【フランス便り34】

本格的となってきたインフレ問題

鈴木 宏昌
 
ここ1年間 私のフランス便りは休止する結果になってしまった。別に健康を害したわけではなく、単にここ半年難しいテーマ-フランスの失業保険制度-に取り組み、時間がとられたのと秋に2ヶ月間久しぶりの日本の秋や温泉を楽しんだ余韻で、怠け癖がついてしまったためである。少し反省し、これからは、4ヶ月に1本くらいはフランス便りを書いてみたい。
 ここ3年間ほどフランスはCovid 19の問題で振り回されていたが、2022年あたりから落ち着きを取り戻し、マスクしている人が少なくなった。昨年の秋からは、パリの地下鉄の中では、当局が、車内や駅でのマスクの着用を強く勧めるアナウンスをしているにもかかわらず、マスクをしているのは10人に1人くらいの割合になっていた。このため、私たちが10月に日本に帰った時に、日本人はどこでもマスクを着用しているので、別世界に来たようなカルチャーショックを受けたことを憶えている。

 Covid の問題が落ち着いたので、平穏な生活が戻るはずだが、そこはラテン気質の強いフランスなので、何かと問題を作り出し、マスコミや政治家たちが騒いでいる。現在、マスコミや政界の関心を集めているのは、ウクライナ戦争と年金改革、そしてインフレの問題である。とくに年金改革は、年金の満額の受給年齢を62歳から64歳に引き上げる政府の改革案に左翼勢力や労働組合が強く反対し、波状的な大規模ストを打っている。世論調査では、国民の3人に2人は受給年齢の引き上げに反対しているらしいが、改革案の出発点は年金財政の問題なので、政府も簡単に退くわけにはゆかないだろう。ただ、この年金問題は実に複雑なので、現在の年金騒ぎが収まったころ、じっくりとフランスの年金問題に関する文をまとめてみたい。そこで、今回は本格的にフランスにやってきたインフレの波に焦点を当ててみる。
 
 食料品、エネルギー資源の高騰
 私たちの毎日の生活の中で物価の値上がりを直接感じるのは、週1回のスーパーでの買い物の時と毎日近くのパン屋に行った時くらいである。私のパン屋さんでは、フランスパンの値段はしばらく1ユーロで安定していたが、昨年の秋にまず10サンチーム上がり、この冬からは1.3ユーロになっている。最初は、ウクライナ戦争に伴い小麦粉の値段が上がったためと思われるが、2回目の値上げは、多分、職人や売り子の賃金の引き上げと電気料金の値上げに伴うものだった。スーパーの商品も全体的に値上がり気味で、多くの商品が少しずつ値上がりしている。かなりの商品は、値段は変わらないが、1、2割中身の量が減っている。その上、恒例の行事である大手スーパーの連合と生産業者間で行われていた卸価格に関する交渉がようやくまとまり、この3月からは食料品の多くは10%を超える値上げが行われる予定である。当分、商品の値上げが続くものと思われる。
 それから、もう一つのわが家の体験記:家内が近くの業者に室内の棚や扉を注文した話。注文は昨年6月に行ったが、何回業者に催促の電話しても、材料の木材が品不足で、業者からの納入を待っているとの答えだった。ようやく暮れになり、2、3日の工事は終わったが、工事を実行したのはポーランドからの出稼ぎ労働者だった。世界的な資材の不足、人手不足やインフレは新聞・テレビで伝えられているが、自分で体験し、なるほどと合点した。

 振り返ってみると、ここ3年間でのフランスやEU経済の変貌に驚く。未知のウィルスCovid19が流行し始め、厳しいロックダウンが行われた2020年には、多くの専門家は、Covid後には大失業の時代が間違いなくやってくると予測していた。ところが、2021年からは先進国経済の回復は予想以上に急ピッチで進み、思いもしなかった商品(とくに資材と部品)の供給不足が表面化した。また、サービス業を中心として、人手不足が顕在化し、レストランやホテルはその一部を閉めたまま営業している。それとともに、もうすっかり過去のものと思われていたインフレが表面化し、庶民の生活を直撃するようになっている。この事情をマクロレベルで確認してみよう。

 まず、直近のフランスの消費者物価指数の動き(2015年=100)をみると、2023年1月に6%(移動平均)、2月に6.2%増とこれまでにない水準に達した。これは、2021年2月の0.6%、2022年2月の3.6%から大きく飛躍し、フランスにも本格的なインフレが襲ってきたことを意味している。この2月の6.2%の中身は、食料品が14.5%と大きく増加し、エネルギー資源の14%と並んで、物価上昇に大きく貢献している。他の項目では、生産物(製造された産品)は4.6%増と価格上昇気味だが、サービス業の価格は2.9%と比較的落ち着いている。
 この数字を2017年と2022年の5年間の家計調査で、もう少し詳しく見てみたい。首相府のシンクタンクであるFrance Stratégieは、最近、家計簿の44%を占める住居費、食料品、エネルギー資源の価格変動に着目した面白い報告をしている(France Stratégie, La note d’analyse, No.119, fév. 2023)。

 5年の間に、もっとも価格が上昇したのはエネルギー資源で、石油(ガソリン)、天然ガス、電気と軒並みに大きく値上がりしていて、家庭用の重油(古い家屋の暖房に使われる)などは実に140%の値上がりを記録した。そのほか、ガソリンやガスの値上がりは40%を超える値上げで、家計に与える影響も大きかった。この原因は、アメリカの景気回復で世界的にエネルギー需要が強くなったことに加えてウクライナ戦争が起こった結果である。そのため、資源大国であるロシアからの天然ガスや石油の輸入がストップし、世界的に石油・ガスの価格が騰貴した。
 石炭や石油に相当部分を依存している電気料金はヨーロッパでも大きく値上がりしているが、フランスでは政府が電気料金の価格を規制し、2022年には、値上げを4%に抑え込んだ。もっともその代償として、電力公社と政府は巨大な赤字を抱えることにはなる。食料品では、油製品の値上がり幅がもっとも大きく、そのほか野菜、果物、肉、魚なども10%以上の伸びを示している。住居費に関しては、全体的には緩やかな上昇だが、他の大都市に比べて、パリ市とその近郊の住宅価格が異常に高いことをこの研究は示した(最近では、パリ市内全体で、1平米の取引価格は1万ユーロを越えている)。

 このようなここ5年間の消費者物価の上昇が家計に与える影響は、その所得階層や住んでいる場所により大きく異なる。例えば、ガソリン価格の高騰は公共交通の発達したパリ地域の人に対する影響は軽微だが、仕事に行くにも、買い物するにも、あるいは病院に行くにも自動車に依存している地方都市や農村地帯に住む人達には、大きな痛手となる(6年前にフランスの政治の中枢を震撼とさせた黄色のベスト集団の抗議活動はガソリン税の引き上げからだった)。

 それ以上に、インフレが与えるの影響は所得階層で異なっているので、このFrance Stratégieの研究は、所得階層(十分位)ごとのインフレの影響を計算した。一番所得の低い階層(第一十分位)の場合、上記の3つの項目は13.5%の上昇を示した(2017年を基準)。この層の家計全体に与える影響は13.1%であった。これに対し、もっとも裕福な第十分位では、価格上昇分は15.8%であったが、家計全体に占める比率は4.9%でしかなかった。つまり、昔から使われるエンゲル係数の原理である。貧しい家計では、食料品、ガソリン、暖房といった生活に必要な財の消費を減らすことは減らすことはできないので、その相対的な影響は大きいのに対し、恵まれた家計では食料品やガソリンの比重が少ないので、価格上昇が家計全体に与える影響は低いものになる。どこの教科書にも書かれているように、インフレは貧しい家計にとって非常に厳しいことを数字で示したと言える。

 以上は2017―2022年の数字を基にした分析だが、今年に入り、インフレは加速している。フランスの経済統計局は、この春にインフレのピークがきた後、この夏からはインフレ率は次第に落ち着くと予想しているが、当分はインフレ問題が大きな社会的な関心事になることは間違いない。
 フランスは、これまで、EU諸国の中では、インフレが比較的低い水準で推移していた。これには、ロシア産の天然ガスや石油の比率がドイツなどよりはるかに低かったこと、比較的コストの低い原子力発電が電力供給の大部分を占めていることに加えて、政府がガソリン価格への補助、低所得者に対するガソリン・チケットの配布など、低所得者を対象とした対策をとったことがある。このような物価対策は当然財政赤字を悪化させるが、その赤字分は、国際市場からの借入金で賄われてきた。ここにきて、国際市場での金利の上昇がみられるので、今後、インフレ対策としてのバラマキは難しくなることが予想される。
 
 世界的なインフレの要因
 フランスは、他の先進国と同様に、ヨーロッパ中央銀行の貨幣量の猛烈な供給による過剰な流動性があったにもかかわらず、物価は2020年までは安定していた。その潮目が変わるのは、Covid対策のロックダウンが終わる2021年の初めからとなる。2020年に行われたロックダウンでは、安全衛生上の制限から活動ができない産業、例えば、ホテル・レストラン、観光業者、建設業、映画・娯楽業などの労働者に対し、国が企業の代わりに、賃金の大部分を支払う部分失業手当という救済措置を大々的に展開した。ロックダウンがもっとも厳しかった2020年の春には、民間の労働者の約3人に1人はこの部分就業手当の適用を受けていたほどである。
 ロックダウンの期間が終わると、世界的に消費需要や設備投資の意欲は回復するが、今度はコロナ危機で全く停止したグローバル・チェーンが機能しなくなり、資材や部品供給が不足する。とくに、ポスト・コロナのアメリカの景気回復が急で、その強い需要圧力で、エネルギー資源や海上運輸費用の高騰が目立ち、フランス国内でも資材や部品の不足や価格上昇が目立つようになる。

 このような情勢のさなかに、2022年2月にロシアのウクライナ侵略が始まる。このロシアの暴挙に対し、西欧諸国の反発は強く、ロシアは経済的にも政治的にも敵国の扱いとなり、商品の交流は厳しく制限される。ところが、ヨーロッパにとっては、ロシアは大変な資源大国で、東欧諸国やドイツは、それまで天然ガスや石油の大部分をロシアからの輸入で賄っていた。例えば、ドイツの場合、天然ガスの40%はロシアからの輸入であった。この資源の輸入が急にストップするので、当然 エネルギー資源は猛烈な価格騰貴となる。
 その上、ウクライナとロシアは小麦などの農産物の輸出大国だったので、その供給がストップしたことで、小麦粉や油などの価格が急上昇する。その結果、フランス国内では、パンやお菓子などの価格が上昇している。その上、2023年からは、電力価格の規制は20%増に設定されているので、新たな電力の供給契約は大きく増加する。20%増となっているので、パン屋のように、電力をエネルギー源としている中小企業や零細企業は苦境に立っている。

 このような実物経済の展開とともに、インフレ要因を助長したのはヨーロッパ中央銀行などの金融機関である。ヨーロッパ中央銀行はその金利を2016年にゼロにまで下げたのち2022年の7月までゼロ金利を維持した。資材の値上がりが始まった2021年から1年以上ゼロ金利政策をとった。確かにCovid19の危機で、各国が財政赤字を出し、その擁護にヨーロッパ中央銀行が回ったのは分かるが、それにしても遅すぎる金利の引き上げと言わざるを得ない。2021年から2022年にかけて、多くの経済学者や金融当局は、エネルギーや海上運送の高騰は一過性の現象で、すぐに平常の状態に戻ると説明していた。それらの楽観論を打ち消したのはウクライナ戦争だったと言える。ウクライナの予想外の抵抗で、戦争が長引くことがほぼ確実になったころの2022年7月22日に、やっとヨーロッパ中央銀行は政策変更を行い、金利を0.5%に引き上げる。そして、その後は矢継ぎ早に金利引き上げを行い、2022年12月には2.5%、2023年の2月には3.0%へ上昇させている。ちなみに、2022年のEU平均のインフレ率は9.2で、ユーロ圏でも8.4%を記録した(同年、フランスは5.9%)。
 
 日本でインフレは心配しなくてよいのか?
 日本は長い間デフレが続き、日本銀行は絶えず強気な黒田総裁の下で、ゼロ金利と無制限な貨幣供給の政策を続けているが、世界の中で全く孤立している。アメリカやヨーロッパ、あるいはアジア諸国が次々に金利引き締めに動く中、日本だけはこれまでの低金利政策を継続し、円の暴落と金融市場の混乱を招いている。もともと、この低金利と無制限の貨幣供給はアベノミクスというわけの分からない政策の一部だったはずだが、他の政策は消滅したり、変更された中、放漫な金融政策のみ残っていると言えるだろう。物価水準をみると、直近では4%増まで達し、決して楽観できる数字ではなくなっている。大体、アベノミクスとかゼロ金利政策に関する本格的な政策効果の検証はあったのだろうか?安倍政権が長く続き、現在の岸田政権になっても、本格的な政策検証を政府機関が行う兆候が見られないように思う。また、インターネットで大新聞の見出しを読む限り、大新聞からは政府の政策を批判をする動きは感じられない。
 紹介したFrance Stratégie の研究でもわかるように、インフレは比較的貧しい階層の家計に直接響き、生活を苦しくさせる。年金生活者や賃金労働者など、所得を増やす手段のない人の生活水準を引き下げる。反対に、負債を持つことができる人や法人、政府などは借入金の実質的な返済額が減るので、得をすることになる。インフレはじわじわとやってくるので、一般の人には対策をとることが難しい。世界中でインフレが問題になる中、日本のみ孤立し、インフレの危険がないわけはない。日本でも物価の動向とインフレが貧しい階層に与える影響を注意深く監視する必要があろう。
 
 2023年3月15日、パリ郊外にて、鈴木 宏昌(早稲田大学名誉教授)
(2023.3.20)
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