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有閑随感録(58)

「国立大学法人法改正案」から思うこと
矢口 英佑

 この改正案、ほとんど関わりがないと思う日本の国民は多いにちがいない。そもそも「国立大学法人法改正案」とは何か、知っている人は少数のはずである。それも当然で、この改正案に直接関わってくるのは、国立大学のみで、しかも大規模国立大学が対象であり、当面は東北大、東京大、京都大、大阪大、名古屋大・岐阜大を運営する東海国立大学機構の5法人となる見通しである。関わってくる人がごく少数で、ほとんどの日本人には直接的にその荒波は及んでこない。それだけにマスコミの取り上げ方も大きいとは言えない。
 今回、政府が打ち出した改正案では、学生数、収入などが多い上記の国立大学を「特定国立大学法人」として位置づけて合議体の「運営方針会議」の設置を新たに義務付けている。そして、この合議体の「運営方針会議」に大学の中期計画・目標や予算・決算を決議する権限を持たせる。そのほかに「運営方針会議」の決定に従って運営されていないと判断した場合には学長に改善を要求したり、さらには学長の選考・解任に関して意見を述べたりすることができることになっている。
 以上の「運営方針会議」の位置づけを見ると、文科省はこの「会議」に学長をコントロールできる役割を与えているらしいことが窺える。このような変更を加えたのは、現在の国立大学法人は学長に権限が集中し過ぎていて、大規模大学となれば大学行政に知見を持つ多くの人材や利害関係者がおり、こうした人たちの力も借りて、学長だけでなく複数の人びとで運営していく方がより安定すると判断したからだという。

 なるほど〝三人寄れば文殊の知恵〟というわけなのかもしれない。しかし、2003年7月に「国立大学法人法」を成立させ、翌年の2004年4月に当時、87校あった国立大学すべてが法人化されたのは今から19年前のことだった。
 注意しておかないといけないのは、この法人化は国立大学側からの主体的な動きによって実現したものではなかった。しかも、2015年には「学校教育法及び国立大学法人法の一部」が改正され、運営費交付金の削減や大学の運営をスムーズに実行できるように学長への権限集中を「改革」の柱としたのだった。
 そのときからすでに大学教員たちからは大学の自治や学問の自由を危うくするものであり、学長を筆頭とする経営陣が国の意向に逆らえなくなるとの懸念の声があがっていたのである。

 それが今になって今度は学長に権限が集中し過ぎているから合議体の運営構造にしようというのである。ここでも大学側、教員側からの主体的な動きによって変えることになったのではない。今回の変更に至る経緯を見れば、大学教育の重要事項を協議するはずの政府の「中央教育審議会」に諮られることもなく、国立大学協会にも事前にこの変更案が知らされてもいなかった。藪から棒の「国立大学法人法改正案」だったわけで、「問答無用」とばかりに進められたと言ってもいいだろう。
 改正案は、運営方針会議を「学長と3人以上の委員で作る」とし、委員には学外からの参加者も想定されていて、委員の任命には文科相の承認が必要となっている。
 12月12日の参議院文教科学委員会で、「運営方針会議に大学の自治や学問の自由に対して理解のない人が委員に選ばれることはないのか」との質問に対して、盛山文部科学大臣は「大学が運営の当事者として、発展に取り組んでいきたいと考える人を学内外から人選して運営方針会議としての責任と役割を果たすことが重要」としながら、「民間企業の実務経験者を想定している」とも述べている。
 この文科大臣の答弁からはすでに「大学の自治や学問の自由」に黄信号が灯っていると言えるだろう。なぜなら文科省が「運営方針会議」の委員にすでに「民間企業の実務経験者を想定」してしまっているからである。大学側からの自由な人選に早くも規制がかけられているのだ。しかも「大学に関する理解を深めることができる取り組み」とはどういうことだろうか。
 私流の理解では、「民間企業の実務経験者」は大学行政にずぶの素人でもよいと言っているわけで、このような人物に学長の選考・解任に関してあれこれ言ってほしくないとつい思ってしまう。私の経験から言えば、「民間企業の実務経験者」はどこまで行っても「民間企業の実務経験者」でしかなく、企業人の発想から抜け出せない人が多い。そのためだろうか〝組織で決めたことには従え〟と何のためらいもなく言えてしまう人も少なくなく、このような人物に「学問の自由」などは結局、表面上の理解に留まってしまうのである。

 このように見ると、国立大学協会が強い危惧を示し、「運営方針会議」の設置した大学とそうでない大学とで差別化することのないよう求め、さらに「運営方針会議」を設置する国立大学法人の自主性・自律性を尊重せよ、といかにも国立大学協会らしい声明を出したのは当然だろう。
 また有志の大学教授らでつくる団体が学長の重要な権限を「運営方針会議」に移譲することは、学内の民主的な意思決定の仕組みを葬り去り、学外者による大学支配を可能とし、「大学の自治」「学問の自由」を奪う、として抗議声明を出したのも頷ける。

 しかし考えてみれば、2004年4月からの国立大学法人化、さらには2015年の「学校教育法及び国立大学法人法の一部改正」によって、学長のリーダーシップを促すために、教授会が大学の「管理・運営に関する事項」を審議、決議することができなくなり、「教育研究に関する事項」についても学生の入学等、成績、学位の授与について審議できるだけとされてしまっていた。
 そして、骨抜きされた教授会のありようはそのままに今回の法改正である。すべて文科省の主導であり、文科省の意のままに国立大学の様態が変えられて来ているのである。つまり時の政府の判断次第で確実に「運営方針会議」に反映されていくにちがいない。理由は明白で、委員の任命には文科相の承認が必要だからである。
 承認拒否など起きないと能天気なことが言えないのは、政府から独立して政策の提言などを行う日本学術会議の会員について、2020年に菅総理大臣(当時)が6人の会員を任命しなかったことが教えている。

 日本の教育基本法の「教育の目的」第一条には「教育は人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と記されている。
 しかし、今回の「国立大学法人法改正案」を見るかぎり、この条文も立場が異なれば異なった相貌を見せ、異なった方向性が示される可能性があることを忘れてはならないと教えているようである。 

元大学教員

(2023.12.20)
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