【沖縄の地鳴り】

本土復帰50年に思う

平良 知二

 5月15日は沖縄が日本本土に復帰してから満50年、節目の記念日である。沖縄県内の新聞やテレビは今年に入ると特集や連載を組み、特別番組で過去の映像を流したりしている。最近ではほぼ連日の報道となり(この原稿は12日執筆)、50年前の、かつて自分もいたデモの様子などもテレビに映し出されたりして、ある種懐かしく当時の世相、社会と向き合っている。

 50年前の5・15(ゴー・イチゴー)はよく言われるように大雨であった。沖縄は梅雨の時期であり、その日もかなり強く降った。雨に打たれながら、勤めている新聞社の労働組合の一員として県民大会に参加し、デモ行進をした。
 歴史的な1日とあって東京では政府主催の復帰記念式典が開かれたが、米軍基地が撤去されないなど復帰の在り方に地元沖縄では反発が強く、那覇での県民大会は「基地の即時・無条件・全面返還」を求め、日米両政府を糾弾する集会となった。
 多くの組合がストライキで参加し、新聞社も社員の大半がストに入ったため、少人数の管理職が新聞製作にあたった。記者、カメラマンの多くはストで仕事(取材等)はせず、翌日紙面は通常に比べかなりのページ減を余儀なくされた。活字拾い、組版など制作現場も大変だった。歴史的新聞らしい姿(つまり歓迎されない復帰の紙面)になったと言えば言える。

 そんなことを思い起こしながら、もう50年も経ったのか、一体どこがどう変わったのか、いろいろ振り返ってみるのだが、くっきりと結ぶ印象的な像が少ない。半世紀という長い年月ではあるが、自分の貧相な過去を振り返る自己嫌悪的なものもあり、脈絡のない記憶の像が点々と飛び散っているだけである。
 その中で、復帰前後の5、6年ほどか、集会とデモによく参加したことは記憶の底に残っている。「基地撤去! 安保粉砕!」を叫んだあとの、仲間たちとの疲れ直しの飲み会が楽しみであった。本業の仕事(取材活動)については点々とぼやけていて、大げさに言えばデモが日常化した日々であった。

 そういう体験もあってか、沖縄の時代状況を個人的に、70年代は「政治」、80年代は「経済」と性格付けしている。米軍基地に対する抗議行動が頻繁だった70年代は、社会全体が何かと騒がしく、復帰混乱期の状況を引きずり、忙しかったような感覚を持っている。労働組合の役員をしていたせいかもしれない。
 それが80年代になると、経済状況が一定の安定期に入り、県政も保守が主導権を握って将来の見取り図、展望を経済中心に描くようになった。インフラ整備も進み、経済重視の雰囲気が濃くなった時代だった。基地への関心は薄くなったような記憶がある。

 その次の、基地問題が再びクローズアップする90年代(特に後半)は沖縄の転機の時代と言っていいのだが、個人的には特に性格付けはしない。ソ連が崩壊して冷戦構造が緩和されたはずなのに沖縄の米軍基地はなぜ居残るのか、日米両政府に強い不信を抱いたことを覚えている。米軍基地撤去を実現する好機であったはずだが、そんな動きはなかった。強いて言えば「基地不動」であったか。
 ただ、今に続く普天間基地(つまり辺野古新基地)返還問題はその時の変化と無関係ではないはずだが、沖縄が望む基地撤去とは真逆に向かっている。

 重要な90年代はさて置き、個人的には70年代、80年代を上記のようにみている。単なる個人的な体験、一人よがりの感覚による区分けに過ぎないのであるが、本土復帰後の沖縄社会の歩みを考える時、時代相の変化を読み解く必要はあると見ている。どのような変化があったのか、なぜそのように変化したのか、変わらないものは何か。
 2000年代になって「文化」の時代という声が出るようになった。全国的な沖縄人気が背景にある。沖縄の歌、踊りが注目され、観光地としてスポットを浴び、「文化」がここかしこに広がった。
 一言だけで時代を表す乱暴は承知しているものの、時代志向みたいな雰囲気がその時、その社会にはあるように思う。

 さて、今の沖縄はどういう時代か。コロナウイルス、さらにウクライナ(ロシア侵略)という世界注視の事態が続く中、その行方をじっと見守る、いわば世界情勢に強いられて動きが取れない状況、と言うべきか。10年どころではない、1、2年先も見えない閉塞感が覆っている。
 しかし、50年の節目であるからには10年と言わず次の50年のことも考える必要があろう。個人的死のはるか先のこととなるが、望ましい未来、具体的な方策、実現可能性など検討し「○○の時代」を練らなければ、と冗談半分に言い聞かせている。

 (元沖縄タイムス編集局長)

(2022.5.20)
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