【オルタの視点】
<技術者の視点~エンジニーア・エッセイ・シリーズ(20)>

日本の技術革新力(1) 技術の位置づけ

荒川 文生


 新年ご挨拶の御返事で、『オルタ』の編集にご尽力戴いている加藤宣幸さんから「日本のイノベーション」について論じるようにとの問題提起を頂戴しました。「IT、VR、AIなどあらゆる分野で新技術が次々と出現する時代に、日本の技術革新力は対応できるのだろうか。社会や行政・政治は事の重要性を深く認識しているのだろうか、などなどで少し不安です。」との事でした。

 日本は、二十世紀前半、その近代化の過程で西欧の政治、経済、社会の仕組みや科学的技術を取り込み、世界の覇権国に比肩するに至りながら、軍事的挑戦を挑まれて敗北しました。その後半に再び「高度経済成長」の成果として、OECD諸国の諸指標で上位を占めるようになりましたが、二十一世紀に入った今、この地位は低迷しています。此れに対応する政治的指導者は時代錯誤的軍事力拡大などを模索し、経済的指導者は実体経済を見失って株式市場や金融市場の動きに惑わされています。この状況の中で、「技術革新力」に焦点を当てた問題提起の意味が、将に、基本として的確で重要なものであることは明らかです。

 そこで本稿は、問題の重要性に鑑み、技術をその根っこから見直し、その来し方行く末を展望しようとしています。前稿(【コラム】技術者の視点シリーズ#19「時代と共に」)で「技術の本質的原点が、人間の生活を便利で豊かにする営みの技(わざ)や術(すべ)にある」と述べました。併せて、技術が人間とそれが依存する自然とを破滅に導き得るものでもある事に留意すると、その行く末をどの様なものにするべきかという課題は、原子力発電を初めとして、人類の産業活動が自然を著しく破壊しつつある現在、最早、喫緊の課題と為っています。

 下の図は、人類の存在を包む宇宙と自然の中に、技術がどの様な位置を占めているかを示すものです。(石井彰三・荒川文生/共著、『技術創造』、電気学会編、朝倉書店、1999、P.160)まず、自然の一部である人間は、その理性と感性とを統合した人間性を駆使して、広大な宇宙のなかで 真・善・美(より現実的には「幸せとは何か」)を追求する存在であると考えます。その理論的成果が科学を構成し、実践的成果が文化を構成します。理論と実践とが重なる所に、人間の営みが、時間と共に歴史と為って連綿と紡がれて行きます。

画像の説明
  技術の位置づけ

 理学や工学と言った自然科学を基礎とする技術は、匠の技として芸術に昇華する一方、社会・経済・政治の駆動力と為って人間の命を守り、その生活を便利で豊かにして来ました。しかし、十八世紀に勃興した一次産業革命以来、産業技術が人間生活の中で果たす役割が拡大するのに伴い、それが人間とその依存する自然とを破滅に導き得るものともなっています。この図は、各領域の相関関係を示してはおりますが、その間の影響や結びつきの大きさは表示できていません。ただ、その大きさを時代ごとに表示すれば、現代において技術の領域が肥大化している事でしょう。それは「技術の暴走」とも受け止められます。

 ここで、ご注目戴きたいことが一つあります。それは、技術と匠の領域(A)と人文科学と社会科学の領域(B)とが歴史の領域を超えて線で結ばれることに「技術史」と言う領域の存在意義が見て取れると言う事です。人間が未来を展望するとき、それが根拠のない妄想と為らない為には、事実に基づく合理的判断が為される必要があります。ここにおける 「事実」と「合理性」とは、この図の歴史の領域に示される理論と実践の成果のことです。ここに、未来の展望の為に歴史に学ぶ事の意義と重要性とが示されています。
 特に、技術を暴走させずに、それが幸せを求める人々の命を守り、その生活を便利で豊かにするものと為る様に創り上げて行くうえで、人文科学や社会科学の成果を踏まえた技術史の研究とその成果の社会的反映とが、如何に意義深く重要であるかが明らかと為ります。

 こうして、「IT、VR、AIなどあらゆる分野で新技術が次々と出現する時代に、日本の技術革新力は対応できるのだろうか。社会や行政・政治は事の重要性を深く認識しているのだろうか」と言う問題提起に応える上で必要な事は、日本の技術がどの様に発展して来たかと言う技術史をふり返り、その過程で日本の社会・経済・政治がどの様な対応を執ってきたかを反省する事だと言えましょう。
 次回以降は、その内容を国際的視野も入れながら、事実に基づき合理的に検討する事と致したく存じます。

  寅彦忌科学と文化ふり返る  (青史)

 (地球技術研究所代表)

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