【選挙分析】

日本維新の与党化の背景と公明党のさらなる変質(その一)

仲井 富


◆大阪維新の源流は自民党若手地方議員の危機感 ― 橋下の安倍接近は2010年から ―

 日本維新の与党化現象が今国会でいっそう明らかになった。暫定予算はもとより、大阪万博、カジノ、すべてに賛成した。この二つはもともと日本維新の会の立案したものを自民党の安倍、菅など維新となあなあの執行部が受け入れた。この二つを確保するために、すべて自民党の言うように動くという国会対策となってしまった。共同代表の片山虎之助、副代表の渡辺喜美氏らはれっきとした元自民党国会議員であり、与党化に何のためらいもない。この日本維新の与党化に選挙対策上応じざるを得ない公明党の弱みと、ともかく与党で有り続けたい創価学会の願望が、新たな学会内部の対立を生んでいるのだ。

 日本維新の本家ともいえる大阪維新の源流は、09年の総選挙で全面的に敗退した大阪の自民党府議会、市議会議員の若手が危機感を持って結集したことに端を発する。橋下という個性の強いタレント弁護士を担いで大阪府知事にした。そして大阪府市政で従来の既成勢力であった自公民社民連合の政治体制に異議申し立てを行うことで支持を拡大した。その最大の争点が大阪都構想だった。既得権益死守と改革という対立構造を作り出すことによって、大阪維新~日本維新は国政でも一定の政治勢力となった。

 橋下氏の中央権力志向は当初からだった。政権の座から降りた安倍氏を党首に担ぎたいとはやくからアプローチしていた。012年の段階では新党の党首となることを要請したといわれている(“大阪維新の会、安倍元首相に合流要請”、J-CAST ニュース、2012年8月16日)。これはならなかったが、橋下氏は常に安倍氏の意向を尊重し、安倍氏もその橋下維新を憎からず思うという相思相愛の関係で一貫している。その典型が2012年7月の山口県知事選挙だった。この選挙には当時橋下改革のブレーンであった飯田哲也氏が山口県の上関原発反対の旗幟を鮮明にして出馬し健闘した。しかし橋下氏は一貫して動かなかった。安倍に対する義理立てをしたわけである。それを承知している安倍首相と菅官房長官は、大阪都構想を巡って大阪自民と大阪維新が敵対していても、半ば公然と大阪維新に肩入れし続けてきたのである。

◆民主党政権時代、辺野古移設に大阪も基地負担をと発言 09年

 橋下氏は民主党政権時代、辺野古の基地移設問題で、当初は「大阪でも応分の基地負担をすべき。大阪空港を使うのもそのひとつ」と提案した。09年11月30日、橋下知事の「関西受け入れ論」は全国をかけめぐった。きっかけを作ったのは、東京在住のフリージャーナリスト岩上安身氏だ。自ら大阪府庁に乗り込んで橋下知事に基地受け入れについての真意をただし、ユーチューブ(Youtube)で公開した。

 「普天間基地の問題に関して、知事の考えをお示しいただきたい」という岩上氏の質問に対して、橋下知事は「安保政策は内閣の専権事項なので、あくまでも個人的な意見として」と断りつつ、沖縄の基地問題に対する見解を述べた。
 「沖縄の地上戦というのは、沖縄の方に多大な負担をかけたので、本州・四国・北海道・九州の人間は沖縄の人達に十分な配慮をしなければいけない。沖縄の基地負担の軽減のために、みんなで一定の負担をすべきだと思っている」。そして、沖縄戦で自決した大田実海軍中将の「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世、特別のご高配を賜らんことを」という有名な言葉を引用して、「(大田中将の言葉を)僕らは胸に刻んでおかなくてはいけない。関西で、もしそういう話がくれば、基本的には(議論を)受け入れる方向で検討していきたい」と語った。
 この発言が新聞やテレビで報じられ、民主党政権の閣僚を右往左往させるほどの大騒ぎになった。岩上氏は「橋下さんが率直に自分の言葉で語っている様子がよくわかる。いつ、だれから質問されようと、自分の信念を堂々と語るのだという強い思いが感じられた」と当時話していた。橋下知事はその後も、09年12月6日に花園ラグビー場で観客に向かって「みなさんで沖縄のことを考えましょう」と呼びかけるなど沖縄の基地問題について積極的な発言を繰り返していた。

◆沖縄の基地関空へ受け入れ発言 一転して発言撤回へ 010年

 沖縄基地を関西空港で受け入れという橋下発言は、当時沖縄県知事に再選された仲井真知事を喜ばせた。そして仲井真氏は大阪に現地視察に行きたいという意向を示した。すると橋下知事は態度を急変させた。毎日放送(010年11月30日)が以下のように報じている。

 ―― 沖縄県知事「関空視察」橋下知事“基地受け入れ論議撤回”
 再選を果たしたばかりの沖縄県の仲井真知事が、米軍基地の移設先として関西空港を視察する意向を示しました。基地受け入れの可能性にも触れた橋下知事の呼び掛けに応じたいとする仲井真知事ですが、当の橋下知事は30日朝、以前の発言をあっさり撤回しました。
 そして選挙翌日の記者会見、仲井真知事は公約に掲げた基地の県外移設を主張し、その候補のひとつとして関西空港を挙げました。「橋下知事が大阪の『関空』どうかとおっしゃっているから、1回見て来ようかと思っている」(沖縄県・仲井真弘多知事)。沖縄県の人たちの悲願、普天間の県外移設。この思いを背負った仲井真知事は、橋下知事の過去の発言を重視していたのです。「沖縄県やその他の県のみなさんの犠牲のもとに、大阪府民は安全をただ乗りしている。話をふっていただければ、できる限りのことはしたい」と、日米の合意が前提としながらも事実上、関空での受け入れの検討を表明していました。
 仲井真知事の関空視察への対応が注目された、30日朝の会見。ところが ―「関空は残念ながら伊丹と統合して、民間に売却するという話でスタートしている」と述べた。橋下知事は、関空は伊丹空港と一体運営し、株式を民間に売却する方針が決まったので、「関空ではなく神戸空港を見て欲しい」と主張を一転させた。「先行きが全く見えない空港は神戸空港ですから、先行きはまったく見えませんから、仲井真知事には見ていただきたい」と述べた。

 大阪に住む沖縄出身の人たちは…。「最初に発言したのはただのパフォーマンスだったのか」(沖縄出身の人)「実現不可能だろうと最初から思っていたので言えた。そういう計算をしていると問題じゃないか」(沖縄出身の人)。
 そして、突然、基地の移設先として名指しされた神戸市民は…。「無茶苦茶や。そんなことしてもらったら大変。絶対許されへんな」(神戸市民)「発想自体わからない。売名行為にしか見えない」(神戸市民)

 橋下知事は「政治状況は日々刻々と変化している」と釈明しますが、米軍の基地移設というデリケートな問題について軽率に論じ過ぎとのそしりを免れないのではないでしょうか。――

◆辺野古基地移設をと沖縄で演説 013年

 その後の橋下氏の沖縄における発言がふるっている。「辺野古基地移設を沖縄の皆さんにお願いしたい」と安倍政権の辺野古移設計画を全面的に支持したのである。(013年7月)
 ― この基地問題に関して、繰り返しますけども沖縄の自民党は本当に二枚舌ですね。先ほども言いましたけども、普天間。県外、「外に出す、外に出す」と今も言ってるんですよ。安倍首相率いる自民党の本部ははっきりと言ってます。「辺野古に移設」と。僕ら日本維新の会も、沖縄の皆さんには大変申し訳ないけれども、普天間を沖縄以外で、特に本州のどこか、「ここで受け入れられる」なんて案を持ち合わせていないので、大変申し訳ありませんが辺野古移設という方針を公約に書いております。ただ僕らは二枚舌は使いません。

 沖縄に来てもそのことはしっかりと、このように言わさせてもらってます。もちろん反対論があるかもわかりません。しかし他の野党を見てください。全部「県外移設」。民主党も県外。みんな県外。日本の政治家は普天間を全部「沖縄の外に出す」と言っておきながら、その案は何も持ってないんです。民主党だってできなかったじゃないですか。沖縄の外に出すと言って沖縄県民の皆さんを喜ばせておいて、そしてこのようにできないということになって落胆させる。こんな政治はあってはならないと思いますね。僕らは批判を恐れず、反対論を恐れず、選挙を恐れずやってきたつもりです。ですから、この沖縄の地においてもですね、普天間の基地はまずは辺野古移設で何とかお願いをしたいと思っております ―

 過去の「本土も応分の負担を、関西空港へ受け入れも」という発言に何の自省もない二枚舌である。これが安倍・菅の「辺野古移設」に対する最大の応援だったことは、その013年の末、自民党国会議員全員と仲井真知事が雪崩を打って「辺野古移設賛成」に転向したことをみてもよくわかる。

◆脱原発は掛け声だけ 大飯原発再稼働に賛成 012年

 野田民主党政権は、2030年代までの原発ゼロを掲げながら、二つの大罪を犯した。ひとつは財界や経団連などの圧力に屈して、福井県の大飯原発1・2号機の再稼働を認めたこと。もう一つは、大間原発など3原発の工事再開を容認し、事実上、原発ゼロは2070年代まで先送りしたことだ。2012年の5月の大飯原発再稼働が、以後、国会前の脱原発デモ集会という歴史的な反原発運動の出発点になった。
 橋下氏も関西の府県知事で作る関西広域連合で一貫して、大飯原発稼働反対を掲げてきた。ブレーンには通産省を辞めた古賀茂明氏や脱原発の飯田哲也、脱原発弁護士の河合弘之氏など錚々たるメンバーもそろえていた。にもかかわらず野田内閣の大飯原発再稼働方針を、多少の理屈をこねてはいたが基本的に受け入れた。近頃になって、あれはブレーンの飯田氏のせいだ、などと弁解しているが、そう言う決断をしたのは橋下自身である。(編集註:2011年11月に大阪府知事を辞職、翌12月に大阪市長に就任)

 新聞も橋下徹の「転向」を大きく報じた。喜びを隠せない読売新聞は、「橋下市長の理解が決め手、大飯再稼働へ急展開」と題した記事に、再稼働批判の急先鋒(せんぽう)だった橋下市長が理解を示したことで、一気に再稼働容認への流れができた。と書いた。毎日新聞も、「大飯再稼働:橋下市長、一転「『事実上容認、前日発言翻し」と題した記事を載せた。

 ― 大阪市の橋下徹市長は5月31日、関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働について、「基本的には認めない」としていた前日の発言を翻し、「事実上、容認する」と明言した。ただ、「期間限定(の再稼働)は言い続けていく」として、秋ごろをめどに運転停止を求める考えを示した。橋下市長は市役所で記者団に、「上辺ばかり言っていても仕方ない。事実上の容認です」と語った。

 これまで大阪府・市のエネルギー戦略会議などでは、再稼働しなくても電力は足りるとする趣旨の議論が展開されてきたが、「足りるというのは個人の意見だ。きちんとしたプロセスで確定した数字は前提にしなければならない」とも発言。政府が今夏、関西で15%の電力不足が生じると試算していることを踏まえ、「この夏をどうしても乗り切る必要があるなら、再稼働を容認する」と述べた。また従来、「安全が不十分な状態での再稼働はあり得ない」と繰り返していたが、「机上の論だけではいかないのが現実の政治だ。最後は有権者に判断してもらったらいい」と説明した。―(毎日新聞 2012年05月31日)

◆維新の与党化は支持者の離反を招く 参院選の得票減へ

 大阪万博と大阪へのカジノ誘致を一体とした日本維新の自民へのすり寄りと与党化指向は、原発から辺野古問題まで、以前から明らかになっていた。だが今後はどうだろうか。万博やカジノは大阪や近畿では支持されるかも知れないが、関係のない府県では逆に維新支持者の離反を招くのは間違いない。014年の滋賀県知事選挙や沖縄県知事選、そして015年初頭の佐賀県知事選挙などに現れ、それ以降016年7月の沖縄などの参院選挙や11月の新潟県知事選挙ではっきり出ている。大阪維新が初めて国政に登場した2012年以降の衆参選挙の選挙区票、比例区票から見ると、明らかに退潮傾向が見て取れる。

 大阪都構想で、自社公民連合という既成政党連合に反旗を翻したが、現実の政治過程では安倍政権へのすり寄りと、野党から与党への傾向がはっきり現れてきた4年間であった。
 それに対する維新支持者の離反は投票行動に出ている。その兆候は014年7月の滋賀県知事選挙で明らかになった。民主を離党し無所属で出馬した三日月大造氏と自公維新が推す小鑓隆史氏、それに共産から独自候補の坪田五久男氏が参戦した。前年の参院選挙の比例区票で比較すると、自民(208,451)公明(59,127)維新(84,776)で合計352,354票。対する民主出身の三日月は、民主の98,946票のみ。圧倒的に小鑓優位と見られた。主な争点は安倍政権の集団的自衛権の行使容認や関西電力の原発再稼働問題だった。蓋を開けてみると1万3,000余の僅差で三日月が勝利した。

 朝日新聞の出口調査によれば、自民支持層の21%、公明支持層の8%、維新支持層の59%、共産支持層の27%、無党派層の59%が三日月氏に流れた。維新支持層の自民小鑓氏への投票は36%だった。滋賀県知事選挙では橋下党首自身が終盤戦に滋賀県に乗り込んで自民の小鑓候補の推薦演説をぶって、安倍政権にエールを送ったが維新支持者は動かなかった。
 与野党の争点が明確な選挙では、維新支持層の40%前後は常に野党に流れ自民党へは20%前後というのが、その後の沖縄県知事選、長崎県知事選、016年の参院選などで、自民が敗退するパターンでは同じ流れとなっている。

 017年の参院選で、主要政党のなかで唯一、比例区得票が減少したのは日本維新だった。しかも比例区票、選挙区票ともその大多数は大阪を中心とする近畿圏の得票であり、全国的には一部の都市部を除いてははっきりと退潮傾向が出ている。大阪万博、カジノ誘致で大阪など近畿では支持率は維持できるだろうが、それ以外のブロックではさらなる低下を招くだろう。究極のところ、日本維新の与党化は、近畿ブロックの中心の地域政党として存在し得ても、全国的には衰退すると見てよい。維新支持者の投票行動にそれが明確に現れているからだ。012年の総選挙の選挙区選挙で690万票の得票だったが、016年参院選では330万票と半減。同じく012年総選挙の比例区選挙では1,226万票に達したが、016年参院選では515万票とこれまた半減している。衆院と参院では単純な比較はできないが、いずれにしても衆参共に下降傾向にある。そして今回の参院選で選挙区、比例区ともに得票率が一桁台に落ちたことも指摘しておかなければならない。

 016年7月の参院選の選挙区票と比例区票の内訳で見ると、大阪を中心として選挙区票は近畿ブロック全体で205万票で全国の選挙区得票のじつに62%に達する。近畿の比例区票は203万票で全国の比例区票の39.4%と約4割だ。全国46都道府県のうち6府県の近畿ブロックでは確かに強大な得票力を誇るが、全国的には維新の得票は衰退傾向にあることがはっきりしたといえる。

  日本維新の選挙区・比例区における得票推移
画像の説明

 戦後政治史の中で、とりわけ自社さ連立政権以降、自民党と連立を組んだ野党は社会党を先頭に、ことごとく消滅した。維新もその轍を踏みつつあるといえるのではないか。唯一生き残って万年与党の座を確保しているのは、公明党のみである。次号で万年与党公明党の内部分裂について触れてみたい。

 (与論構造研究会代表)


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