【コラム】
ケニア・タイ二都物語―国連で25年~南の国から大好きな日本へ~

欲張りな人生の秘訣は、欲張らないこと――波乱万丈の91歳

大賀 敏子

◆ 精悍なおじいさん

 オルタを創設された加藤宣幸氏は、93歳で急逝されるその日まで、現役の編集者だったとのこと。創造力、気力、体の健康、すべての面で、凡人には及びもつかない才能と努力があったにちがいない。
 今回登場するアメリカ人のデビ(仮名)は、1929年生まれの91歳だ。バンコク在住25年。タイ人配偶者と別れて一人暮らしだ。

 インタビューを申し込んだら、「ランチに行こう。ちょっと歩くけど」
 バンコクは暑い。おまけに、コロナのためにマスクだ。「大丈夫かな、まだ歩けるかな」と筆者に声をかけながら、目指すサンドイッチ・ショップまですたすた歩く。真っ白な前髪がたれる額がよく日焼けしていて、ちょっと精悍なのは、こうしてよく歩くからだ。
 健康の秘訣は「毎日運動すること」、一人になってもタイに住み続けるのは「ニューヨークは寒いからごめんだ」、これからの夢は「運動を続けて長生きすること」と、なにごとも単純明快だ。70~80代の「若者たち」に、陰では「歳のせいか記憶力があやしい」言われているが、気さくで明るいので、人気者だ。

◆ 欲張りな半生

 デビの半生は欲張りだ。弁護士として60年以上働いた。
 米国内陸州の出身。父親を早く亡くしたうえ、第二次大戦で多くの男が戦争に行ってしまい、ティーンながら男手として働いた。摩天楼のニューヨークにあこがれた。
 1950年、21歳で国連のインターンに選抜され、国際社会へ一歩を踏み出そうとするのに時を合わせて、朝鮮戦争が勃発。国連より祖国のためになりたいと転向し、帰国して海軍に在籍。

 除隊後、全米一の難関、ボストンのハーバード・ロースクールを経て、ニューヨークの腕利きロイヤーとして活躍した。フランクリン・ルーズベルト大統領の元側近に、直接指導を受けたことこともある。二度結婚、二度離婚。
 1970年代、二度のオイルショック、ベトナムからの撤退など、アメリカの国力に陰りがさすと、これを逆手に取り、日本や韓国との仕事を始めた。50歳、それまでの実績とネットワークにあぐらをかいていてもいいのに、あえてそうせず、アジア急成長の波に乗って、キャリアの第二幕を開けた。

 51歳、アメリカ在住のタイ人と三度目の結婚。63歳で、アジアニースとタイを相手にした会社を興した。年間半分以上出張し、アジア通ロイヤーで鳴らしたが、デビは数年でこれもたたんでしまった。趣味のスキーも冬山もあきらめて、タイへ移り住むためだ。
 67歳、リタイヤメントの年齢ではあったが、タイでゆっくり余生を送ろうとしたのではない。新しい法律事務所を70代で立ち上げ、80代になっても現役だった。

◆ アジアに教えられ

 タイへの移転は人生最高の決断だったと言う。この趣旨は、実は、仕事より仏教との出会いだ。
 もちまえの社交性、ネットワーク・スキル、行動力をフルに開花させ、英語を話す僧侶を発掘し、欧米人が仏教に親しむために奔走した。80歳になった記念に、一週間の瞑想合宿にも参加した。

 亡父の思い出は、教会に連れて行かれたことだそうで、今でも教会に通う。分類上はクリスチャンだ。しかし、仏教文化の奥深さ、深遠さに耽溺することにためらいはなかった。この経験は、西洋的世界観だけにとらわれず、東洋的な安寧と平安を学ぶことにつながり、大きな転換だったと回顧する。
 第二次大戦、朝鮮戦争、軍人経験、先輩・友達のほとんどは戦争帰還兵たち。そのような環境で、20世紀の超大国アメリカの表街道を突っ走ってきたデビは、アジアをどう思っていただろう。

 遅れていて、助けてあげなければならない、赤化から守ってあげなければならない、二本の棒を使って食べる人たちがいて、英語がわかないと微笑む人たちが住む、地の果て。上から目線で臨むことはあっても、まさか、アジアに教えられ、自分が変えられてしまうほどのものがあろうとは、考えもしなかったのではないか。
 しかし、デビはそんなマインドセットにとどまらず、仕事ではアジアのエネルギーに、心は東洋の神秘に、自分を明け渡した。それができたのはなぜだろうか。

◆ いつも最善

 失敗も多々ある。たとえば1997年、よりにもよってタイへ移転したその翌年、アジア通貨危機が襲った。ニューヨークの会社をたたんでしまったことを悔いた。
 いま住んでいるバンコクのマンションのほか、お金を貯めては自宅や別荘を建ててきた。アメリカとタイで4、5軒はある。それはどう管理しているのかと尋ねると、
 「I think that is mine(私の所有だと思う)」
 思う、と、ロイヤーなのに法律上の名義がはっきりわかっていないのだろうか。「三度離婚したからねぇ」と言葉を濁すことから察するに、元配偶者たちのため、いずれもきれいさっぱり手放してしまったのだろう。

 食後のアイスクリームが運ばれてきた。甘党なのだ。スプーンを動かすのに集中していた彼から、ふと出た言葉が、「確かにアップダウンはあるさ。でも私の人生は猛烈にすごいんだ」なぜなら「I am driven to be the best(いつもベストに追い立てられるようになっている)」
 なるほど、「I am trying to be the best(ベストになるように頑張っている)」ではない、それが人生の秘訣なのだ。

 会社、業績、ネットワーク、趣味、経験、結婚、不動産、はては宗教まで、手にしては、あっさりと手放してきた。自分の能力と努力で勝ち取った成果だから、失いたくないと握りしめてしまう生き方も選べただろう。すると、もっと保守的で、護りの姿勢になっていたかもしれない。デビの人生はそのまったく反対だ。何かを失っても、やがて必ず別の何かがくるだろうと構えている。それが91歳の今日まで、次々と新しいディメンジョンへ進んできたレジリアンスの元なのだ。
 欲張りな人生を送ってくることができた秘訣は、実は欲張らないことだったのだ。

◆ 生かされて

 ああなりたい、これがほしい、あれだけはぜったい避けたいと、人間は、自分の人生について思いをめぐらす。ことに日本人は一般に、一生懸命働き、自力で頑張ることを重んじるので、希望にすこしでも近づこうと毎日こつこつ努力する。このため、失敗すれば落ち込むし、うまくいけば、全員ではないにしても、高慢になってしまうこともある。
 しかし、実際はどうだろう。努力の尊さを否定するわけではけっしてない。しかし、業績、健康、他者との関係、この世にいられる年月の長短などなど、人生に起こることで、自分自身でコントロールできることは、思いのほか少ないのではないだろうか。

 人間は人生を生きるのではない、生かされているだけだ。弱肉強食の社会でしのぎを削り、世界の荒波を乗り越えてきて、いまバンコクのレストランでアイスクリームに集中しているこの紳士は、ついつい忘れがちなこの真実を思い出させてくれる。だからだろう、デビといると心が休まるという人は少なくない。

 高齢なのにという趣旨を込めて、どうパソコンを覚えたのか尋ねたら、「やりたいから覚えた、当たり前のことを聞くな」と叱責された。これからの楽しみは何かと尋ねると、教会仲間に事業を興そうと誘われているとのことだが、「あれ、その人はなんていう名前だったか、思い出せない」と豪快に笑った。

 一日一日を積み重ねていたら、いつのまにか91年を超えた。その間、いつも新しいことができたのだから、これからもできる。ちょっとだけ寂しいのは、一人娘が海外で忙しくて会いに来てくれないことだ。しかし、いまは教会の50代の若い女性を追っかけまわしている。この先、デビが四人目の配偶者を連れてきても、人々は驚かないだろう。

 (元国連職員・ナイロビ在住)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧