【オルタの視点】

最近考え思うこと

井出 孫六


 僕の生まれる直前、昭和6年9月18日「満州事変」が始まり、昭和20年8月9敗戦まで15年にわたって、郷里の長野県からは全国一の開拓団を満蒙に送りだした歴史がある。
 過去の苦く痛ましい体験を持つ人々の手で飯田市に隣接する下伊那郡阿智村に「満蒙開拓平和記念館」が建てられ、年間5万人を超える来館者が集まる中に、僕もその一人となった。卑劣な過去の帝国主義的植民政策の全貌も冷厳に映し出した展示に打たれた心をいだいて館外に出た僕は、人影少い裏庭の一隅に立つ石柱に「前事不忘 後事師」と刻まれた石碑(いしぶみ)に衝撃を受けた。碑文をひらたい文字に置きかえれば、「前にあったこと(歴史)を忘れるなかれ! 前事は未来の導師なのだ」と読めた。「横浜事件」にもこの古い諺をあてはめて再考してみたくなった。     (2016年5月3日)

◆◆ 憲法記念日を前に

 安倍内閣成立からまもない昨年12月31日の産経新聞に首相の独占インタビューが掲げられた。これを受けるように、元日の『ニューヨーク・タイムズ紙』はドレーク大学のM・マッカーシー助教授の論文で、安倍政権の慰安婦問題に関する河野談話の見直し表明に触れ、「こうした歴史修正主義がはびこる雰囲気は、日本と近隣諸国の関係を円滑にする上で最大の障害だ」と批判。「東アジアで日・韓を最重要同盟国とする米国にとっても、深い懸念材料だ」と指摘し、1月3日のより厳しい批判的社説につなげた。

 安倍首相の新年早々の訪米が延期された背景には、右のような懸念が広がっていたからにちがいない。 英国の『エコノミスト誌』は安倍首相を「筋金入りの国家主義者」と評し、閣僚中に「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の会員が14人いると報じ、春の靖国例大祭の緊張を予見した。

 ドイツの『シュピーゲル誌』は、「隔世遺伝の安倍…過去の危険にすり寄る日本の首相」の見出しで、首相の尊敬する祖父をとりあげ、「岸信介(元首相)はヒトラー政権のもとで軍需大臣を務めたアルベルト・シュペーアの日本版」と断じた。「新首相の歴史修正主義の傾向に疑いの目を向けているのは中国・韓国のみならず、日本を守る米国も東アジアの緊張状態をさらに悪化させることを恐れている」と分析している。

 海外メディアが見過ごしている自民党作成の「日本国憲法改正草案」と「日本国憲法」を読み比べて、もしこの草案が国会を通過したらと、暗然たる気持ちがする。歴史修正主義という名のフィルターがかけられると、かくも凡庸な文字の羅列になるものか。60余年の風雪に耐えた日本国憲法が5月3日、津々浦々で読み直されてほしい。     (2013年5月2日)

◆◆ 横浜事件─67年の歳月(その1)

 1924年夏、細川嘉六氏の論文「世界史の動向と日本」が検閲をパスして雑誌『改造』に載ったことは行け行けどんどんの軍部を怒らせ、特高が動いた。
 細川氏を囲む編集者6人の浴衣がけの慰労会の写真から、芋づるしきに60余名の編集者、執筆者などが次つぎに検挙され、激しい拷問で獄死したもの4名。細川慰労会の写真に並ぶ中央公論の浅石晴世氏も命を絶たれた一人。改造社と中央公論社は解散に追い込まれた。

 被告はみな横浜地裁に起訴されたため、この戦時下最大の言論封殺事件は「横浜事件」とよばれているのだが、敗戦のどさくさの中で次つぎに判決が出ている。治安維持法がマッカーサー指令で廃止されるのを察知したかのように、裁判記録がすべて焼却されて、司法は生きのびただけではない。

 横浜事件の半年前、裁判官と検察官を集めた「臨時思想実務家合同」の席上、「大東亜戦争は、究極するところ米英旧秩序の根幹を為す民主主義、個人主義、功利主義、もしくは営利主義思想を覆滅し、皇国の道義を世界に宣布せんとする一大思想戦に外(ほか)ならぬ」と指示した池田克司法省刑事局長その人が、戦後、最高裁判事として“晩節”を全うしたと知って、わたしは愕然とした。

 横浜事件再審裁判は1986年に始まって23年近い歳月が過ぎる中で、被告本人は次つぎに亡くなっていった。最終の第四次再審の被告人は「亡小野康人」とある。『改造』編集部にあって細川論文の校正をした人で、慰労会写真には細川氏と肩を並べて立っている。40年前に亡くなった小野さんの遺していった判決文が有力な証拠物となって再審は大きく動いた。夫人亡きあと二人の兄妹が再審を引き継ぎ、実質無罪を勝ちとるのに67年が過ぎた。     (2009年4月9日)

◆◆ 実質無罪となった横浜事件(その2)

 横浜事件・再審裁判の経過と結果を、折々の新聞報道で理解することはほとんど不可能だ。思案投げ首のところに、都内で再審裁判の最終報告集会があるときいて、出かけた。
 会場には、横浜事件や再審裁判に関する書籍や冊子が並べられており未見の資料につい手がのびた。

 報告集会では気鋭の主任弁護士とベテランの弁護団長が交々経過を詳しく語ったあと、証言台に立った2人の歴史家と法学者が、それぞれ目から鱗のような見解を述べた。

 横浜事件を解く鍵は、1925年普通選挙法と抱きあわせで成立した治安維持法だ。その第1条には「国体を変革しまたは私有財産制度を否認することを目的とした結社」を組織したり、それに加入してはならぬと示されている。

 それから3年後、時の田中義一内閣は緊急勅令をもって治安維持法に死刑を導入し、「国体の変革」に引っかけようとすることになる。三・一五に始まり、小林多喜二の死に及んで、すでに日本共産党の司令塔はなきに等しいところまで追いこまれているのだが、コミンテルンは無くなりはしない。

 42年8月、9月と雑誌『改造』に細川嘉六「世界史の動向と日本」が載る。その直前に写した細川嘉六を中心として『改造』、『中央公論』の編集者らの並ぶ一葉の写真が日本共産党再建を目論んだ泊会議という虚構の事件にデッチあげられ少なくとも49名の出版社員らが横浜笹下の拘置所に繋がれ、拷問などの虐待で5名の死者が出た。

 敗戦後慌しく判決が下り、裁判書類は裁判所の中庭で焼かれた。『改造』編集者小野康人の妻は夫の血染めのシャツは廃棄したが、裁判書類は保存し、再審は子に引きつがれ、実質無罪の刑事補償が決定した。近く官報と新聞3紙に公告される。     (2010年4月1日)

◆◆ 横浜事件の被害者Sさん(その3)

 わたしは中央公論社に入って数カ月、校正の見習いをした。次長席の隣に、度の強い眼鏡をかけたSさんという老人がいた。残業の多い職場だったが、Sさんは定刻が近づくと机上を片づけ、5時ぴったりに誰よりも早く退社していく。

 次長以外にSさんがことばを交わす場面はまれだったが、Sさんには軽い言語障害などがあって、彼の校正漏れを次長がカバーしてあげているらしいことを知ったのだった。

 ちょうどそのころ、国会に警職法改正案が上程され、治安維持法の再来ではないかと国会がデモ隊にかこまれる事態になった。校閲部も残業を中止して何名かが参加する中にSさんがいたのが意外だった。ともに歩きながら、Sさんの足が幾分不自由そうなのを気づかったわたしに、彼は膝を指さして、横浜事件の後遺症なのだと、聞きとりにくい声でつぶやくように言った。デモ隊のシュプレヒコールと一瞬ずれてSさんの不自由な口から洩れる、「悪法反対」の声が雄叫びのように、わたしの耳に残っている。
 わたしが校正見習いから最も忙しい週刊誌に配属になったのと、Sさんが定年で退職したのと、どちらが先だったのか。今思えば、Sさんをお茶に誘って、彼の体に刻まれた治安維持法の傷の数々を、詳しく聞いておくことが、後輩の義務ではなかったかと、ほぞをかむ思いが湧いてくる。

 (筆者は直木賞作家)


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