【コラム】
有閑随感録(67)
再び被爆者と被爆体験者
矢口 英佑
2024年9月9日に長崎被爆体験者訴訟に対する長崎地方裁判所の判決は、44人の原告のうち15人だけを被爆者と認めるというものだった。
被爆者と被爆体験者を分ける納得のいく説明がないまま、それが罷り通っていることについては前回書いたが、要するに国も裁判所も、特に国は被害者の立場に親身になって立ち、〝被爆〟という事実を受け止めていないと判断するしかない。
だからこそ、この判決から12日後の10月21日に、岸田総理大臣(当時)と武見厚労大臣(当時)が長崎地裁の判決を不服として控訴する決定をしている。
これには前段があって、それより3日前の10月18日に長崎県の大石知事と長崎市の鈴木市長が岸田首相とオンライン会談をして、国が控訴しないよう要請していたのである。
訴えられていたのは長崎県と長崎市であるにもかかわらず、国に控訴権があるためにこうした要請が行われたわけだが、県と市は今回の判決では原告44人全員を被爆者とは認めなかったものの、一定の前進があったと評価していたことになる。
訴えられた被告側が原告側の主張を一部認めた判決を歓迎するというのも奇異といえば奇異だが、長崎県と市は国よりもずっと〝被爆〟した人びとに寄り添っていたことを証明している。
それにしても、国の控訴理由が、とにかく控訴ありきで持ち出されてきているように私には思えて仕方ない。
国はすでに確定している最高裁判決と今回の長崎地裁の判決で、証拠に対する考え方が異なっているとし、今回の裁判では、同じ事情を持つ同様の地域に対する考え方が示されていない。そのため手帳を交付する統一的な基準を作ることが難しく、被爆者援護法の公平な執行が困難、というのが控訴の理由である。
国は被爆地域を爆心地から半径12キロ以内と決めているにもかかわらず、それよりも更に狭い範囲に限定した地域を「統一的な基準」の適用範囲とし、それが「被爆者」とする公平な判断ができる根拠と言いたいのだろう。そのため、それから外れた地域をも含めると、統一的な基準作成は難しく、公平な「被爆者健康手帳」の交付とは言えなくなる、これが今回、国が控訴した理由、言い分と言えそうである。
しかし、被爆者援護法(旧原爆医療法と旧原爆特別措置法を統合して1995年7月施行)では、原爆放射能による被爆者の健康被害援護策は国の責任で行う、直接被爆(1号)、投下後2週間以内に広島、長崎に入市(2号)、身体に放射能の影響を受けるような事情の下にあった(3号)、胎内で被爆(4号)のいずれかに該当すれば、「被爆者健康手帳」が交付され、医療保険の自己負担分を国費で賄い、疾病に応じ手当を支給する、となっている。
この原点に戻り、ここに記された言葉をきちんと読みさえすれば、国が線引きして区別している「被爆体験者」も、まちがいなく「被爆者」であることは火を見るよりも明らかである。
国がみずから決めた狭い限定的な線引きを絶対視しているがために、「被爆体験者」などという、理解に苦しむ区別化呼称を編み出したことがわかるし、今回の控訴理由も、この膠着した発想から一歩も出ていないことがよくわかる。
一方、長崎被爆体験者訴訟で被爆者と認定されなかった原告について、9月24日に長崎県と市を相手取り、福岡高等裁判所に控訴したが、当然の対応だろう。結局、長崎県と市も国の意向を汲んで、控訴したため双方が上級審で争うことになった。
興味深いのは、長崎県と市である。彼らは控訴しながら被爆体験者の救済、具体的には被爆者健康手帳の交付を実現させたいと考えていることである。国があくまでもみずから決めた線引きから逸脱した被爆体験者を被爆者とすることを認めない姿勢とは大きく異なる点である。
原爆が広島と長崎に落とされ、甚大な被害を被った人びとにはもともと責任はない。原爆の被害者を生み出したのは国にほかならない。だとすれば、その被害者を救済する責任が国にあることは言うまでもない。だからこそ「被爆者援護法」が定められたのであり、被爆者と被爆体験者の線引きなどありえないはずである。それでもこの線引きを持ち出し続ける御仁たちは、もう一度1945年8月6日と8月9日を思い起こしてみて欲しい。そして、もう一度「被爆者援護法」をじっくり、腰を据えて読んで欲しいものである。
元大学教員
(2024.10.20)
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