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有閑随感録(11)

矢口 英佑

 私が社会人になろうかという時代なので50年ほど前のことになるが、大学生活の後半を迎えると、学生たちの間に「でもしか先生」という言葉がよく飛び交っていたものである。
 「先生にでもなるかな~」「先生にしかなれないな~」といった文脈の中で使われていた。今では考えられないことだが、「先生」という職業は本人が望みさえすれば、比較的門戸が広く開かれていたし、それだけになんとなく軽く見られていたのである。
 当時、教員になるために履修しなければならない教職科目もそれほど多くなく、ほとんど卒業に必要な教養科目や専門科目と重なっていて、きちんと履修して、2週間ほど教育実習を中学か高校で体験すれば、教員免許状取得が可能だった。それだけに「でもしか先生」と自分を卑下したり、相手を揶揄したりしながら、せっせと先生になるために必要な教養科目や専門科目を履修し、教職課程申請をする者も多くいた。

 かく言う私も例外ではなかったが、教職課程を申請しながら、先生になろうとする強い意志はほとんど持ち合わせていなかった。他人に何か教えるということが自分の性に合わないと思っていたからで、今、人生の終末期に入って、それは間違っていなかったと感じている。
 中学、高校の先生になるためには、大学で学んだ専門領域に関わる科目を教えるだけなので、先生になるのも比較的楽だったが、小学校の先生となると話は別で、「でもしか先生」とはいかなかった。基本的に全教科を教えることになり、それは今でも変わらないのではないだろうか。多少教科の分担も行われているようだが……。とにかく小学校の先生は大変だというのが「でもしか先生」になろうとしていた私たち年代の共通した認識だった。

 当時は東京近県の国立大学にも小学校の教員養成学部がいくつかあって、こうした教員養成学部への入学には教員になるという強い意欲と、それなりの受験勉強をしないと合格は難しかった。つまり高校生の頃から自分の将来を堅実に見据えて、その目標に向かってひたすら努力することが求められたのである。
 私の友人のように大学で教員免許状を取得しながらも一般企業に勤め、結局、小学校教員への希望を諦めきれず、通信教育で頑張り、その夢を果たした初志貫徹派もいた。1970年~1980年過ぎまで子供数は増え続けていて(人口割合では減り始めてきていたが)、「でもしか先生」も含めて、教員希望者はそれなりに多かったのである。

 それでは大学の教員、つまり教授とか助教授(現在は准教授)などと呼ばれる者になるのを望むのはどうだったかとなると、少し事情が異なってくるようである。そして、少なくとも私について言えば、ここでも「大学院にでも行くか」式だった。
 もともと「先生」という職業選択が私の頭にないのだから当然なのだが、大学院で学んだあとのことはほとんど何も考えていなかった。そのため修士課程2年(現在は博士課程前期と呼ぶようだが)で修士論文を書いて社会に出るのか、さらに博士課程(3年間)に進むのかについても、自分の将来像はぼやけたままだった。
 ただ確実に言えたのは、私のような文系の大学院に進んだ者、特にまだ社会人になりたくないからといった私のようないい加減な大学院生には、修士課程が一つの分かれ目になっていて、ズルズル博士課程に進んでしまった時には、就職したくても就職できない、かなり危険な水域に入り込むことになるのを覚悟しなければならなかった。

 それにもかかわらず、当時、大学院に籍を置き、名簿には名前があるのに、演習室で顔を合わせたこともない先輩たちがぞろぞろいた。何せ研究領域に関わる授業がせいぜい1週間に3、4コマ程度であるため、先輩たちはすでに博士課程に進んでいて、その単位も履修し終わり、しかし就職口がないという人たちで、籍だけ置いていたのである。
 それではこうした先輩たちは、研究室にも顔を出さずにいったい何をしていたのかというと、多くが大学の非常勤講師や塾の講師など、さらには出版社の編集補助役などをしていたのである。

 残念ながら私のような修士過程に在籍する院生にはこうした仕事は、たとえ非常勤であっても声はかからない。でも私の同輩などは二人ともあまり生活に追われた様子もなく、研究テーマを追いかけていた。無論、家庭教師などのアルバイトは私たちの定番だったので、それはやっていたはずなのだが、あまりあくせくしたところがなかった。
 実は彼らは結婚していたのである。要するに女房に食わしてもらっていたのだが、それだけ真剣に研究者になろうとしていたわけで、私のようないい加減な気持ちではなかったのだ。

 それにしても今の大学院生を見るにつけ、私たちの頃は、まだ精神的に余裕があったような気がする。それは現在の日本の経済状況、雇用状況、更には大学状況が大きく変わってしまったからだろう。
 私たちの頃は18歳人口が増え続け(1992年が約205万人でピーク)、大学進学者数は18歳人口が減少に転じても増え続け、その受け皿として新設大学、新設学部・学科が次々に誕生していった。つまり大学の教員予備軍ともいえる私たちにはとんでもなく恵まれた時代に突入し始めていたのである。

 かくして、いい加減な大学院生の私にも時代の恩恵が巡ってきたのである。私がズルズルと博士課程に進んだ頃、ふと気がつくと、先輩たちの名前が名簿からすべて消え、そればかりか、私の3年先輩がある地方の国立大学の助教授に決まり、しかも10月着任ということで、その先輩が長く非常勤講師をしていたその大学に急遽、私を推薦してくれたのだった
 まだ大学院博士課程の現役院生にもかかわらず、学生としてではなく教師として大学のキャンパスに足を踏み入れる初めての体験は、心の準備もないまま、こうしてあまりにも突然、やって来たのだった。

 (元大学教員)

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