【ポスト・コロナの時代にむけて】

日本社会改革のチャンスにできるか?

―コロナ危機世界化のもとで

横田 克己

◆ 1.いま、なぜ政治のあり方が問われようとしているのか

 かつてサッチャー、レーガン、中曽根がリードした「新自由主義」の理念に基づく経済のグローバリゼーション戦略展開は、40余年に及び、世界市場の形成を促して今日ある。
 一方、人類の危機は、人口爆発、自然環境破壊、国家間格差のストレス増大、戦乱や経済破綻に限らず、未解決課題が山積み状態だと言える。新たな感染症にも周期的に襲われ、危機を回避してきた。しかし、もう「泣き面にハチ」的では済まされない。

 今般、世界を震撼させている「新型コロナウイルス」のもつ「攻撃力」の浸透・拡大の様相は、人類の「英知」が築いてきた諸々の知見や技術、制度や正義、政治・社会・文化等々の現秩序を揺さぶり、それ等に反省と総括を促すかのような「変革力」を内在して、そのチャンスの出現を促しているのか。私にはそう思えてならない。

◆ 2.現況を「つくり・かえる」可能性を指摘し合い、新たな道筋を!

 幾度となく繰り返されてきた、自然と人間、政治と社会、科学と生活、芸術と文化、等々の伝統的あり方にとって、当然化されてきた現況にあった契機やその因果を「つくり・かえる」可能性について指摘し合い、新たな必然への道筋が拓かれれば幸甚この上なしと考え、私論の一部を雑記してみる。当然ながら一貫性を欠く記述になることをご了承いただきたい。

 新型コロナの発生源は中国の武漢だったが、日本にとってのそれは、ダイヤモンド・プリンセス号が寄港したことから、コロナ対応の深刻さに直面する事態となった。船内で一人から瞬く間に乗客・乗務員へ想定外に大量の感染者を発生させた。数年前のサーズやマーズのウイルス感染症の猛威から逃れていたことが「深刻さ」に連なった。
 新型コロナウイルス患者の発生に対して、国・自治体・医療機関等に限らず、今日ある日本の諸機能の多くは、この間「アベノミクス」基調に沿って、長期政権の諸策に慣れ親しんできたとも思える官僚体制のもとにあった。
 「死」に直結する感染症に有効に対応するには、社会全体の対応が成否を決するものだが、この間、身についた人々の「自由」な選択は、『アベノマスク』に見られるような忖度だらけで「相互けん制」なき官僚政治に象徴され、生活者・市民の多くも疑心暗鬼ながら自身の「良識?」に従うことを選んで今日ある。

◆ 3.国家 vs 市民の構造的な力関係をオルタナティブできるか

 国家主権 vs 市民主権、政治社会 vs 市民社会の構造に根づいた力関係を「つくり・かえる」契機はどこにあるのか。
 日本での大きな契機は、封建政治から脱出すべく、幾多の葛藤を経て明治維新政府が生まれたことだ。西欧社会を斜に見ながら立憲国家を目指したものの、旧習を温存させたままの維新であった。西欧文明の一端を模倣したが身分制や家族制度は保全されたまま、世界の植民地主義(帝国主義)の渦に容易に巻き込まれていった。その与件は「軍国主義」の流れに巻き込まれ、日清、日露の戦争に勝利したとはいえ、後の大東亜共栄圏構想をもって、日米開戦から第二次大戦を締めくくる敗戦まで、日本社会を引きずり回して歴史的刻印を振りまいた。

 この100年にわたる「近代化」への嘱望の結果は、日本の政治社会と市民社会のあるべき関係性を切り裂き続け、今日まで引き継がれている。
 しかしこの間、「世界が小さくなった」交通・通信関係や科学・技術の発達が寄与して、日本にも不十分ながら、国民国家のもと「市民社会」が形成されつつあると言えまいか。そしてこの根底にある人々の認識には、一貫して「自由」への思いとアクセスが継続されてきて久しい。この自由概念は、「人権・自由・民主主義」と連動して立体化し、政治・経済・社会のあり方に言わずもがな作用してはばからないはずなのだ。

 しかし人々の認識力は、科学・技術の急速な発展、マスメディアの巨大化、政党政治の形骸化や崩壊、賃労働や投資による所得願望への常態化etc.によって、生存生活の前提条件を経済に依存して日常ありとする損得の「常識」が動かし難く、世界市場の共通「価値観」に連接して久しい。

◆ 4.3つのタイプの労働価値を総合化できない「産業化社会」

 この半世紀近く、経済のグローバリゼーションの契機をつくったサッチャー、レーガン、中曽根による政治的リーダーシップは、世界の人々を貨幣経済に引きつけ、その中で生きる「常識」を根づかせた。その中心には「賃労働」をはじめとする価値の交換過程があり、一方にある「ボランタリーワーク」や「コミュニティワーク」が持つ価値労働の「生産と交換」から「良識」を排除し続けてきた。その一例は、子供たちの長期にわたる通学・学習の内実や繰り返される「買いもの」の営みといった、社会に不可欠な互酬的でかつ多様な労働価値生産にある「良識」を退けていること。

 この労働価値概念から疎外され続けた人々の多くは「思いをやる」能動的思考が低下し、政治支配の自在性を補完して止まない立場になり、「アベノミクス」を長期にわたり「温存」してきたことに気づくのに立ち遅れて今日ある。
 しかし今般、世界を席巻して止まない新型コロナウイルスの蔓延は、死と向かい合いつつ誰しもが応分の危機感を受容し、医療・保健制度を介して政治・経済の「官僚化」した姿に直面して、生活者・市民としての主体性を応分に体現しつつ、進化する情勢とそこに見え隠れする力関係の変化に注目し、応分に批判的意見を拡充しつつあると確信したい。

◆ 5.生活者・市民が自らの「ヘゲモニー」を生かす好機

 そこには、この伝統的かつ継続性を持ち、動かし難いと思える政治と社会の関係性やそのあり方について、主権者である立場を取り戻しつつ自身の「自由」度を拡充するトライ&エラーにチャレンジする姿がある。それは自身の生存の危機とコロナを対峙させ、「生活者・市民」としての主体性を高めようとするかけがえのない機会を手にすることであろう。
 それらの持つ個の力の連鎖こそ、コロナ危機はこのまま終わらないだろうとする「戦略的」見解が胎動し始めている根本原因である。

 「自由」の実態はエゴイスティックな自己の固有な思想・概念ではなく、政治システムと社会的諸存在が競い合った力関係の結果として相対化され、手にすることができる壮大かつ時代の産物になるであろう。政治を司る人々にとって、日頃から自己の利害得失に訓練され、その契機は生かされにくい。近未来を引き寄せ不断にチャレンジすることに不慣れな人々にとっては、降って湧いた事変ととらえ、決して己の新たな「知的・道徳的・文化的」ヘゲモニーを形成する絶好機などと考えようもないだろう。

◆ 6.多様な市民資本を形成し、政治社会を撃つチャンス

 したがって時代変革の好機は、人々=生活者・市民の側にあり、そのたしなみが日々問われることになった。有効な関係の道筋が多様でかつ有効性を高めるためには、自己の保有する主体的資源=いくばくかの資金(市民資本)を元手に、身につけた「知恵・労力・自由時間」=「参加」を接合して有効的活用が不可欠になる。

 今日、インターネットの普及により、自己表現・表出の機会は、多様に可能性を拡げてきた。この活用手段は、産業としての事業が、生活の細部にまで関与し、有効な経営手段として活用され、各種産業振興に寄与して久しいが、市民(国民に非らず)の、市民による、自律的ネットワークづくりの呼びかけは、限りなく伝播する可能性を持てる。その拡がりはかつてなく、エネルギッシュに拡散する様は見事な政治的問題提起力となり、世論の形成・創造の役割を果たす可能性を拡げた。

 そこにある現実的可能性は、政党政派の政策方針を越えてインパクトを示すようになり、差別・貧困・ジェンダー・地球環境・温暖化や食料の再生産過程、文化や芸術のあり方等にまで及んで、新しい政策視点や方法を提示し革新するまでになりつつある。この人間的資質の進化は、一方にあるITやAI、5G等々の先進的技術の進化が、国家間の戦争準備や人間個体の管理等にまで尖鋭化して止まない野望・野心等をセーブする力として養わなければ、いずれ人類は各種のウイルスとの共存を免れないだろうと言われているとき、近未来を閉ざされて不信の闇の中にとまどうことになるだろう。

◆ 7.「アベノミクス」の正体を見抜く主体性を持つ

 人類は、18世紀のフランス革命とりわけ「民主主義」へ試行錯誤の道筋を見出してから、市民としての「立ち位置」が模索されてきた。その知性は、統治する政治的権力とそれを生み出し、税の支払い者として保持する主権の意義を相対化して体現したはずであった。しかし国民主権を「請負」った政治・軍事の野望は、長期にわたりヨーロッパを戦乱に巻き込んできた。

 第二次世界大戦後ようやく緒についたかに見える近代国家システムは、政治社会と市民社会の区分とその役割が明文化されるとともに、相互の主権のあり方=法の形成主体は市民であり、国家主権の行使・運用に当たって従たる立場を基本とする趣旨が「主権在民」として規定されてきた。
 しかし実際には、なぜか新型コロナウイルス対策に直面しても、PCR検査の立ち遅れ、思いつきの『アベノマスク』騒動から医療崩壊等に至るまでの、政策的手法・現象に見られる欠陥の原因はどこから発生しているのだろうか。

 日本の政治社会と市民社会の関係性は、敗戦後約20年周期で変遷してきたように思える。第1期は、日本中が飢餓に喘いでいた時代。第2期は、ベビーブーマーが育ち、日米安保条約の締結が危惧されつつも朝鮮動乱を契機に経済成長軌道が拓け、農村から大量の労働力移動(次いで女性たち)が起こり、工業立地と都市開発が全開し、オリンピックまでもが開催される。第3期は、結婚ブームから住宅建設、投資ブーム、高度教育拡充、企業の世界市場参入、GNP世界第二位、そして土地バブルの崩壊にまで至った。
 この間一貫して消費者(労働者)の面前にあったテーマは、経済=所得の増大による消費生活の物質的豊かさ=「あることより持つこと」への執着であったであろう。したがって政治政策のテーマは、不断にその「豊かさ」の保証人として選択し続けられて久しく、「アベノミクス」に至るのである。

◆ 8.市民社会から政治社会に迫るには

 そこでは、市民社会全体が政治社会のあり方を「共育」されないまま、形式的憲法解釈から政治・行政機構や「公明」選挙等のあり方まで、静態的「構造」を注入されてきた。経済要求が自明となった市民社会の活力は、徐々に政治的に萎えて経済のプラグマティズムに収斂されていった。

 こうして現代日本の政治とその内実を、市民社会の日常から理解し把握することは容易ではないが、その片鱗をとらえるため、市民社会から政治社会に迫るためのいくつかの概念を列挙してみたい。

(1)市民主権 ― 憲法を以って政治の日常を点検・評価し、必要により「異議申し立て」を旨として法・条例等を変更する権利=「税の支払い者」としての制度関与責任。
(2)実践的組織民主主義 ― 市民の日常として、
  ① 相互けん制=直接・間接のコミュニケーション「作法」
  ② アカウンタビリティ=説明し「同意」を獲得する責任
  ③ ディスクロージャー=「因果」を含む情報を公開し、周知を図る方法
(3)自らのアソシエーション形成 ― 個のもつ多様性と自主性を統一する場として、都市社会における地域生活上不可欠な群れ(近隣小集団)への関与=行政の下請けでなく、協同(働)組合セクターの原理をもって。
(4)政治的ヘゲモニーとは ― 日本では政権及び政党の存在意義は選挙で第一位を獲得することが目標にあり、その形式が疑われることがなかった。しかしヘゲモニーとは、人間の持つ全人格的資質として「知的・道徳的・文化的」指導性を意味しており、組織的リーダーシップの内実を評している。
(5)マス情報の功罪 ― マスメディアは多面的な情報を発信して、このマス化社会に貢献して久しい。しかしその情報の限界は、利用者からの反応と期待は「購買」にあるかのように、取り上げる諸問題の「因果関係」にこだわることなく、投げっ放しが多い。したがって受け手の問題解決への関与を期待せず、リベラルな共育効果が貧しいままにある。
(6)市民社会から政治社会を「つくり・かえる」― 市民社会からコロナ禍の当事者として政治・行政に対する意見表明のツイッターは、一千万回を超えてなお継続するという、かつてない参加の勢いがあった。この市民社会における諸々の人々の意見と参加力のつながりこそ、形式化し官僚化した政治社会への「変革力」のはしりとなるであろう。いま「市民力」が出発進行である。

◆ 9.おわりに

 コロナ禍は、日本の伝統的政治の基軸を変える可能性を秘めていて、近未来を拓く? その根底にあるのは、コロナウイルスの猛威が、人々に死へのストレスを突きつけたところにある。有機的生命体である人間は、死ぬことが自明である。しかし人類の700万年とも言われる歴史過程は、どれほどの死を重ねてきたことだろう。無慈悲な生物間の葛藤による人間の死は数えようもないが、その戦いを経て生存権を手にしてきた今日、地球上に人類は勝手に増大して今日ある。地球環境や食糧の自給、国家間の格差拡大や共生・平和の危機etc.のストレスの中で死を免れない人々は、数え切れないのが世界の現況である。

 第二次大戦後生まれた国連の諸機能は、矛盾だらけの国境を超えたストレスを克服し、共生・平和に向かう理念と戦略をもって試行錯誤してきたのだが、今日ある地球上の不合理な矛盾や危機を克服できていない。その原因の中心には国家間の矛盾と競争の産物が徐々に手に負えない事態になってきたところにある。「自国ファースト」が平然と叫ばれ、核兵器保有はとどまるところを知らず、気候変動は日々の危害を増している。

 これまで人類が戦乱によって失った死は、数えようもないほど膨大である。一方においては社会福祉への要求は高まって久しい。しかしヒトは「精いっぱい生きて、死を待てる」平穏な社会を築きたいものである。後のち、コロナ禍が日本の危うい政治を変革してくれたとは言われたくない。市民の「参加型の英知」が自らの社会を「つくり・かえる」主役を演じた主体性の発露でありたいものだ。

 (生活クラブ神奈川名誉顧問・中間法人生活サポート基金理事長)

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