【コラム】あなたの近くの外国人(58)

日本のベトナム人は多層性社会(2)

坪野 和子

 前回の続きである。前回は日本のベトナム人との私自身の親交・接点の現在と過去の対比を述べた。今回は近年の傾向とその考察である。

4.2010年代~現在の教え子ベトナム人
 高校で「多文化共生推進員」の仕事をはじめてからベトナム人が身近な存在となった。その仕事での最初の年は2人だった。1人は母語がわからず、日本語の勉強の必要性がなかったため接点がない。名前がカタカナなだけだ。
 もう1人は今でもSNSでは繋がっている。もう1人の彼は現在国内の大手企業に勤めている。彼は外国出身のクラスメイトは全員中国人で唯一のベトナム人だった。中学の頃、父親の再婚(義母もベトナム人)をきっかけに呼び寄せられた。日本がどんな国かも知らなかった。サムライがいると本気で思っていた、大好きなアニメ「名探偵コナン」は吹き替えなので自国のアニメだと思っていた。英語と数学が得意で現地では国立選抜一貫校の成績別クラスのトップの学級でその中でも10位より下になったことがなかったという。彼は外国人特別選抜で英語・数学が抜群にできて入学した。それでもまだまだ日本語は不自由だった。彼の勉強法や時間の使い方の上手さ、そして外国人後輩や日本出身同級生に試験勉強を教えることで日本語のみならず学習したことを着実に身に付けていった。日本語能力試験N1(1級)も英語検定準1級も合格した。大学の難関大学をいくつも合格し、選んだ大学では中国語を専攻した。

 大学入学当初の彼の様子は当拙稿連載2回目『留学生ではありません。「呼び寄せ家族」の若者(2)』の2.学生課でウロウロ で述べた。※1
 その後彼はドイツの大学院で修士課程。その当時、私は悔しかった。せっかく育てた優秀な人材を奨学金が得られないがために外国に持っていかれたと。しかし日本に戻り博士課程を経て就職した。戻ってきたことをしったときとても嬉しかった。
 下の学年は各2人。女子だった。すぐ下の学年の女子生徒は頑張り屋さんだった。日本語弁論大会であまりうまくなかったにも関わらずコンテンツの良さで県大会1位に受賞した。しかし、空回りする性格で思い込みが強かった。彼女は第二志望の大学に貸与型奨学金で入学した。入学前「絶対にベトナム人留学生とは友達にならない」と言っていたが恋人を作り結婚した。彼女はやっと本当に望んでいた生活をしているようだ。…とSNSからうかがい知れる。母親が離婚によって弟たちの面倒を看させるために彼女を呼び寄せた。通学・家事・きょうだいの面倒、かなり大変そうだった。その上、母親は新しい日本人のパートナーとの子どもをもうけ、赤ちゃんの弟まで彼女が面倒を看ていた。彼女の夫がカレシだった頃、子連れ同棲をしていたようだ。母親の愛情に恵まれていなかったから「私が一番」と思われたい言動が反映されていたのだと理解できた。
 もう1人、その下の学年の女子生徒。この子はしたたかだった。中国人やフィリピン人の友人を巻き込んで問題行動までいかない程度に悪さをしていた。彼女もまた同じ大学のベトナム人男性と結婚し、子どももいる。
 この後のベトナム人接近は定時制高校での仕事では2人。2人とも日本生まれ日本育ちで親類が経営する会社に就職した。また語学研修で1人女性を短期間教えた。教えたベトナム人すべて性格は全く異なる。共通しているのは、「プライドが高い」「時間厳守」「お固い」の3つである。

※1『留学生ではありません。「呼び寄せ家族」の若者(2)』の2.学生課でウロウロ
https://bit.ly/3Buistl
5.この10年くらいのベトナム人
 ここからは身近ではなく、見かけたり間接的に知り合ったりしたベトナム人について。
 先述の優秀な男子教え子が大学生の頃言っていた「中学の同級生が留学生で日本に来ている」を実感したのは都内の有名大学の近くを通ったり、所用でキャンパスに入ることがあった時だ。なるほどベトナム人が増えたなと。大学の近くにベトナム料理屋がいくつかできている。約7-8年前になる。その後、機会あって都内の印刷工場に行った。その工場は「すべて国内生産」とweb上に書いてあるのだが、労働者はベトナム人だらけだった。そしてバインミー(ベトナム・サンドイッチ)の店が近くにあった。工場を現地でつくるか、人を呼んで生産するかの違いではあるが、「国内生産」のからくりを知った気分だった。中国で工場を作って技術を持っていかれた事例が多かったからなのだろうか?たぶんそうだろう。松戸市のベトナム人が多いあの工場も最初は中国進出だったが、経営陣交代でベトナム人雇用にシフトしたのだったから。

・駅前で電撃販売と思われるベトナム人向けのお弁当屋さんを見かけるようになった。飲食店の店員がベトナム人しかいなかったので驚いたことがあった。
・留学生または元留学生と思われるベトナム人のカップルが電車の優先席を2人で使い、男が寝そべっていた様子を目の当たりにしたことがあった。
・私設の喫煙所にたくさんの吸い殻を見かけた。吸い殻を捨てていたのはベトナム人だった。日本語で注意書きを書いても無駄だと思ったことがあった。
・ベトナム人の習慣として仕事が終わると
・Forever21のラストセールで爆買いしているベトナム人の女性を見かけた。ああ以前フィリピン人や日系ブラジル人がバザーやフリマで閉会30分前に大挙して買い叩いて爆買いし、本国に送っていた人たちと同じだと思った。
・パキスタン人男性がチャットで「日本に来てセックスしていないから女性を紹介してくれ。中国人、フィリピン人、ベトナム人、どこでもいい」…真摯にお断りをしたことがあった。そういう女性を知らないから。これは数年前の話しだ。最近、知ったのだが、日本語ができない外国人男性向けの女性紹介グループがSNSにあるそうだ。ベトナム人女性が中心のグループからのお誘いメッセージを読んでいるのを見てしまった。割り切りのお付き合いのグループであった。

6.日本のベトナム人を個人的見解で考察すると…。
 私はベトナムの歴史をきちんと理解していなかったのだろう。小国が乱立し、中国の支配を経て、独立王朝が続き、フランス領インドシナ、南北分断(ベトナム戦争)、社会主義という歴史の流れは表面だけしか理解していなかった。
 日本とベトナム人の関係を簡単にまとめる。明治時代にフランス領インドシナ留学生が存在した、1970年代のインドシナ難民はその定住者を頼って日本に来た人もいる。インドシナ難民として命からがら来日した人たちは真面目で我慢強い。世界で一つしかない部品工場の職人として働き、その技術を継承し、日本に帰化、永住者となった人たちがいる。その二世たちは日本の社会に溶け込んでいる。
 2000年に入って就学生として入国、制度になる前の技能実習(これは定住ではなく出稼ぎ)、大学留学生が増え、日本語学校留学生が増える。経済連携協定による看護介護関連の候補者を受け入れる(試験に合格しなくてはならない。不合格者の不法滞在もあった)また日本政府もベトナム人の受け入れを推進している。となる。

 なるほど、日本在留ベトナム人の裏にはベトナム社会に階層が存在するのだ。
古い歴史に科挙制を受けるほどの階層の人たちが明治時代に入り、難民にならないで日本に入れる経済的に裕福な階層、難民となり政治的に狙われるような階層、日本に何らかの理由で定着することができて子どもを呼べる階層、インテリジェンスがありつつ留学のコネが作れる親を持つ階層、そして2000年代に増えた中間階層の親が借金してでも日本に送りたいという理由で学生・実習生などの階層。だんだんと入国者が広がってきたのだ。ベトナム人をステレオタイプで捉えられないのは多層性社会が深い要因なのだろう。ここでは解明できるほどではないが、ベトナム人たち自身が北部・中部・南部の気質がものすごく違うのだと言う。86%がキン族なので民族差ではなさそうだ。風土気候・歴史なのか?日本ではその違いがわかりにくい。
 あるスピーチコンテストでベトナム人女性による発表の冒頭が心に残った。「母が日本で成功しなさいと言って私を日本語学校に入れました。私は泣いて日本に来ました」
 このスピーチは、日本に期待を持たず親の言われるままに日本に来た…その後、日本人との温かい交流を主題に話された。しかし、私には親に売られたように泣く泣く日本に来たきっかけが衝撃的だった。教え子たちもいやいや親に呼び寄せられた。結果は良いほうに運命が働いているように思う。海外で就労する日本人・元日本人はその国に夢や希望を持って出国したり旅や人などで偶然に出遭ってその国の魅力に惹かれたりしているのが多数だろう。カタールのサッカー開催のために命を失った南アジアの労働者は大抵自分の意思で出稼ぎに行った。誰の意思であっても、その国で良い結果が訪れてほしい。

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新松戸駅のベトナム語のみによるポスター

(2022.12.20)
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