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有閑随感録(17)

矢口 英佑

 2020年4月7日に安倍政権はようやく緊急事態宣言を出し、学校休校、外出自粛、テレワーク実施、店舗営業休業など、人間と人間が接触する機会を極力避ける(それ以前から自粛要請はあったが)ことを国民全体に強く求めた。

 出版関係でも大手の出版社は軒並み出社自粛態勢を取ったため、神保町界隈にある小学館、集英社、岩波書店などの建物から人の出入りがパタっと消えた。そして、靖国通りに面して軒を並べている古書店(靖国通りだけではないが)がすべてシャッターをおろしてしまった。
 数軒、営業している書店の店頭には、わざわざ「新刊本販売書店」の張り紙が出されていた。小池東京都知事の休業要請が古書店のみを対象としていたからで、神保町ならではの光景だったとも言える。古書組合のメンバーでないことの区別化を知らせたかったのだろうが、三省堂、東京堂など大手の新刊取扱い書店は休業していた。

 4月8日以前にも企業の自粛は行われていたはずだが、昼休みともなれば、靖国通りから1本引っ込んださくら通りやすずらん通りは、歩道だけでなく車道にも人がはみ出して行き交っていたものだった。道の両側に並ぶ飲食店や弁当屋に足を運ぶこれほど多くの会社員がどこに潜んでいたのかと驚かされるほどに。

 4月8日以降は飲食店の営業が夜8時まで、アルコール類は夜7時までとなったが、それでもしばらくは、営業を続ける店がそれなりにあった。一方、幹線道路の靖国通りの飲食店は休業態勢を取る店が多かった。神保町界隈は喫茶店とカレー屋が多いのでよく知られているが、それらの店が軒並み休業し、ラーメン屋やうどん屋なども休むと、人出が一気に減ってしまい、神保町が古書店の街として知られ、足を向ける人がそれなりにいたことをいみじくも教えてくれることになった。

 夜8時までとはいえ営業を続けていた飲食店も客足が激減すれば、経費ばかりかさむので、むしろ東京都の感染防止協力金を受け取る方が賢明と判断したからなのか、4月8日以降、徐々に休業する店舗が増えていった。気がつけば牛丼屋も立ち食いそば屋も休業していて、私のいる出版社周辺には時としてゴーストタウンかと見間違うほど歩行者がいなくなってしまった。

 少なくとも神保町界隈の飲食店の営業自粛の動きを見ていると、安倍政権の緊急事態宣言やそれに対する救済措置に応えているのではなく、東京都の緊急事態要請に呼応しているようである。支援金の支払でも煮え切らない安倍政権の施策より明確で、支援の仕方もわかりやすいからだろう。緊急事態宣言の延長を5月4日に安倍首相が発表すると、小池都知事はすぐさま協力金の追加支給を発表し、引き続き休業を続ける古書店ほか飲食店はここ神保町界隈では少なくない。

 今回のコロナウイルスで、出版関係でも自宅ワークに移行した事業所も少なくないが、私がいる出版社では強制的在宅ワークとはせず、仕事の兼ね合いもあることから個人の判断に任せる、となっている。現在の出社率はコロナウイルスの恐怖も物ともせず(?)7割程度だろうか。消毒スプレー、ペーパータオル、窓開け、マスクは見慣れた光景となり、手袋をしてデスクに向かっている職員もいる。
 私はといえば、電車ががら空きの昼過ぎ出社、18時退社、各駅停車利用で通勤を続けている。ただし社長からお呼びが掛かると、17時過ぎから飲食店探しが始まる。しかもアルコール提供は19時まで、20時閉店なのでかなり忙しい。

 つい数日前、仕事が手間取って、19時過ぎに数人の社員と退社、何か食べようとなったものの、営業している店を探すのに30分ほどかかってしまい、ようやく腹の虫をなだめるという、これまでなら考えられない経験をした。ただ、3密の典型が飲食店と思われがちだが、このような時期は誰もが入店を避けようとするのか、飲み屋でも食べ物屋でも客は少ない。ただし、ゆっくり落ち着いて飲み食いはできない。

 でも私は、このように飲食店だけでなく多くの事業所やさまざまな店舗が早じまいするのをどこかで歓迎している。
 なぜなら、私たちはいつの間にか〝欲望のしもべ〟に成り下がってしまっていたように思えるからである。時も場所も関係なく欲望を満たせとばかりに動き回り、さらにはこれでもかというように広告・宣伝が私たちの目と耳に襲いかかり、それを満たすために金を得ることに奔走し、肉体を、精神をすり減らしてきていた観があるからである。
 人間が持つ「上昇志向」を否定するものではないが、その傍らには〝満足を知らない欲望〟がまとわりつき、人間を、社会を鞭打ってきているのが現在のように思えて仕方ない。

 日が暮れたら家に帰り、日が昇ったら働きに出る。自然と共存し、その動きに合わせ、分をわきまえた生き方、私はこんな生活を望んでいるのかもしれない。

 (元大学教員)

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