【コラム】
有閑随感録(70)
初任給引き上げ
一年前の2024年春闘では組合の要求に満額回答する企業が少なからずあっただけでなく、多くの大手企業が続々と初任給を引き上げた。新型コロナが猛威を振るっていた時期からは考えられなかった様相になってきている(こうした一般企業の給与引き上げに連動するように昨年8月には人事院が国家公務員の月給を平均2.76%(11,183円)引き上げ、ボーナスを0.1カ月増の年4,6カ月とするように勧告していた。これによって大卒の初任給は23,800円上がることになった)。
企業が組合の要求額に沿うような回答を出し、初任給も引き上げるということは、単純に考えれば、カネが出せるのだから儲かっているということになるのだろう。さらに言えば大手企業は経営が順調で余裕が生まれていたのであり、今後の自社経営に明るい見通しがあるということになる。
そして大手企業の初任給の大幅なアップについて、企業側からの説明では、優秀な人材を獲得する企業間の競争に負けないためだそうである。これには就職希望者(多くは大学卒業生)の数が減少してきているという少子化の影響が出始めていることが大きく関わってきている。
この少子化の影響はすでに大学では深刻な問題となっている。入学者獲得競争は激しくなるばかりで、今や全国の大学の半数近くが定員割れを起こすような状況になっている。こうした流れは、出生率が下がり続けている現在の日本ではかなり長期間にわたって改善は期待できず、定員割れを起こす大学はさらに増加するだろう。だからなのだろうが、文部科学省は店じまいに追い込まれる兆候の見られる大学への支援は行なわず、店じまいの方法を指導する方向に舵を切ってしまっている。
しかも大学が定員割れを起こさないための学生獲得に向けた方策は、ほぼ出つくした観がある。国立大学でさえ決められた数科目の筆記試験による選抜方式ではない、総合選抜方式(あらかじめ決められたテーマでの作文や面接などによる)を一部だが取り入れ始めている。こうすることで一定数の学生を早めに確保できることになる。
それでも国立大学はまだ受験者を〝選抜〟することができている。だが、私立大学となると、とにかく定員割れを起こさないために、従来なら不合格となったにちがいない受験者まで入学を許可する傾向が年々強まってきている。したがって応募者のほぼ全員を入学させても定員を満たせない大学、学部は今後、増えこそしても減ることはないだろう。
こうした大学の実情を企業側は掴んでいて、できるだけ優秀な人材を獲得しようと躍起になっているのかもしれない。もっとも、優秀な人材と言うが〝優秀〟とはわかったようでわからない言葉である。おそらく企業によって〝優秀〟の捉え方は異なっていて、自社の業務内容に適し、自社の今後を託せると判断した人材が〝優秀〟とされるのだろう。
ところがそうして〝優秀〟な人材を選抜、確保したつもりでも大卒新入社員の3年以内の離職率は3割に上る。これは厚生労働省の調査による数字だが実際にはこの数字を上回っている可能性が高い。大学でも「就職率」は把握しやすいが、「離職率」は卒業後のことなので追跡調査がスムーズに運ばず把握が難しいのが実情である。
離職する理由はさまざまなようだが、職場での上司や同僚との人間関係など働きにくく、労働意欲を阻害する要因が割合としてもっとも多いと言われている。そうだとすると企業側が高額の初任給を提示するのは、優秀な人材確保はあくまでも表向きの理由で、実際には早期の離職を防ぐためなのかもしれないなどとあまのじゃく的に思ってしまう。
それはそれとして「ユニクロ」で知られるファーストリテイリングが2023年春に初任給を30万円にしたのに続き、2025年春には33万円に上げるとのこと。三菱商事は昨年からすでに32万5千円に、さらに岡三証券グループは2025年から5万円増で30万円に、三井物産や伊藤忠商事など大手商社も30万円を超えている。また東京海上日動火災保険は2026年4月に約41万円に引き上げるという。ただしこれには転勤と転居が伴う場合という条件がついているのだが。
いずれにしてもこれだけ初任給を上げると、すでに入社している中間の社員の給与とのバランスを取る必要が出てくるにちがいない。そのようなことはこちらが心配することではないのだが、入社後10年、20年の社員は子育てに、教育費にと出費が重くのしかかってくるだけに気になるところである。
また、これだけ初任給を引き上げることができる大手企業に対して、中小企業側は複雑な思いでこうした状況を見ているかもしれない。給料やその他の待遇面での格差がさらに大きくなってしまうのではないかと、これまた気になる。
それにしても大手企業の初任給の大幅なアップは優秀な人材を獲得する企業間の競争に負けないため、ということのようだが、たとえ〝優秀〟と判断した新入社員でも即戦力にはならない。企業内での育て方によって大きく異なってくるはずである。「玉磨かざれば光なし」であり、どのように育てるかによって〝優秀〟な社員となって頭角を現して来る者もいれば、いつの間にか退職してしまう者も出てくるのだろう。
大学に入学してきた学生をどのように教育して社会に貢献できる人間に育て、送り出すのか、大学の教育力が問われる時代である。これからの生き残りをかけた大学間の競争は、まさにこの「教育力」にかかっているといっても言い過ぎではない。落ちこぼれそうな学生を見捨てずに、どのようにすくい上げ、どのように育てるか、それと同じことが企業にも言えそうである。なにも〝優秀〟な人材でなくても、大幅な初任給引き上げがなくても、入社後の育て方で光り輝く社員は現われてくるにちがいない。
企業にも社員への教育力が問われているのである。
元大学教員
(2025.1.20)
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