■ 臆子妄論            西村 徹

~梨木香歩『家守綺譚』の中のD.G.ロセッティの詩 ~

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  梨木香歩という作家のことを最近知った。さいたま市に住む長女が図書館のヘ
ビーユーザーで、ときどき本のはなしをメールなどでする。『家守綺譚』を病院
へ持っていって、待つあいだについ人目を忘れて笑ってしまったというようなこ
とを書いてきた。よほど面白い本にちがいない。読んでみたくなった。

 私は日ごろあまり新刊書を買わない。図書館も遠いうえに不精だから行かない
。買うとすれば散歩の途中、四日ごと替わりの古本棚から、はては紙屑として捨
てて惜しくない代価を支払って買うだけである。若い貧乏のさ中から、なけなし
の金をはたいた挙句の蔵書が、今ほとんど貨幣価値を持たない。というより、特
に洋書は市場を持たない。書物は不良資産とみなされて大学図書館なども寄贈を
よろこばない。それでも死ぬまでそのままならいいが、それでは後の者が迷惑だ
から生きているうちに処分をせよと迫られている。これはカネになるならぬでな
く身を切られる思いがする。だから新たに買うときはもはや読み捨てて惜しくな
いものしか買わない。美本善本には縁がない。ちょうどゼネリックしか使わない
医者が新薬にうといように新刊にはうとくなる。

 たまに買って、たとえばAlan BennettのThe Uncommon Readerは、白水社刊の
翻訳『やんごとなき読者』の、池内紀という人の書いた書評を「毎日」で見て興
味を持った。翻訳より安かったから買ったが、英語を読む一世代若い女の友人に
「おもしろいよ」と言ったら「去年読みました」といわれて面目を失った。「朝
日」にも遅ればせに書評が出て鴻巣という翻訳家がAlan BennettはArnold Benne
ttの血筋だとか書いていたがウソノカワだった。しかし「聞くに早く、話すに遅
くあれ」(ヤコブ書)というから「朝日」「毎日」両紙の書評とNHK-BSの「週刊
ブックレビュー」などは欠かさず見ているが万全でない。ちなみに書評にかぎれ
ば「毎日」は一癖あって、好みによるが「朝日」よりも一味濃い。昔からのよう
に思う。

 梨木香歩を教わって図書館から借りた。正確にはKさんに借りてきてもらった
。Kさんは『西の魔女が死んだ』『丹生都比売』と、そして翌日『家守綺譚』を
とどけてくれた。だいたい近ごろの小説をろくに読まないからいい加減なものだ
が、これはたいした作家のような気がする。水村美苗のときも感心したが今度も
感心した。つくづく日本国は文芸盛んの国だと思う。どうも女の作家のほうがハ
ズレは少ないような気もする。やはり女は実体だが男は現象であるというのは本
当かもしれない。ある大学の広報誌に書評を書けといわれて『ノルウェーの森』
を読まされた時「日本国文芸はこんなに薄っぺらくなったか、薄味なら薄味なり
にバナナのキッチンのほうがいい」と思ったのとまったく逆だった。
 
ただ、それならそれで梨木香歩について批評のようなことを書けるかというと
、そこまで読みこんだとはとても言えない。鴎外や百間を読んでからにすべきだ
とまでは思わないし、漱石や芥川をいくらかでも読んでおもしろく思う人なら面
白いと思うだろうと思うだけだ。それ以上のことはまだとても言えないので『家
守綺譚』のおしまいから三つ目の章「山椒」のなかに出てくるロセッティの詩に
ついて、多少注釈めいたことを加えておきたいと思う。


◇直前の「貝母」という章で


――風情のある杉皮葺きの家がひっそりと竹藪の中にあるのを見つけた。惹かれ
るものがあり、その前まで行くと、「編笠」という表札が掛かっている。もの書
きの業のようなもので、一体ここの家主はいかなる人物かと思いを巡らせている
と、玄関の障子戸ががたがたと開き、中から日本髪に結った、年の頃三十路には
いったばかりかと思われる女人が現れた。

 と、思いのほか(それゆえに効果的な)すっぴんメークの地の文があって、そ
の女人が婉然と微笑んだり、「私は百合です」と言ったりする。「その家の風情
が何とも、最近訳出されたロセッティの文章を思わせて」と、ロセッティ詩の引
用となる。こうなると、語学教師の業のようなもので、一体この詩の作者は兄の
ロセッティか妹のロセッティか、原詩は何か、訳者はだれかと思いを巡らせるこ
とになる。内容からして妹のクリスティナでないと見当はつく。そして、どうや
ら兄のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのThe Portraitらしいことがわかる。
後になって
「さっきの文章の、確か出だしはこんな風だ。
・・・・・・こは彼の君在りし日のゑすがた。」
というのから推定できる。続く「ながめいるはては彼の君ゆるぎ寄るかとぞ思ふ
」は二行目ではなく原詩では五行目に来る。冒頭以下こんな風だ。

1 This is her picture as she was:    こは彼の君在りし日のゑすがた。
2  It seems a thing to wonder on,
3 As though mine image in the glass
4  Should tarry when myself am gone.
5 I gaze until she seems to stir,
               ながめいるはては彼の君ゆるぎ寄るかとぞ思ふ。
6   Until mine eyes almost aver
7 That now, even now, the sweet lips part
8 To breathe the words of the sweet heart:--
9  And yet the earth is over her.

10 Alas! even such the thin-drawn ray
11 That makes the prison-depths more rude,--
12 The drip of water night and day
13  Giving a tongue to solitude.
14 Yet only this, of love's whole prize,
15   Remains; save what in mournful guise
16   Takes counsel with my soul alone,--
17   Save what is secret and unknown,
18 Below the earth, above the skies.

19 In painting her I shrin'd her face
20  Mid mystic trees, where light falls in
21 Hardly at all; a covert place        ものかげの邉や、
22 Where you might think to find a din   人は此処にして
23 Of doubtful talk, and a live flame     沁み入る幽冥のささやき
24   Wandering, and many a shape whose name さまよふ陰火、
25 Not itself knoweth, and old dew,
名づけも知らず,集ひゐる物のかたち/寂びたる露
26   And your own footsteps meeting you,
さてはわが跫音われを趁ふが如く
27 And all things going as they came.
萬のもの、隠顕徂徠するを見るかとや思はむ。

 対応関係は多少あちこち飛び交うが、ひとまず上のようになろう。かくて原詩
は108行まで続いて終わる。さて訳者はだれか?著者に訊けば直ぐ分かること
ではあるが、読者としては、気になる人は気になるであろう。私は大いに気にな
った。蒲原有明の「常世鈔」という訳詩集の中にダンテ・ゲイブリエル・ロセッ
ティが26篇採られている、その一篇「ゑすがた」である。定本・蒲原有明全詩
集(蒲原有明全詩集刊行會・昭和32年河出書房)限定版壱千部ノ内第二八六番
231ページ以下にこれを確認した。日本比較文学会が発足したばかりの頃だっ
たと思う。大阪で学会があって、そこで中島健三(矢野峰人だったかもしれない
)がこの詩集の予約を募る口上を述べた。私は口車に乗って予約した。それを売
らずに来たのは偶然である。有明に詳しい人ならばロセッティとあるだけで有明
とわかるだろうが、そうでなければ今どきの人に容易にはわかるまい。

 文庫になってうしろに解説がつけば書かれるのかもしれないが、文庫を見ない
まま図書館に返す前に、先ずは急いでこれを書いた。

 [追記] 先ほど近くのスーパーの2階の本屋で文庫を見た。解説にはこの詩の
ことは何も書いていなかった。こんなことを気にしたり書いたりするバカはいな
いらしい。タダ見したのでちょっとわるい気がして『ぐるりのこと』というエッ
セー集を買った。これまた、きわめておもしろい。メルマガ・オルタの読者・筆
者の皆様方よ、ついにバクフはガカイした。こりゃケンプのハッピだ。「油断は
禁物」とか「勝って驕るな」とか、さぞおっしゃりたいだろうが、小言幸兵衛も
一息入れて梨木香歩など読んでみてはどうかと思う。

(「病気、病院、電車のはなし」の続きは次号に順延する)

             (筆者は堺市在住)

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