【本を読む】

日記という文學

 メイ・サートン/著  みすず書房/刊
 『独り居の日記』武田 尚子/訳
 『70歳の日記』幾島 幸子/訳

高沢 英子

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 ― ひとつ確かなのは、・・私の生きる歓びは年齢とはまったく関係ないということ。それは不変のものだ。花々、朝と夕暮れの光、音楽、詩、静寂、すばやく飛びまわるオウゴンヒワ・・・・。― メイ・サートン『70歳の日記』より

 アメリカの女性詩人メイ・サートンの二つの日記が、最近みすず書房から相次いで出版された。前者はすでに1991年、本誌の執筆者でもある武田尚子さんの本邦初の翻訳が、みすず書房から刊行されている。武田さんは、長年アメリカにお住まいで、あるとき、親友のアメリカの詩人から、この日記を紹介されたとのこと。原題は『Journal of a soritude』。武田さんは忽ちその「王朝の歌人を思わせる繊細でとぎすまされた感性と、やわらかい詩心、背後の古武士のような克己の精神に魅せられ」他の翻訳のお仕事で、以前から交流のあったみすず書房の編集者、栗山雅子さんに相談し、刊行に漕ぎつけたと、日記翻訳のあとがきで述べておられる。
 邦訳の題は『独り居の日記』。こうして二人のすぐれた女性たちの力により、日記は『独り居の日記』というユニークなタイトルで、1991年10月、日本で初めて紹介された。
 そして日本でも、日記文学として高いレベルを備えたこの作品が醸し出す滋味あふれる日常生活の味わいや、思索の奥深さ、豊かな詩情を見事に再現された訳者の、こなれた日本語文章の美しさで多くの読者を魅了し、これまでに19版を重ね、今回またあらたに改装版として刊行されることになったという、知る人ぞ知る大変な名著である。

 かつて、初めて翻訳が出版されて間もないとき、私もふと立ち寄った本屋で、この一風変わった表題に心惹かれて、ぱらぱら立ち読みし、すぐさま買うことに決めたひとりである。そのころ、ちょうど60歳という人生の曲がり角にさしかかり、ひとりで解決しきれない悩みを抱えていた私にとって、この本に日々書き記された言葉のはしばしが、渇いた心に泉のように沁みわたり、長年座右に置く手放せない愛読書となったのである。

 この日記は著者、58歳の時の作品というが、この世で、女性として人間らしく生きるとは、どういうことか、人生の豊かさと幸せを何に見出すか、などを考え抜き、積み重ねてきた豊かな読書や多くの知性人との交流のなかで見出し生み出した独自の思想や、生き物たちや自然への瑞々しい愛、それまでの生涯に溜め込んできた魂の底からの怒りやジレンマ、すべてを包み隠さずつぶさに書きしるす決意で、筆を執った、ということに大きな意味があった。
 日記はアメリカ、ニューハンプシャー州ネルソンの片田舎に買った30エーカーの森の中の一軒家で、1970年、作者58歳の9月15日から書き始められ、翌年9月30日で終わっている。最初の1行は ―さあ、始めよう― という言葉であった。出版されたのは1972年である。

 やがてこの日記は、明敏な女性作家であり文芸評論家でもあったキャロル・ハイルブランが、絶賛したように「女の日記の分水嶺になることができた」のであり、内外の多くの女性たちの共感を得て読み継がれるようになった。
 この翻訳を手にしたとき、当時すでに在米30年のキャリアを持ち、アメリカ人の御主人を持つ家庭の主婦でもあられる訳者の武田さんが、高度の英語理解力を備えているのは言うまでもないとして、日本語の持つ美しさを、今も尚しっかり保持していられることに私は驚かずにいられなかった。彼女の労作によって、私ばかりでなく日本の多くの読者(おそらく女性ばかりでなく男性たちも)このメイ・サートンという稀有な資質に恵まれた詩人の、魂の声を心ゆくまで味わえる幸せを得たのである。

 私事になるが、その後東京に移り住んだ私は、友人知己の愛書家を集めて「メイの会」という読書グループをを立ち上げ、この日記を中心に、月に一度の読書会も始めた。そして訳者の武田尚子さんともメールを通じてお知り合いになることができて、尚子さんの知性豊かな高い見識に、ますます惚れ込んで、彼女を加藤編集長にご紹介し、オルタへのご寄稿も実現したのだった。因みに武田さんは引き続き同じ著者の小説や、詩作品、自伝的エッセー、またその後の日記なども手掛けられ、それらは次々みすず書房から刊行された。
 もともと『独り居の日記』を世に問う前、すでに同じ作者によって(邦訳)『夢見つつ深く植えよ』というエッセーが書かれ、日記に先立つこと4年の1968年にアメリカで出版されていた。そしてそれが、詩人作家としての彼女の真価が初めて大きく評価される転機となっていた、という事情があった。しかし、サートン自身その内容に満足できず、自らの内面を真に掘り下げた作品を書く、という決意のもとに書き上げたのが『独り居の日記』だった。
 因みに日本では、この『夢見つつ深く植えよ』というエッセーは、同じ武田さんによって数年後の1996年みすず書房から出版されている、という事情も付け加えておきたい。
 武田さんはその後、ご家庭の事情で残念ながら途中から手を引かれ、サートンによる数多い作品の翻訳紹介の仕事は、後進の方に譲られた。メイの会では、それらの本も折あるごとに取り上げ、話し合い、鑑賞して豊かな時間を共有する楽しみをもつことができたのである。

 作者メイ・サートンは、1912年、ベルギーの古都ゲントに程近いウォンデルヘム村の美しい田舎家で、科学史の研究をめざすベルギー人の父と、イギリス人の画家とのあいだに生まれたひとりっ子であった。
 1914年、2歳の時、第一次大戦が勃発。ドイツ軍がベルギーに侵攻、家は占拠され、両親とともにベルギーを離れてイギリスに逃れ、翌1915年アメリカに亡命する。この時期についても、彼女は自伝的回想記を書き、ベルギーの先祖たちの生き方やイギリス人の母の生い立ち、アメリカでの幼児教育のユニークさ、をいきいきと描いた。さらにそこには、青春期の大陸での文人たちとの交流がその後の彼女の精神形成に与えた影響力などが、深い理解のもとに細やかに記されている。この本も『わたしは不死鳥を見た』というタイトルで武田さん訳がみすず書房から出版され、文芸を志す者ばかりではなく、あらゆる青春が持つ可能性への挑戦と真実へのひたむきな情熱が、読者に生々しく伝わり、眩しいほどの魅力を放っているのである。

 そして、この夏、また同じ著者の『70歳の日記』(『At SEVENTY』)が、幾島幸子氏の翻訳で、みすず書房から出版された。そして私は武田さんから「とてもいい翻訳ですよ」と推挙され、早速みすず書房からおくって頂いた本を読み進めた。
 読後わたしは、70歳に達した著者メイ・サートンが、この二つの日記のあいだに横たわる十年余のあいだに、確実に成熟し、作家生活を充実させている、という新たな発見と歓びを味わった。そしてページを追うたびにあいかわらず滋味豊かな章句に遭遇し、ますます共感と感動で胸の熱くなる思いで読んだ。
 そして、彼女はこの『70歳の日記』において、遂にキャロル・ハイルブランがいみじくも指摘した、女性の日記の分水嶺にしっかりと立ち、人として女として、みずから切り開いた人生を、はろばろと展望する眼を手に入れた、という感想が湧いてきたのである。原題の『At SEVENTY』は、こうした彼女の心境を、象徴しているかのように思われた。今度の日記は1982年5月3日。彼女の誕生日に書き始められ、翌年の5月2日に筆を擱いている。

 『独り居の日記』の出版と同時に彼女はネルソンを離れ、メイン州の、素晴らしい景観に恵まれた「海辺の家」に移り住んだのだが、この日記は、その家で書かれた。そして彼女は振り返って言う。
 ― 私は40代でネルソンに移り住んだけれど、知り合いが一人もいない人里離れた小さな村で過ごした十五年間に、どれだけ鍛えられ、強くなったことか。本当の意味での私の人生はネルソンで始まった ―(7月8日の日記より)と。
 1995年メイ・サートンは83歳で世を去った。同性愛者でもあったので、終生、普通云われるところの家族は持たなかったが、中年以降ジュディという女性と同棲し、家庭を営んだ時期もある。
 孤独を愛し、独りでいることを大切にし、生きとし生けるものへの敬意と、個性尊重の精神は日記の至るところに見られる。家の周りの小鳥たちも野良猫も、それぞれ名前を持ち、季節季節の花々に囲まれて、晩年は豊かそのものの人生で、多くの友人や愛する者たちと交流し、楽しい悲鳴を上げる日もある。受け取った手紙には必ず返信を書き、日によっては、へとへとになりながらも、数10通に達することがある。

 ― この日記を書こうと思ったときは、穏やかで内省的なものにするつもりだったのに、蓋を開けてみれば自分自身に追いつけないランナーの記録になってしまっている ―(7月4日の日記より)と自嘲めいたため息をつくこともある。
 しかし、この間にも彼女は、日記ばかりでなく多くの詩集も刊行、小説も多数発表していた。
 クリスマスの季節が訪れた時、彼女は日記に ― 七〇歳の年老いたアライグマは、まさに今、良い人生を満喫している ―(12月13日の日記より)と書くが、、その年発表した『怒り』という作品への筆者不詳の書評が、年末に雑誌ウェストコーストレヴユー・オブ・ブックスに掲載され、二重の喜びを味あうことになる。
 ― メイ・サートンのすばらしさのひとつは作品の多様性にある。彼女の著作は一冊として似たものがない。どれも人間生活に典型的な、あるひとつの重要な体験にピンポイントで焦点をあてていて、一作一作がきわめて深く、そこには生きるための知恵が凝縮されている。それを読むことは山の中の冷たい湖に飛び込むようなものだ。でもその湖には癒しの力がある。この作品はただ感動の涙を流させるだけではない。読むことによって、自分自身への理解を深めることができる ―。
 書評を見た彼女は、早速日記にそれを書きとめている。これこそ彼女が長年渇き求めていた作品の意図への明解な解釈だった。彼女は「やっと胸を張って書きとめられる書評が出た」と書き、最高のクリスマスプレゼントだと受け止めたのである(12月29日の日記より)。

 キャロル・ハイルブランが『女の自伝』で「すべての禁忌の中でも、女にとって最大のタブーは、権力に対する願望と、自分の人生を自分で統制したいという願望と同時に、女が怒りをもつことを、公然と認めることだったのである」と書いている、と武田さんが『独り居の日記』のあとがきで、この評を引用して触れていられるが、サートンは、まさにこの固いタブーを突き破ることに、一本のペンで挑戦することに生涯を賭けたひとだった。同じ日記のはじめの方で、彼女の誕生祝のパーテイに駆けつけてくれた友人たちを見て彼女は呟く。― テーブルについた面々を見渡すと、全員もう若くはないけれど、どうにか真の自分自身になることができたひとばかり、という事実に胸を衝かれた。その道筋は誰にとってもたやすくはなかった。すべては愛と献身の上に築かれてきたのだ。―(5月15日の日記より)。
 私は期せずして、ロマン・ローランが1922年から33年にかけて、二つの大きな世界大戦のはざまで、苦渋に満ちて書き上げた『魅せられたる魂』の女性主人公アンネット・リヴィエールの果敢な人生に、思いを馳せずにいられなかった。

 メイ・サートンはある時こんなことも書いている。
 ― 私はまだヨーロッパに根を持っている気がしている。根、それも主根を。手元の辞書によれば主根とは「植物の主要な根。通常側根よりも頑強で、茎からまっすぐ下に向けて伸びる」とある。この根は幼年期の根であると同時に、幼児期の言語の根であり、幼児期に暮らした土地の根でもあると思う。そして私にとっての根はベルギーであり、ホーリーン(幼年期からの親友でフランスで高等教育を受けた女性)なのだ ―と。
 幼いころ、アメリカ人となった彼女はアメリカを深く愛していた。だが、彼女は根底的にはヨーロッパ人でもあり、彼女の詩心も思索の道筋も、多くをヨーロッパに負っていた。そして彼女もまた、アンリエット・リヴィエールのように自立を目指す女性として生き、みずからの手でみずからの人生を切り開く女性として、次代に生きる女性たちに大きな影響力をもつ遺産として、日記を書き残したのであった。

 ともあれ、詩人でもあった彼女の、ひとつひとつの章句は、読むたびに胸に響く。読む人の立場も感性も、それぞれ異なるであろうし、時と場合で味わいも違うこれらの語句を、これ以上、私が恣意的に抜き出すことはやめておく。
 そしてむしろ、直接邦訳で、彼女の日記を読んで、心ゆくまで、この魂の奥から抽出されたような「人生の塩」の味わいを楽しんでほしいと願う。訳が優れているので、詩的味わいも含めて十分著者の意図は汲みとれると思う。

 (東京都在住・エッセイスト)


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