【投稿】

死の淵から戻ったジャーナリスト(上)

――わが支局長・梁田さんをさがす旅
佐藤 眞司

 新聞の勢いはかつてと比べようがないほど落ち込んでいる。全国紙の地方版も人減らしが応え、四苦八苦していると聞く。新聞社にとって地方支局は新人記者を育てる教育機関でもある。私たちを育ててくれた恩師はシベリア抑留を経験された人だが、そのことを口にすることなく、あの人の立ち居振る舞い、指導ぶり、身の処し方などあれやこれやと想いを巡らす。

 【あの人】とは、63歳で亡くなった梁田浩祺さん(やなだ ひろよし 元朝日新聞論説委員 1918~1981)です。生家は東京府南多摩郡忠生村(現・東京都町田市忠生)にある禅宗の古刹・簗田寺(りょうでんじ)。慶應義塾高等部(旧高専)で「三田新聞」に関わり、卒業後僧職選ばず新聞記者を目指して、朝日新聞東京本社に入社。浦和支局から東京本社政治経済部員に。(現在はそれぞれ政治部、経済部に独立)。ようやく仕事に慣れたと思った1941(昭16)年7月、召集令状(いわゆる赤紙)がきた。心配する父親に「私は死ぬもんか。帰ってくる」と断言して出征する。
 1941年8月、満州(中国東北部)に渡る。東安省(現・黒龍江省東部)の東安第5軍司令部参謀部に勤務。1944年2月下肺野浸潤で入院。1945年8月8日ソ連が参戦、対ソ戦が始まり、日本の敗戦を知る。ソ連領・カーメンルイボロフ付近に抑留され、強制労働。同年12月病気のため満州・牡丹江に戻され、2度目の入院。翌年5月再度ソ連領に戻され、沿海州スイソエフカに抑留、またしても強制労働に。3年7ヶ月後の1950(昭25)年2月舞鶴港に復員(2度の入院は通算1年余、2度の抑留生活は通算4年)。まさに死の淵をさまよった人だった。
 復員1ヶ月後に朝日新聞に復職。まもなく政治部に復帰。革新担当キャップ時代の1956年に『日本社会党』(朋文社)を執筆、刊行。1957年官邸キャップとしてサンフランシスコ講和会議出席の岸首相に同行取材のためアメリカへ特派。
 1961(昭36)年2月、新潟支局長となって赴任する。ここからわれわれ若者の面倒をみることになる。43歳の働き盛りでした。
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《支局と人員配置》
 当時の新潟支局は木造モルタル二階建てで、場所は新潟の繁華街、営所通からちょっと引っ込んだ上大川前。周りには東北電力のビルがあるかと思えば有名料亭や旅館、酒屋なども。なんといってもずらりと並んだ名物の朝市のある、活気あふれる町内でした。
 支局には先輩記者6、7人と支局採用の駆け出し記者2、3人いる。私もその一人でした。県庁所在地の新潟の支局のほかは、県内の主な都市に取材拠点を置いていました。朝日の場合は長岡、高田、三条、柏崎、新発田、両津に記者が家族と住みながら、地元にいなければとれないようなニュースを発信していました。地元紙新潟日報を除く他紙も大体同じような人員配置でした。
 梁田さんは背が高く、ちょっとはにかんだような穏やかな紳士でした。話し方は誰に対してもやさしく丁寧で、そのうえ美男子でしたから、他社の記者からも「お宅の支局長はいい男だねぇ。政治部から来たんだって。社内で何かあったの?」と聞かれました。ペイペイの駆け出し記者に社内の上層部のことがわかる訳ないじゃないですか。「知りません」と答えていました。
 
《支局長のアフターケア》
 いつもは本当に優しい人でした。ときに支局内に梁田さん一人でいる時に出くわすと、厳しい表情で庭の一点をみつめています。天井を見上げてボーッとしていた時もありました。先輩支局員の間で、支局長は戦時中シベリアに何年も抑留されていたと話しているのを聞いたことがあります。それで当時の抑留を思い出していたのかなぁ、と思ったものです。同じ“梁田組年少グループ”の一人、羽原記者(のち政治部)は「梁田さんのもとでの支局時代、怖さとやさしさを感じ、時折の表情に強固な厳しさが流れるとき、なんとなくシベリア時代の生きていくことの苦痛が、仕事の中で浮上するような印象がありました」と振り返っています。
ところで、温顔が一転するのは、やはり締め切り間際のやりとりです。
 毎日の新潟版の締め切り時間は午後5時20分、(のちに同40分)。恐る恐る原稿を出すと、「なんでこんな時間になるのだ!!」。瞬間湯沸かし器・・・ところじゃありません。駆け出しのこちらは直ぐには読めない。
 東京本社の新潟版編集者に出稿を終えると、元の温顔に戻り、「ちょっと出かけますかナ」と希望者を引き連れ、近くの居酒屋「本番」へ。これが梁田さんの支局長としてのアフターケアでした。(話はそれますが、後年私たち新潟時代の仲間が久しぶりに会うと、「じゃあ、『本番』といきますか」と誘い合う。脇の人は「これから何かいいことが始まるのですか?」と訊く。なーに、飲んでダベって「本番」にいたような気分になろうよ、という意味なのですが)次も失敗例。

《三真と三振》
 仕事ばかりのことでなくて、梁田さんにこっぴどく叱られたことがありました。これも日時はもう記憶の彼方ですが、内容は間違っていないはずです。
 私はしょっちゅう支局の二階に寝泊まりしていましたので、先輩の三浦真記者(のち新潟テレビ21役員)が「使わないのに部屋代がもったいない。支局の2階で寝泊まりした方が事件警戒にも都合がいい」ということになり、引っ越しのため、県警本部担当の深津真澄記者(のち政治部、論説委員)と3人で支局のジープで出掛けました。持ち物は蒲団と着替えに書籍類少々。腹ごしらえは新発田市で、と深津記者の運転で出発。食事が終わったのは午後4時ごろか、外は薄暗く雲が垂れこめている。
 雪になりそうだというので、三浦記者が運転席に。雪はぼさぼさと降り出し、路面が白くなりつつあります。一帯はナシ畑で、道路はそれより1メートルほど上を走っています。三浦記者は雪道の運転ははじめてという。車とのすれ違いで、急ブレーキをかけるとジープは右へ左へと蛇行したかと思うと、横倒しのままナシ畑に落ちていきました。ようやく這い出したが、外は真っ暗。すぐ支局に連絡しなくてはと、民家の灯りをさがしました。ようやく電話を借りることが出来て、支局にかけると、だれかが受話器をとって「支局長、佐藤君が出ました」という。待つ間が、何と叱られるやら胸の動悸が高まるばかり。案の定「ばかモーン。今どこにいるー。新発田ぁー。怪我はないナ、三浦君に代われ!」。三浦記者も油を絞られているようだし、3人目の深津記者も右に同じ。
 電話を貸してくれた農家に礼を言い、やっとタクシーで支局に戻りました。あとで、新津駅で列車事故があってジープを探していたのだと聞き、カッカするのも無理ないか、と諦めたものです。ニヤニヤした梅崎記者(のち政治部で選挙報道に尽力)が「3人とも名前に『真』の字が入っている。今後『3真』の行動には要注意だ」と皮肉りました(確かに名前は眞司をいれると――)。
 翌日の夕にはジープは車庫に戻っていたし、梁田支局長も話題することもなかった。何年か経ってのことだが、『3真』は野球の「三振」にかけていたのだ、あのおとなしい梅崎さんが、と思ったが後の祭り。こっちも鈍かった。

 梁田さんは、これをやってみたいというと、大抵は「はい、いいですよ。やってみなさい」という。余程のことがなければ注意事項もない。自由にやらせてもらったことが、失敗を恥とせず、仕事の要領もわかって、少し成長していく自分を自覚しました。
 こんなこともありました。

《無線機と手旗信号》
 海が荒れて新潟港に入っていた愛媛県の船(確か運搬船、「第18八幡丸」といった)が転覆して腹を出した状態になりました。中に人が何人かがいることは分っている。第九管区海上保安部では波が静かになる明日、港内艇が近づき船腹で生存者を確かめるという。私は、前夜に港内艇に潜り込み、朝になって遭難船に近づいたところで顔を出したら、いやとは云わないと思います、と提案した。「いいですよ。無線機を持って行きなさい」ということになった。
 翌早朝、港内艇が出港、遭難船が間近になったところで、「アノー……」と顔を出しました。てっきり怒鳴られるかと思っていたのに、艇長は仕方がないといった調子で、逆によくぞ忍び込んだ、と笑ってくれた。肝心の取材。建物に囲まれた湾内では無線が効かない。どうしたものかと思っていると、各社が集まっている岸壁で、わが社のジープの屋根に上がった大先輩の祖父江記者(のち校閲部)が手旗信号をやっている。艇長は、仲間がいると思ったものか、それに応える。艇長が「大体のことは伝えておいたよ」と私の仕事は終わり。祖父江記者は戦時中、海軍を志願しよう手旗信号を練習していたとのことでした。海上保安部の保安士が“船腹に耳をあて、金づちのようなものでガンガン叩き、生存者がいたかどうかを確かめた 反応なし”という記事のくだりが独自ダネだったようです。
 支局に戻り、船内にいる乗組員は助からないだろうなぁ、との話し合いに、支局長はただ黙ったままで、話にのってきません。後で考えますと、自分はシベリア抑留から運よく生きて帰って来た、彼らは船内でどんな思いで死んでいくのか、と相手を思って苦しんでいたのではないか、と想像したものでした。

《平凡な街ダネを愛した》
 大きな事件もなく支局にいると、支局長が「学芸会が始まっているようだから、写真を撮って簡単な記事を書いてください」と言う。それは学芸会や運動会だったり、たくあん用の大根干しだったりしました。下手な写真に豆記事ばかりだったとの記憶しかないのですが、支局長はいつもニコニコして「フーン」とか「ホー、そうかね」と言いながら機嫌がいい。紙面の扱いは小さくても必ず使ってくれました。
 それだけに抑留中、平凡でも小さくても、人の日常生活を見ることに恋焦がれていたのでしょうか。学芸会や大根干しの記事を添削する時にこそ、平和を実感していたのでは…。
 シベリア抑留とは、ソ連が投降した日本兵士をシベリア・中央アジアの収容所に送って強制労働をさせたことを指します。その結果、「抑留者は50万人をこえ、劣悪な環境におかれて多数の死者が出た。1950年までに大部分が帰国」(広辞苑 第7版)。幸いにも梁田さんは「大部分が帰国」の一人だったのです。
 しかし、新潟支局員や通信局長は抑留されたことを知っていた人はいても、梁田さん自身から抑留中の話を聞いたことがある人はおそらく一人もいなかったでしょう。淑子夫人もそうだったというし、お嬢さん二人も聞かされないままだったと言います。

《三八豪雪と人事》
 新潟県内の支局、通信局をしっかりと結束させたのが「三八豪雪」だったと思います。1962年(昭37)の暮れから降り始めた雪は長岡を中心とした中越地方、新潟市など下越地方も大雪となり、「里型」の大雪といわれました。国鉄をはじめ交通機関はマヒ。梁田支局長はあわてませんでした。むしろ淡々としたもので、特に街ごと埋まった長岡市の市民生活が難渋している話など生活を中心とした紙面にするべく三橋・長岡通信局長(のち前橋、長野支局長)と相談しながら紙面づくりをしていました。閉じ込められると運命共同体の意識が働くのか、支局員も通信局長も互いを励ますような雰囲気が出来てきました。
 年が明けた2月、梁田支局長の前橋支局長への人事異動が発表されました。国鉄のダイヤはずたずたで動いているのは磐越西線のみで、上越線の上野方面へは特急列車はほぼ運休、各駅の雪しだいの細切れダイヤだった。そんな豪雪最中の辞令です。「なんでこの忙しい時期に」と県内のみんなは呆れると同時に本社への不信感も。もちろん、本社の方もびっくりだったそうです。梁田さんはやっと動きだした列車で被災地の長岡通信局の三橋記者を見舞い、翌日前橋へ。人事とは機械的というか、酷なものだなあと思ったものです。
 数年が経ちました。梁田さんは1968年論説委員となり5年間政治関係の社説を担当し、定年を迎えました。その後、社史編集室・朝日新聞百年史編集委員を務めたのは、あの精密な仕事ぶりを社は活かして欲しかったのだと思います。
 一方、支局員、通信局長の面々。梁田さんが在任の2年間で一緒だった支局員17人、通信局長7人の24人です。ここから政治部に3人が異動し、県庁所在地の支局長を務めた人は7人。梁田さんの政治部的な部分に憧れた人と、支局長的な部分に影響を受けて育った、それぞれに分身したと考えると、なんだか面白い。
 どちらにも共通しているのは、あの木造二階建て支局で、締め切りぎりぎりまで原稿に追われ、やっと書き上げたと思ったら書き直し。アークファックスが故障もなく原稿を流してくれれば支局長の機嫌もいい。締め切り前にすべてが終わる。酒とツマミを買いに走る私、茶碗を揃える人。知事や県会議員の話になると、梁田さんは「ふんふん」と嬉しそうだったし、新潟の方言や風習、特殊な食べ方が話題になると耳を傾ける。
 仲間が集まると、いつもあのころのことを懐かしんでいる。

石川啄木の歌に

  京橋の滝山町の
  新聞社
  灯ともる頃のいそがしさかな

がありますが、あの「京橋」を「新潟」に、「滝山町」を「上大川前」に替えてみたら、われらの青春時代そのものになるのですが・・・
(朝日新聞社は2004年から県庁所在地の支局は総局、通信局は支局と呼称を改めました)
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《チェーホフの『サハリン島』》
 私は若い頃から戯曲を読むのが好きでした。その当時の新劇界はチェーホフものが大闊歩していて、出版界でも1968~70年に表紙も箱も赤と黒で統一された、おしゃれな装幀の『チェーホフ全集』(全16巻 訳=神西清、池田健太郎、原卓也)が中央公論社から出版されました。梁田さんがかつてシベリアに4年間も抑留されていたことを知っていましたし、旧ソ連以前のロシアの風土や国民性をもっと知りたいというのが、買い求める動機の一つでもありました。インテリゲンツアはとてつもなく知能がすぐれ、農民は限りなく貧しい帝国ロシア。謎だらけの国でした。私は配本のつど戯曲とよく知られた短編や中編ぐらいは読んでいましたが、以後は「いつか暇が出来たら読もう」と思いつつ、書棚の飾りと化したままにしていました。
 以来、ン十年~。80の坂を超えた或る日、テレビのバラエティ番組で、整理・整頓の上手な女子小学生がそのコツをゲストに教えていました。ゲスト曰く。「せっかく買ったのに捨てるのはもったいない」「いつかは読もうと思っている」と言うと、可愛いい“達人”が一喝して「いつかは、二度と来ません!!」。
 私はその一言に大いに刺激を受けました。世はまさにコロナ禍の真っ最中。「コロナ巣ごもり対策あれこれ」が話題になっていました。「そうだ、今こそチェーホフを読もう」ということになり、それからというもの1年3カ月余、毎日のようにチェーホフを読んでいました。
 最後に読む作品は『シベリアの旅』と『サハリン島』と決めていました。どちらも、チェーホフが30歳の時、単身馬車でシベリアを横断し、サハリンに渡り書いたドキュメント。元新聞記者としては同じ“土俵”に上がった作家のルポです。特に『サハリン島』は大作で、登場する島の人間は流刑囚、懲役刑囚に刑務所役人、軍人、どこからかよく判らない移住者などなど。チェーホフは、その彼ら彼女たちの人間関係や人物観察と、作家とは別の本職である医師の立場で衛生の実態調査もしています。
 チェーホフは大きな刑務所のあるサハリン(樺太)北部から南下して南部の町コルサコフ(真岡)、ホルムスク(豊原)などの町や村を訪ねます。流刑囚のほかにギリヤーク、ヴァチェロ、オロッコ、アイヌ、日本人(松前藩)、中国人などさまざまな北方の少数民族と出会うことになります。彼らの獲物もアザラシ、クロテン、クジラ、ニシン、昆布・・・が登場し、自然豊かな当時のサハリンが判ります。私としてはどんな出来栄えなのか大いに関心を持ったのですが、較べること自体が恐れ多いことだと恥ずかしくなります。とても30歳の青年とは思えない内容の濃い作品でした。

《ウクライナ侵攻》
 このころ、現実の世界に取り戻されます。
 ロシアがウクライナ侵攻をし始めたのです。2022年春。チェーホフの小説にたびたび登場するウクライナのキエフ(キーウ)、ハリコフ(ハルキウ)などの地名がロシアに攻撃されている様子がひんぱんに報道されています。マリウポリにある製鉄所「アゾフスターリ」を守るウクライナの部隊「アゾフ連隊」が窮地に追い込まれます。指揮官がSNSに「任務完了」と投稿し、兵士に退避命令を出しました。報道では、ロシアに投降したウクライナ人はロシア市民としてシベリアやサハリンに送られる可能性が高い、と話していました。77年前の旧日本陸軍の梁田さんたちも「労働力」としてシベリア抑留される羽目にあった。死んでもかまわない労働者として。半世紀以上もロシアの手口は変わっていないじゃないか。毎日がやるせなく、切ない日々が続きました。

《梁田さんと司馬遼太郎に接点! 》
 『サハリン島』に 出てくる「ギリヤーク」「オロッコ」・・・の言葉を見たとき、確か朝日新聞で読んだことがあったなあ、そうだ、梁田さんが北方の少数民族について大きく紙面を使って書いていたことを思い出しました。朝日の昔の仲間に頼んで探して貰ったら、「昭和44年(1969年)10月19日の日曜版『地球市民』」であることが判りました。
 その記事は1、2面全部を使ったもので、「文・梁田浩祺 写真・前田和夫」です。表面は網走湖畔で輪になって踊るオロッコ人たちの写真。「神との対話に生きる」の大きな見出しと、神聖な踊りは夜にやるものだが、練習という形をとって集まってもらった。中央にトナカイの皮をはった「ダーリー」という太鼓を持つのはコロゴロじいさんで、神霊と直接交流できるというシャーマンである、と説明しています。
 裏面は「北国に生き抜くオロッコの人々」のタテ見出し、「独特の民芸作品」「戦争は絶対いや」の2本のヨコ見出し。それに写真5枚がシャーマン一家の仕事ぶりとその作品が紹介されています。一家の生計を立てているのは長男のGさん(42)。国鉄の外郭団体に勤めるかたわら、自宅の作業場でトナカイやポロロ(オロッコ人の守り神)を彫っています。
 そのGさんが旧陸軍の特務機関(スパイ組織)で働かされたばかりに戦後シベリアに抑留された、と話す。4年もシベリア抑留者の梁田さんは自分の場合と重ね合わせてか、「大事な青春を灰色のラーゲル(収容所)で過ごした」と、怒りをこめたトーンで書いています。
 あとは論説委員らしくサハリンの少数民族の歴史を分析しています。

 「サハリンに住んでいた少数民族は、住みなれた土地にロシア人と日本人とが進出し、北緯50度に『国境』を引いたというだけで分断され、第二次大戦時には同じ民族がソ連軍と日本軍の双方からスパイ活動を強制された。『戦争は絶対にいやだ』というGさんの言葉に、私は犯すことのできない民族の叫びを感じた。」
 筆者は、さらに長女のU子さんと次女のI子さんがモロッコ民族の唐草模様の刺しゅうをつくっている風景を写真に収めている。「二人はケラケラとよく笑った」と。ようやく網走の生活に慣れた、平和な楽しい光景だ。新潟版づくりで、私の下手な写真と豆記事に手を入れている梁田支局長を重ねてみる。自分の抑留所で味わった辛さ、孤独が少しでも癒されたのだろうか。

 ここまで来ても、「サハリン」「オロッコ」「オホーツク文化」「網走」いった言葉が続くと、何かが引っかかるのです。同じようなものを何かで読んだことがある・・・思い出せないまま何日かが過ぎました。
 ひょっとして司馬遼太郎さんの『街道をゆく』のどこかにあったのではないか。『街道をゆく』全42巻のうちの38巻目の「オホーツク街道」(週刊朝日連載1992年4月3日号~12月18日号)でした。
 司馬さんチームもコロゴロ一家を探しますが、梁田さんチームが訪ねてから23年も経っています。シャーマンのコロゴロさんも、旧陸軍の特務機関に働かせられた長男Gさん(北川源太郎=日本名に変えている)も既に故人。健在なのは次女I子さん(北川アイ子=同)ただ一人。
 しかし、ここからが司馬さんの飽かせず読ませる上手さが発揮されます。ご自身が持つオホーツク文化への該博な知識や研究に関わる民間人、例えば床屋をしながら「モヨロ遺跡」を見つけた米村喜男衛(よねむら・きおえ)さん、遺跡や歴史好きな学校の先生たちへの深い尊敬のまなざしが感じられました。また中学の先生をしている弦巻宏史さんは、アイ子さんに信頼され、談話を書きとめた小冊子『私の生い立ち・北川アイ子』がある。司馬さんは、その冊子から一家の歴史を引用しています。
 このためGさんがソ連軍によってシベリアに抑留された経緯やI子さんの最初の夫もシベリアに連れて行かれ、行方不明になったことなど、『地球市民』よりさらに詳しくなっています。
 それにしても、どうして一つの家族が朝日新聞に次いで同じ社からの週刊朝日に登場したのか。以下私の想像です。
 「オホーツク街道」を始めるにあたり、『街道』取材班の担当者が事前に資料探しをしていて、多分朝日新聞社本社調査部の資料室で朝日本紙の『地球市民』を見つけ出しても不思議ではありません。数少ないモロッコ人一家は格好の取材対象を見つけたときは、しめしめと思ったに違いない。だから取材するにあたっては、『地球市民』がやったように親しくしている地元の人を「くどき役」に頼んだこと、一家の住まいのどちらも同じ「網走市大曲」です。なによりもモロッコ民族の独特の唐草模様の写真が『地球市民』も『街道』もどちらもよく図柄なのです。

 『地球市民』(1963年)         『街道をゆく』(1992年)
 主・コロゴロ(主 シャーマン73)  →  北川ゴルゴロ(故人)
 妻・記述なし            →  北川アンナ(故人)
 長女・Uさん(50)         →  記述なし
 長男・Gさん(42)         →  北川ゲンターヌ(故人)
 (1942年生れ 日本名 源太郎)
 次女・I子さん            →  北川アイ子さん(1928年生れ)
 3女・A子さん(33)        →  記述なし
 住い=網走市大曲          → 網走市大曲
 写真・唐草模様の刺しゅう      →  写真・唐草模様の刺しゅう

 司馬さんの潤沢な知識と思いやりのある文章で、コロゴロじいさん一家の情報はさらに詳しく、立体的に膨らんでいます。サハリンから網走の地に移り住み、根を下ろすことが出来ているのは北海道の気風があればこその感があります。「オホーツク街道」の前半で感動的な章です。

 梁田さん(1918~1881)と司馬さん(1923~1996)との間には、5年の年齢差こそあれ共通項があります。
 まず新聞記者であること。梁田さんは朝日新聞の政治記者、司馬さんは産経新聞の文化、宗教に強い記者。軍隊に入隊したのは梁田さんが自動車部隊、司馬さんが戦車隊。外地での経験は、梁田さんが満州からシベリアでの4年にわたる抑留生活、司馬さんは内蒙古を経て内地防衛のため千葉・木更津に移った。おふたかた どちらも人間の力を超えた超能力に興味をお持ちのようだ。梁田さんはシャーマン・コロゴロじいさんにこだわったし、司馬さんにはよくこんなことを思いつくなあと思わせる『ペルシャの幻術師』、『果心居士の幻術』があります。

 最後に、また私の勝手な空想をお許し願いたい。
 もし、生前にお二人が何かの場で初めて会ったとしたら、こんな挨拶を交わしたのではないでしょうか? それは復員した人同士の合言葉のようなものだ、と聞いています。

 「最後の地は何処でお迎えになりましたか」

 (元朝日新聞記者)

(2022.11.20)
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