【投稿】

有閑随感録(2)

矢口 英佑


 定年退職後、人様との繋がりは大切にしなければならないことを、あらためて教えられることになった。まさに〝人生、袖すり合うも多生の縁〟というところだろう。
 散歩ぐらいしかやることがなくなった年金暮らしの私の生活ぶりを知った、長年つき合ってきていたある出版社の社長が声をかけてくれたからである。「ボケ防止のためになるだろうから、ウチで机とパソコンを用意したから」と。
 ある出版社の社長とは、20数年前に本を出していただいた(そう、まさに「いただいた」という表現がふさわしいだろう。なにせ訳注が全体の3分の1を占めて、800頁を超える、日本ではほんの一握りの人にしか知られていない人物の回想録で、とても売れるとは思えないシロモノだった)論創社の森下紀夫氏である。

 今までに著書や訳書など7、8冊ほど出してもらってきているのだが、よく考えてみると、1冊を出す前に、たいてい数回一緒に飲んでいる。旧知の執筆者とは、これといった用事がなくても、ときどき「旧交を温める」(森下社長には「飲む」と同義語)のも編集者の仕事と見ているからだろう、どうしているのだろかと私が思う頃に、実にタイミングよく「会いましょう」と連絡が入るのだ。
 私は決して本を出したいという下心があってお誘いに乗っているわけではなかった。ただ間違いなく、飲んでいるときに、問わず語りに私の関心事や、進行中の仕事のことなどを話してはいたのだが。おそらくそれが森下社長の〝下心〟だったに違いない。

 そのようなときの森下社長の返事は、たいてい「それ、出しましょう!」だった。否定的な言葉は、聞いた記憶がない。通常、大出版社は言うまでもなく、たとえ零細出版社でも、出版が確定するまでには、出版対象物の内容説明、出版対象物の価値や日本で出版する意義、類書の有無等々、とにかく手間と時間を覚悟しなければならない。おまけに「残念ですが・・・」の返事が多いことは言うまでもない。それだけにあまりにもあっさりと「出版する」という反応に「ホントにいいの?」と初めの頃は半信半疑だったものである。

 この「ホントにいいの?」は、〝自分の原稿を本にする価値などあるのか→たとえ価値があっても売れるとは思えない→申し訳ない〟という思考経路を経ていた。そして、原稿が書き上げられているわけではないのだから当然なのだが、原稿の期限を切られたこともなかったし、「それ、出しましょう」から数年経過しても、原稿催促の連絡が入ることもなかった。私とすれば日常業務に追われて、原稿執筆に専念できず、ズルズルと時間だけが過ぎていくという状況が続いているわけで、その間の「旧交を温める」ときには、情けない原稿進捗状況の報告をすることもあった。
 どうやら森下社長の「それ、出しましょう」は、執筆者への激励とやる気を起こさせる魔法の言葉になっていたようで、私などはすっかりその魔法にかかってきたのかもしれない。

 執筆者として長年、論創社に出入りしていた関係から編集者の方々ともほぼ顔見知りであったことも、「机とパソコンを用意した」というお誘いへの抵抗感を和らげることに繋がったようである。また我ながら驚いているのは、人様の原稿に目を通し、チェックを入れ、執筆者とやりとりをし、原稿の割り付けをし、組版会社や表紙・カバーデザイナーと連携をとる、校正を重ね、宣伝文句を作成し、マスコミに書評依頼をする等々の一冊の本が出来上がるまでにこなさなければいけない仕事内容について、森下社長からはまったく説明を受けないままに会社に足を運ぶことを承諾していたことである。
 ここでもどうやら私は社長の「机とパソコンを用意した」という魔法の言葉にかかっていたようである。執筆者と編集者、立場が違えば大違いで、その後の会社での私の右往左往ぶりは想像にお任せすることにする。

 私が現在、担当しているのは「企画編集費」を原稿執筆者からいただいて本を出す仕事である。一部出版費用は負担していただくけれど、日販やトーハンを通して一般書店に並ぶ通常の書籍である。論創社としても一定程度の部数がさばけないと赤字なってしまうのである。
 自費出版とは違って、一部買い上げではなく、逆に100部贈呈をすることにもなっている。つまりたとえ一冊も売れなくても版元は赤字にならない自費出版とは大きく異なっている。それだけに編集者は常に一般読者を念頭に置く必要がある(ということも最近知ったばかりだが)。
 それではなぜ私が担当するような出版形式を一部にしても取り入れなければならないのか。ここには現在の出版界を取り巻く、想像を遙かに超えた危機的な状況と大きく関わっているのだが、この問題はまたの機会に譲ることにする。

 (元大学教員)

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