【オルタ広場の視点】

日本はどんな国を目指すのか

 ――いまの難民政策が生み続ける悲劇

野村 彰男

 「技能実習生」という名の日本への労働者受け入れ制度と、それとも関わりのある留学生受け入れ制度が生み出す悲惨な出来事が、このところ相次いで報じられる。「犠牲者」のほとんどはアジア各地から民族対立を逃れてきたり、あるいは、日本で働いて母国に居る貧しい家族を助けることを夢見たりしてやってくる若者たちだ。近年は、遠くアフリカの国々から差別や迫害を恐れて国を逃れ、日本にまでたどり着く人々も増えている。
 けれども、日本の難民受け入れ制度と、高度な技能を持たない労働者として来日する人々、日本語を学んでから仕事に就きたいと願う留学生たちの日本での扱いは、決して胸を張れるものではない。グローバル化が進み、多文化共生を願う声が高まる世界で、入国した難民や留学生、労働者らの人権を尊重し、社会の一員としてどう受け入れるかを展望する「政治の意思」が見えないという批判が、支援活動に携わる人々から高まっている。

 日本は1981年に難民条約に加入し、翌年に「難民認定制度」を制定した。しかし、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)をはじめ国際社会からは「日本の難民認定制度は厳しすぎる」と批判され続けている。日本の制度は難民を保護し支援することより、管理し取り締まるという視点が強いとみられているからだ。

 こうした批判を和らげる狙いもあってか、2005年には「難民審査参与員制度」がつくられた。難民として入国してきた人々の一次審査は法務省の職員である審査官が行い、そこで不認定とされた申請者が不服申し立てをすると、3人一組の難民審査参与員が、申請者から難民として母国を離れた経緯を詳しく聞き、彼らの言い分に妥当性があるかどうかを判断。難民だと判断したときは、法相に「難民認定すべきだ」という意見書を提出し、認定されるか、難民認定はされなくても「人道配慮」の観点から日本で暮らすことを認めるケースが生まれるようになった。しかし、それも多数の申請者のごく一部でしかなく、国連や人権団体からの批判は続いている。

――「技能実習制度」がはらむ問題点

 そうした中で日本の少子高齢化はいよいよ深刻化し、日本社会が必要とする労働力が不足する実態が明らかになって、政府は日本語を学ぶ留学生の受け入れ枠を大幅に拡大するとともに、高度な技能や高等教育を受けた人材とは別に「特定技能」という枠を設け、「技能実習制度」という仕組みによって、日本で働きたい若者たちを労働力が必要な企業や農家に受け入れ始めた。働きながら必要な技能を身に付けさせるという謳い文句ではあったが、この制度はすぐに様々な問題を生み始めた。

 技能実習生受け入れの実態については、認定を受けた監理団体が監視する仕組みは形づくられたものの、その目は行き届かず、①労働時間が非常に長く、時間外手当が払われないだけでなく、給与も十分ではない ②罵声を浴びせられたり、ときには殴られたり蹴られたりの体罰まで受ける ③食事も十分食べられないなど、人を人とは思わないような処遇に耐えかねて逃げ出す実習生が続出し始めた。
 よく知られる例としては、2019年6月に法務省・大村入管センター(長崎)で、日本で結婚し子供もいたナイジェリア人男性が、仮放免を求めてハンガーストライキをした末、適切な対応もされないまま餓死するという悲惨な事件があった。

――はじめに借金を抱えてからの出国

 5月2日の朝日新聞朝刊1面トップは「失踪村 お金も仕事もない」という大見出し付きで、ベトナムなどアジアからの元実習生たちの「来日前の夢を砕かれた過酷な状況」が報じられた。ベトナム人ブー・バン・ズンさん(36)は、富山県の建設会社で解体の仕事についていたが、来日前に社長から聞いた話とは違ったものの、月給9万円のうち6万円をベトナムの家族に送金する生活を続けたという。仕事中に釘で足をけがしたため「病院に連れて行って欲しい」と頼んだが、「監理団体に頼んだら」と相手にされず、「見捨てられた」と感じて1年半で逃げた。来日する前に負った借金がまだ30万ほど残っている。

 来日8年と言う女性のジンさんは、徳島県の縫製会社で1時間に2千足の靴下を作るノルマを課せられたが、どう頑張っても700足しか作れず、日曜以外は朝7時から深夜まで働いて月給10万円。6畳一間に7人で住まわされ、耐えられなくなってジンさんを含め3人が逃げた、という。ベトナム政府は、実習生が送り出し機関に支払う費用の上限を日本円で40万円までと定めているが、実際には送り出し機関やブローカーなどに100万円近く払わされる人が多い。

 先ごろ毎日新聞が報じたアフリカ・カメルーン出身の42歳の女性レリンディス・マイさんのケースも痛ましかった。彼女は本国の大学を中退して親族を頼って2004年に来日。在留資格が切れた後も様々な仕事をしながら生活していたが、2011年に「オーバーステイ(在留期間切れ)」が発覚して茨城・牛久市の東日本入国管理センターに収容された。一時的な仮放免を経たのち、16年7月に品川入管に再度収容されたが、18年2月にまた仮放免。
 その後は多くの支援者らの支えもあって暮らしていたが、体調を崩して乳がんが発見され、やがて全身にがんが転移して、今年1月23日、都内の病院で亡くなった。この話には、マイさんが息を引き取った3時間後に、彼女が生前待ち望んでいた「在留カード」が入管から病院に届いた、という、非情なエピソードまでついていた。

 もちろん、しっかりした企業が約束の給与を支払い、住居なども手当している例はあるにせよ、日本政府と送り出し国の政府との間でどのような話し合いや制度管理の合意がなされているのかもあいまいで、いま必要な労働力不足を解消することへの対応に主眼が置かれ、生産年齢人口の激減を見据えて中長期にわたり日本の労働力を確保する、という視点が弱い。

 しばしば問題となる長期拘留についても、国連人権理事会の恣意的拘禁部会は「収容は最後の手段であり、収容には期限を設けなければならない」としており、さらに「収容するか否かについての司法による審査がないのも国際法違反だ」とする手厳しい見方を示してきた。

――世界の常識とのずれ

 「難民」とは「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属する」などの理由で、自国にいると迫害を受ける恐れがあるため「他国に庇護を求めた人々」と「難民の地位に関する条約」で定義されている。ベトナム戦争や数次にわたる中東戦争などのため、祖国や自分たちが住む地域を追われて周辺国に流出した人々がつくる難民キャンプは、いまでも各地にある。ベトナム戦争で1970年代に国を逃れた「ボートピープル」は良く知られるが、日本政府は難民認定制度とは異なる「第三国定住」という枠組でインドシナ難民を受け入れ、2000年代初めにかけ1万1千人あまりの人々が定住しているし、ミャンマーの政治混乱によってタイの難民キャンプにいたミャンマー人家族も百数十人受け入れている。

 ただ、いま世界の難民および国内避難民の総数は約7,950万人。緒方貞子さんが難民高等弁務官だった当時より2倍以上にものぼる過去最多という数字だ。それほどに、いまの世界が不安定な状況にあるということを物語っているし、日本の難民受け入れ数は、米国やドイツなど何万という単位で難民を受け入れる欧州諸国やオーストラリアなどとは全く比較にならない狭き門だ。

 こうした中、政府は今年2月19日に「出入国管理及び難民認定法の一部改定案」を提出し、国会で審議中だ。しかし、立憲民主党などの一部野党をはじめ、弁護士会、難民支援にかかわるNPOなどからは、改定案が現在の難民制度がはらむ様々な問題を解消する改善策を進めないまま、さらに出身国への送還の可能性を高めるとの懸念が出ている。難民や難民申請者を出身国に送還することは国際法の原則(ノン・ルフ―ルマン原則)で禁止されているが、改定案では難民申請中の送還を停止する規定に例外を設けており、国際法の原則に背く内容だと言わなければならない。

 4月22日、国会で開かれた「入管法改悪反対緊急院内集会」には、立憲民主党、共産党など野党議員や難民支援団体にまじり、難民認定を求めるアジアや中東の申請者も参加して議論が交わされた。自民党議員の出席はなかった。
 立憲民主党の石川香織衆院議員は「この国が人間の住むに足る国であるかどうかが問われています」と語り、辻元清美議員も「入管法の改悪を阻止しなければ」と訴えるなど、法案の目指す方向を懸念する意見が相次いだ。

 イラン人の難民認定申請者からは「ビザがないだけで犯罪者扱いされ、長期収容され、心がボロボロになった」との声、ペルー出身の高校生はビデオメッセージで「両親には在留資格がなく、父は2016年にペルーへ強制送還されました。私は日本で生まれ、大学2年の姉もいるが、今は母も奪われそうで心配です」と、家族と一緒に住みたい希望を訴えるなど、不安を抱えての厳しい生活を嘆く声が多かった。

――海外にルートを持つ子供を取り巻く教育の課題

 海外から親に連れられて日本に来た子供や日本で生まれた子供たちが向き合う日本語の習得や学校教育問題も難しい課題だ。文科省が2016年に公表した「日本語指導が必要な児童生徒」によると、全国の公立小中学校、高校、特別支援学校・中等学校には、日本語がよく分からない子供が4万3,000人以上もいる。しかも、そのうち1万人の子どもたちは、学校で何の支援も受けていないという。
 支援の質や量には地域差があり、日本語を教える人材がいない、指導する時間がない、などの理由で、授業についていけない子供、日本語が十分できないために勉強に遅れたり、仲間外れにされたり、肌の色や髪の毛の色の違いで差別やいじめを受けたりする子供たちがいるのが実情だ。

 一方、家庭の中では親の言葉(母語)を話し、学校では日本語を使う環境にある子供も少なくないが、家庭だけで子供の母語を年齢相応に伸ばしていくためには大変な努力を必要とするから、来日年齢が低いほど母語を失いやすい傾向にあり、親とともに母国へ送還されると、そこでまた、母語が十分話せないため仲間外れになったり勉強が遅れたりする試練にあうことになる。
 そうした一人一人の人生を大きく左右する問題であることを視野に入れての難民政策であることが求められているのではないだろうか。

――日本もかつては移民を送り出してきた国だった

 「日本への移民は認められない」と主張する声も根強い。ただ、忘れてならないのは、日本もかつては移民を送り出してきた国だった、という事実だ。戦前は米国や旧満州などへ移民を送り出した。1941年の真珠湾攻撃で始まった日米開戦により、米国に移民した日系人10万人以上が収容所に強制収容された。1988年、レーガン大統領が日系アメリカ人補償法に署名し、米政府として日系人に公式に謝罪した。

 しかし、戦後も日本から南米のブラジルやペルーなどへ多数の日本人が移住した。そうした日系人の子どもたちが、ブラジルやペルーから日本企業の労働力として多数来日してきた歴史も忘れず、難民・移民問題に向き合うことも必要ではないかと思うが、どうであろうか。

 (元朝日新聞アメリカ総局長)

オルタ広場第37号(通算第209号)(2021.5.20)
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