【コラム】酔生夢死

日本語は豊かなのか、それとも…

岡田 充

 「それで決断しなくちゃならなかったんだ。音楽を止めるか、名声と共に暮らしていくか?ってね」。元ザ・ビートルズのポール・マッカートニーのインタビューの翻訳記事だ。「だったんだ」「ってね」は、男性ミュージシャンのインタビュー記事によく出る“翻訳慣用語”である。

 日本語吹き替え映画になると、女優のセリフには「だわ」「のよ」が、男優の場合は「だぜ」など「ジェンダー表現」が頻繁に登場する。それが「気にならない」人もいれば、「いまどき『だわ』なんて言う女性、聞いたことない」など反応は様々。私は後者だから、吹き替え版の外国映画はできる限り見ない。
 性差だけじゃない、「吹き替え」映画には、社会的地位や年齢、職業など、背景が異なる人々に応じて、「話し言葉」に大きな差がある。店の主人は決まって客に向かって「はいよ、持ってきな、まけとくから」と「ため口」を遣う。老人からは「じゃよ」が口を突く。でも老人の私は「じゃよ」なんて使ったことない。

 日本語には尊敬語、丁寧語があり、相手の地位に応じて使い分けが必要とされる。若いころ「目上」からの誘いを断る時、「よんどころない(やむを得ない)事情」と答えるべきところを「やんごとない(身分の高い)」と言い間違えて失笑を買った。発音が似ていたから間違ったのだが、慣れない言葉は遣わないことだ。

 「斯くの如く」(漢語的表現)、日本語は「豊か」とも言える一方、社会的地位や帰属によって遣い分けを迫られる「差別的言語」ではないかという批判もつきまとう。冒頭に挙げた性別によって遣い分ける表現はいつから始まったのか。
 言語学者の中村桃子・関東学院大教授によると、女言葉が「正当な日本語」と位置付けられたのは台湾、朝鮮半島など植民地での同化政策から始まった。「女と男で異なる言葉遣いをする」のが、日本のすばらしいところという物語が作られたのだ。「日本女性は丁寧で控えめで、上品だという『女らしさ』と結びつけられた」結果「女なら女言葉を使うはず」という規範が生まれていく。

 初めて台湾に行った1980年代半ば、植民地時代に日本語教育を受けた世代がまだ健在だった。流ちょうな日本語を話す女性が、「でしたのよ」「そうだわね」などと「山の手女性言葉」を遣うのを聞いてびっくりした。恐らくエリート家庭に生まれ育ち、エリート教育を受けたのだろう。すべての台湾女性が「山の手言葉」を話したわけではない。

 「失言大王」の麻生太郎・自民党副総裁は、外相時代に日本が台湾で行った教育を美化する発言をして近隣諸国から批判されたが、教育のチカラは大きい。言語は思考方法を規定する。秋篠宮の長女が結婚し皇室離脱した瞬間、TVアナウンサーは「眞子さま」を「眞子さん」と言い換えた。なんとも滑稽だった。皇室用語で権威付けするのは止めてはどうか。

画像の説明
  藤子・F・不二雄「ドラえもん」から

 (共同通信客員論説委員)

(2021.11.20)
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