【コラム】風と土のカルテ(41)

末期患者の切実な願いに応えた看護師の機転

色平 哲郎


 7月下旬、佐久総合病院本院で「農村医学夏季大学講座」が開かれた。
 この講座は、夏の信州山間部の涼しさと静かな環境を利用して、市民大学的なものを開催しようという発想で、1961年に始まった。

 1992年以降、講座のなかで「若月賞」の表彰式が行われている。
 若月俊一名誉総長の遺志を継ぎ、全国の保健医療福祉分野で「草の根」的にしっかりと活動されている方を表彰する賞である。

 今年は、川崎医療生活協同組合川崎協同病院の外科部長の和田浄史さんと、社会福祉法人浴風会認知症介護研究・研修東京センター研究部部長の永田久美子さんのお二人が受賞した。
 それぞれ素晴らしい活動をされており、今回はまず和田さんのことをご紹介したいと思う。

●刑事事件の後、ただ1人残り…

 和田医師は1992年に横浜市立大学医学部を卒業後、同大学病院での2年間の初期研修修了後、第二外科学教室に入局。
 1998年に地域医療を志して大学医局を退局し、川崎協同病院に入職した。

 その直後、病院の存続が危ぶまれるほどの衝撃的な事件が起きる。
 「気管チューブ抜去・薬物投与死亡事件」だ。
 同病院の医師が、気管支炎喘息重積発作で搬送され、入院した58歳の男性患者の気管チューブを抜管後に筋弛緩薬を投与して死亡させたとして殺人罪に問われた事件だ。
 その処置から4年後、事件は公表され、医師は逮捕、起訴された。

 事件については、川崎協同病院が「『気管チューブ抜去・薬剤投与死亡事件』への声明」を出しており、そちらをご参照いただきたい。
 http://www.kawasaki-kyodo.jp/medicAl_sAfety/process#b-86917

 この事件発覚後、川崎協同病院に7人いた外科医は和田医師1人となる。
 そこから地元の川崎市川崎区桜本の地域へ深く入り、住民とともに地域医療を再生した。
 患者さんの信頼を回復するうえで和田医師が心がけているのは「患者の立場に立つ医療」。
 それもチームで行うところに特色がある。

●手術を終えた医師が屋上で見た光景

 一例を紹介しよう。
 直腸癌末期のAさんという男性患者が入院していた。
 離婚した奥さんとの間に中学生の息子がいた。
 Aさんは、ナースコールで「息子に会いたい」と1日100回以上繰り返したが、息子さんの消息がつかめない。
 夜中も「息子に会わせてくれ」と叫び、他の患者さんの療養に支障を来すようになった。
 和田医師は薬で鎮静するしかないと何度も思うが、とどまって、何かいい方法はないかと思案した。

 ある日、Aさんの訴えに困り果てた看護師が、「そんなに子どもに会いたいのなら」とAさんを小児科病棟に連れて行った。
 Aさんの表情は見違えるように変わった。
 「僕はもうすぐ死ぬけれど、未来のある赤ちゃんを見ていると癒される。また連れていってほしい」と言った。

 翌週、緊急手術中の和田医師に「終わったら屋上に来てくれませんか」と看護師から電話が入る。
 手術を終えて、屋上に行くとAさんが大勢の子どもと遊んでいた。
 看護師たちが自分の子どもを連れてきて、Aさんと遊ばせていたのだ。

 「今日はこどもの日。
 自分の子どもでなくても癒されるなら、(小児科の患児でなくても)うちにゴロゴロいるじゃないのと思ったの」と看護師は言ったそうだ。

 こういう関係性と環境をつくるまで、和田医師と看護師、コメディカルの方々は、大変な努力を重ねたに違いない。

 (長野県・佐久総合病院・医師)

※この原稿は著者の許諾を得て『日経メディカル]』2017年7月28日号から転載したものですが文責はオルタ編集部にあります。
 http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201707/552173.html 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧