、松江市の病院勤務医として働いた後、1993年、縁あって島田市にレシャード医院を開院した。
 レシャード先生は、開院して間もなく、日本にも独居の高齢者で、経済的に豊かではなく医療や介護のサービスを受けられない「難民」がいることに気づいたという。
 「地方には独居の“介護難民”がたくさんいます。現実は、世話をする家族がいるかどうかで全然違う。絶対的な人手が足りません。社会全体で介護を支える介護保険の役割は大きい。でも細かくメニューを決めて点数をつけたために、かえって使いづらい面もある。たとえば昔なら民生委員が独居の要介護者をしっかり把握し、医療機関に状況を伝えていた。今は民生委員が遠くなった。だけどね、もう医療だ、介護だ、福祉だとタテの枠組みでは対応できない。一緒にやらなくてはいけません」(前出の週刊金曜日の記事より)

 ケアのタテ割りを突破するためにレシャード先生は、1999年に老健施設のアポロンを創設した。

 2001年「9.11」同時多発テロ後、アメリカはタリバン政権下のアフガニスタンに空爆を行った。タリバン政権が倒され、アフガニスタンは共和国に生まれ変わったが、平和は遠い。「カレーズの会」は現地に「ヘルスポスト」と呼ばれる医療拠点を12か所設けている。学校も建てた。レシャード先生は、日本人に「ともに生きる」道に気づいてほしいと語っている。

 「アフガニスタンは、侵略者に対して防戦してきました。文化や宗教、習慣を大切にし、あたりまえの生活を維持したい。無欲の戦いです。だから強い軍隊がきても負けない。日本の政治家は保守、革新問わず、長いモノに巻かれて我慢しろと言う。たかがここ60年の政治的発想で言う。しかしアジア的視点で考えてほしい。仏教はインドで生まれ、アフガニスタンで育ち、中国を経て日本にきた。この流れを理解すれば、自ずと『ともに生きる』道が見えてくるはずです」(週刊金曜日2012年6月26日号、山岡淳一郎「脱混迷ニッポン」)

 2014年7月25日、レシャード先生は第54回農村医学夏季大学にて若月賞を受賞された。

 (筆者は長野県・佐久総合病院・医師)

※この記事は日経メディカル2014年7月18日号より転載したものです。
http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/blog/irohira/201407/537545.html


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