死の淵から戻ったジャーナリスト(下)

――わが支局長・梁田さんをさがす旅―
佐藤 眞司

 1993(平成5)年2月、戦時中出征した旧満州(中国東北部)で2度入院、シベリア抑留4年を経験した梁田浩祺さん(やなだ ひろよし 元朝日新聞論説委員 1918~1981)の13回忌が、東京・千代田区の超高層の霞が関ビル内で営まれました。会場探しの際、論説委員室や百年史編修委員室の仲間たちが梁田さんにふさわしい建物だから、とこのビルにしたのだそうです。こんな経緯があって、とのことでした。
 36階建ての同ビルは竣工すると、上から首相官邸の首相の部屋が見えることが、完成(1968年4月)前に判り、ビル側の部屋の窓を防弾ガラスにしたことが報道されました。米国でケネディ大統領、キング牧師が共にライフル銃で暗殺されたことが背景にあった、と指摘されています。
 以来、朝日新聞にも読者の「声」欄などに「国民を信じていたら、防弾ガラスは必要がないはず」から「現代の世相からみれば、首相にライフルを向ける者が出ないと言い切れない」まで、さまざまな意見が寄せられました。これらの世情を受け、朝日新聞では同年6月13日付で首相官邸の防弾ガラス問題の特集を組み、1ページを使って「意見と背景」を掲載しました。
 この問題の「意見」の部を担当したのが梁田論説委員(署名入り)で、読者のいろいろな意見を紹介するとともに、戦後日本社会の変容ぶり、人口の都市集中と農業人口の激減、批判精神を増す大衆、民主主義の浸透ぶりなど詳細に分析。結びに「戦後23年目に歴代内閣があえて行わなかった首相官邸の“装備”をおこなった。」「問われているのは国民の健全な良識と日本の民主主義の真価であり、戦後の政治史は一つの関門にさしかかった、といっておきたい。」と結んでいます。私は、敗戦後、日本人が得た民主主義という思想が政治世界の思惑で変質しつつあることを憂い、警告を発している、と受け止めました。

 この13回忌の会合で、故人を偲んでお話をした仲間の方の中からもちろん首相官邸の防弾ガラスのことも出されましたし、首相取材で同行した渡米時のエピソード、支局長時代の采配ぶりなど思い出を話す人もいて盛会のうちに終了。最後に淑子夫人のあいさつで、「梁田がいちばん喜ぶ会場を選んでいただいたことに大変感謝しています」と述べられました。
 梁田家では故人の遺稿『召集令』などを収録した小冊子「文庫の中から」をこの日のために用意、参会者に贈られました。散会となり、帰りかけていた一人が冊子の最後のページに載った、23歳の梁田さんが19歳の弟浩祐さんに宛てたはがき(コピー)を見て、「いやぁ、小さい字だなぁ、縮小したのかな」とつぶやいていたのを、脇にいた私は記憶しています。冊子作りに加わった一人として「いいえ、原寸大です。縮小も拡大もしていません」と口に出しかけたが、人の流れに押されて止めました。

《19行 750文字》
 現在使われている郵便はがきの大きさは縦15センチ、横10センチですが、戦時中に使われた軍事郵便のはがきはひとまわり小さく縦14.2センチ、横8.9センチです。問題の小冊子コピーしたはがきの縦横を測ると、まさに軍事用の14.2センチ✕8.9センチで、記述できる余白は126.4 平方センチメール。そこへ縦書きで19行、文字数750字が詰め込まれている。行は真っすぐのものがあれば斜めのも、ときには行がくっついているところも。字と字の間隔は押し合いへし合いで、極めて読みづらい。兵舎で腹這いになったまま書いたのかも知れません。私は拡大鏡を使って読みながら一文字一文字をマス目の原稿用紙に拾って写し終えました。以下原文の各行通りです。

 拝啓、九月十五日付淀橋局在印の封書を昨九月二十三日たしかに落手した。家中
御一同様元気の御趣、美智子の鉛筆文字と共になつかしく讀み終いた。兄が三
田の山で送った学生時代と異って貴方が早稲田学園で過す現在とは時代が全く
一轉している。前者は一九三五年のテーゼと云はれる人民戦線運動が世界的に抬頭しつつあった時期であり、吾においても満州事変後の緊張がとれ、経済的には合理化の一段落と為替安の関係から指数は一様の上向きを示した。所謂華やかな当時であった。それに引きかえて現在は十二年以来の事変、十四年来の世界大戦と混沌たる外壓にさいなまれ内にあっては縮少再生産説、悪性インフレ説かのべつ眞剣に論ぜられると共に,政治,経済の両中枢部が相異る陣営に対立しつつ然も全体主義的高度国防国家完成との目標に進みつつある訳である。学徒報國隊の一員として勤労奉仕にさまで肉体的苦痛を感じない健康に恵まれる貴君は、充分に時代を理解し、勉強すると共に、更に来たるべき君達のジェネレーションを担うに足る人物たらんことを期してもらいたく思う。それには遊べると共に讀書をし得、語り得る人間となるように学問と芸術の両者を解し、且愛するように。
 扨、兵隊になった兄は,兵隊にあることに甘えて見知らぬ人の激励や肉親の人々の必要以上の配慮をわづらはそうとは毛頭思ってゐない。この前の葉書で種々の品を送るように求めたがいづれもあればよしなくてもよしの品物である,との事を家の人々に伝へてくださるよう。だが新聞記者だった兄はニュースだけは知りたく思ふ。知らせたいがやめる…と云うような修辞は他の人に用ひて。折あらば東日エコノミストや毎日の新聞の見出しだけでも拾い書きしてくれるよう。兄は厳寒を前にした大陸で朗らかに自己の運命をみつめてゐる。

 書き慣れた文字であり、読みづらい崩し字もありませんのに、なぜ、一見しただけで読む気が起きないはがきなのでしょうか。目的は明らかです。陸軍の検閲者の読む気力を削ぐためでしょう。(身内の者なら虫眼鏡を使ってでも読んでくれる、との本人の思惑あり?)それにしても戦時下という状況下で、書いても大丈夫なのかと思うような気になる表現、内容があります。
▽「一九三五年のテーゼと云われる人民戦争運動が世界的に抬頭」
▽「それに引きかへて現在は十二年以来の事変、十四年来の世界大戦と混沌たる外壓にさいなまれ」
▽「政治、経済の両中枢部が相異る陣営に対立しつつ然も全体主義的高度国防国家完成との目標に…」
▽さらに“敵性用語”は使わない方針だったはずだが、「テーゼ」「ジェネレーション」は使って差支えないのか? 

 23歳の若者ゆえの大胆さからだろうか。それとも、ここまでは検閲者は知らないと見切って踏み込んだのでしょうか。真剣勝負で刃(やいば)は自分の身体には届かないと平然としている達人のようです。
 日本の検閲制度は出版法、新聞紙法が制定され、その後も治安維持法などの言論弾圧の各種の法律ができ、内務省などが事前に発行者に対して違法として記事の差し止め命令を出すことができました。いずれも梁田さんが新聞社入社以来、ずっとこの制約と付き合っていたので、使ったら危ない表現などは熟知していたはずです。

 手紙の趣旨は、学徒出陣の志願を望んでいる4歳下の弟浩祐さんに今の社会情勢を解説したうえで、志願を急ぐことはない、新しい時代を迎えるには遊びも読書も必要だし、学問も芸術への理解も大切だと、時には説教調になって「焦るな」という“警告”を発しています。感情を抑えた弟思いの気持ちが伝わってきます。
 また、弟にある用件を頼んでいます。家にははがきでいろんなものが必要だと書いたが、いずれも必ず欲しいというものではない。だが「新聞記者だった兄はニュースだけは知りたいと思う。」「折あらば東日エコノミストや毎日の新聞の見出しだけでも拾い書きしてくれるよう。」と頼む。見出しさえ読めたら、内容はだいたい察しられる。検閲に遠慮した見出しであればあるほど深読みも出来る。そう、梁田さんには自信があったのでしょう。
 それにしても「見出しだけでも…拾い書きをして…」は後輩の新聞記者としては、切ない文言です。現代は見出しに溢れている社会に住んでいて、まさに“見出しバカ”なのに。

 そして、最後はこう結ばれています。まるで詩のような一行です。
 「兄は厳寒を前にした大陸で朗らかに自己の運命をみつめてゐる。」
 この時、梁田さんは旧満州の東安省(現・中国黒龍江省東部)に駐在する「第二一一部隊稲田隊」にいる。冬を迎えようとしている。何故、気分が「朗らか」なのだろう? とにかく元気でいることは確かで、結びの一文は目立つから、多分検閲者も「朗らか」にひかれて、おう、元気でやっているな、と検閲済みの印や自分の印鑑を押したのだろう。まあ、東京の家族たちも安心することであろうし…。

 それにしても、どうして「朗」の文字を使ったのだろうか。
 白川静の『字通』を引く。①あきらか、あかるい②ほがらか③たかい、よくとおる、とあります。梁田さんは、弟と自分のために、「あかるい」という意味をとって、あえて「朗」を使った。ふたりの未来は明るい。生きて元気で郷里の忠生に帰ろうぜ、という兄からのメッセージとも読めます。
 このはがきの内容はそこまでは弟への説得があり、親たちに傳えて欲しい用件、また新聞・雑誌の見出しの拾い書きなど実用面ばかりで、結びの一行だけはトーンが違います。推測するに、どうも最初から結びはこれにしようと用意されたものではなかったでしょうか。検閲官の目くらましにもなるし…。弟よ、兄の暗示をどうか解ってくれと祈るような気持だったに違いない。そう考えると私には胸にストンと落ちるのですが。
 とにもかくにも、この満州からの軍事郵便(はがき)は東京多摩の忠生村(現町田市)には届いていた。

《独ソ開戦と赤紙》
 時間を赤紙が来る直前に戻します。
 梁田さんの未完の遺稿『召集令』には、昭和16年から17年にかけての政治経済部(のちに政治部、経済部に独立)の若い記者たちの不安定な心情を活写しています。
 16年6月22日、農林大臣石黒忠篤の後を受けた井野碩哉新大臣の伊勢参宮について、梁田記者も同行します。帰りの京都に向かう電車の中で独ソ戦開始の第一報を受け取ります。大臣のもとにも政府から連絡が入る。「独ソついに戦う。日本はどうなるのだ。私達は明るい窓外を見やりながら、戦争に狂うこの時代をかみしめました。」
 陸軍省や海軍省担当の記者たちが飛び回って書いた記事は検閲が厳しく記事にならないから、内容を読むことも知ることも出来ない。
 「私たち、若い記者たちは『おい、くるぞ』といい合っては、それでも他人事のような顔をしていました。そのくせ、心の底では、それがくるのを恐れていたのです――」
 7月13日、下宿に届いた電報は「レイジョーキタ一五ヒニュータイカヘレチチ」でした。準備するにも今日と明日しかありません。「(新聞)社にあがってみると、私の外に、岩崎強平と佐々木清亮(共に同じ政治経済部記者)のところへ動員がきていました。」編集局次長の千葉雄次郎(戦後、東大新聞研究所所長)が「こんなに動員して、一体どうなるのだろう――」と嘆いたそうです。その日は「日の丸」の寄せ書き会、挨拶まわり、(所属していた)農政記者会でも「日の丸」と送別会。これで13日は終わり。
 翌14日は郷里の忠生村へ。その晩は、村の人たちが実家の簗田寺に詰めかけ別れの酒宴が張られた。女子青年団からは「千人針」が届いた。父に「私は死ぬもんか。帰ってくる」と言ったものの、生家から見える七国山を見ながらこう考えます。
 「ひょっとしたら戦死するかもしれない。そうだ可能性ははっきりある。しかし、生きながらえるだけ、生きて帰ろう、と、またも思ったものでした」と。

岩崎強平さんは仏印に出征。1946(昭21)年復職、経済畑で活躍。西部本社経済部長兼論説委員などを務めたが在職中に死去、53歳。
佐々木清亮さんは九州の西部第二七三五部隊久保田隊での内地勤務。1944(昭19)年復職したが1949(昭24)年退社。その後、昭和電工専務取締役のとき死去、58歳。

《出されなかった挨拶状》
 新聞記者ですから、関係各所に入隊を知らせる挨拶状の草案や送付先のリストは事前に用意していました。入隊の朝、弟の浩祐さんにそれを印刷所に持って行くよう渡しました。
文案は次の通りです。

謹啓、盛夏の候益々御清祥之段奉賀候
陳者小生儀東京朝日新聞在勤中は公私ともに御高配を賜り厚く御礼申上候。
また今般東部第十部隊に應召仕候については御多忙中数々の御配慮を賜り深く感激仕候。
この上は不惜身命は只惜身命也との先哲の言葉を座右の銘とも致し、只管軍務に精勤仕る覚悟に御座候。
戦陣の厳しさ如何ばかりに御座候とも、御厚情に應えて盡すべきは盡し、課すべきは果す決意に有之候へば再び拝眉つかまつる日まで、何卒御休心下さいまするよう御願申上候先ずは右應召の御挨拶まで如斯御座候 
  昭和十六年七月十五日
                  東部第十部隊   部隊  隊
                           氏    名

 『召集令』によれば、梁田さんは、入隊や応召の挨拶状で判を押したような文章や常套句を嫌っていました。例えば盡忠報国とか皇恩に報いる、ましてや戦死しなければ恥ずかしいととれるような挨拶状は書きたくない、としています。要するに自分の言葉で書きたい。しかし、検閲の眼には最も注意を払わなくてはならない。危ないとなれば、このあたりか−−−
 「この上は不惜身命は只惜身命也との先哲の言葉を座右の銘とも致し」

 『召集令』にこう書いています。
 「『不惜身命』という言葉は、当時さかんに使われていましたが、それが『只惜身命也』とつづくことは、多くの人には知られていませんでした。」と。
 四字熟語でもある「不惜身命」の意は仏法修行のためにはからだ・いのちどうなってもかまわない(『新明解国語辞典』)ことだが、「只惜身命也」はいくつかの辞書で探したが見つかりません。そのまま文字をたどって解釈すれば、「只」は「ただひたすら」の意であり、身体と命を惜しむことなり、となる。とすると、仏法のために身体と命を奉げることは、まず身体と命を大切にすることだ、との解釈になる。これは私の考えですが…。
 検閲者が「皇国のために身を奉げる殊勝な心掛けだ」と思っていることが、逆になってしまう。果たして見破られることがあったのだろうか。

 ところが、思いがけないことに、この挨拶状を出すことを断念することになります。
 「再び拝眉」の文字に印刷屋さんが驚いたのです。時代が「死んでくるぞと勇ましく…」広がっている世の中に、平気で「生きて帰って来る」という文句はとんでもない、という言い分です。そして「こんな挨拶状を印刷すると、わたしまでも憲兵隊に捕まってしまう」と原文通りに製版することを断ってしまったのです。忖度、非国民の風潮がマチの隅々にまで行き渡っていたのです。この失敗例が“教訓”となり、前記の弟に宛てた手紙も小さな文字の行列になったのだと思われます。もともと狭いはがき、思いのたけを収めるには小さくするしかなかったのでしょう。
  
 一緒に郷里に帰ろうと呼びかけた弟はマニラで戦病死した、と梁田さんが知ったのは復員後のことでした。心中如何ばかりだったか。何年か経って叙勲の知らせがあったとき、「『そんなもの、今更』と吐いて捨てるような烈しい口ぶりでつぶやいていたのを思い出します」と淑子夫人が冊子のあとがきに書いています。

《シベリア抑留について》
 梁田さん自身が書かれた年譜によれば、シベリアで2度通算4年抑留されたことは(上)に記した。しかし、シベリア抑留を誰かに語ったということを私は聞いたことがないし、友人による、梁田さんの思い出を綴った文章にも見つけることが出来なかった。遺稿の『召集令』もこれから旧満州国にわたるかというところで休筆したままです。
 2006年から朝日新聞は読者の「声」欄に、「語りつぐ戦争」のタイトルで特集を組んでいるが、帰還した父が語ったという投書は読んだことがあるが、本数は極めて少ない。それに加えて、高齢化で亡くなっていくのが現実だ。梁田さんも語らない、その一人になってしまった。

 1962(昭37)年振り出しの新潟支局で梁田支局長の指導を受けた羽原清雅さんはのち政治部に移り、長く政治記者として全うしたひとりだ。幼い頃、母方の叔父を戦争にとられ、空っぽの遺骨箱だけがもどってきた体験を持つ。梁田さんの「遺稿」が未完に終わったことを惜しむひとりである。次のように書いている。少し長いが引用します。

 「何が新聞記者をして筆を折らせたのか。いま、それを解くカギはない。推測するのみである。あえていうなら、それほど厳しい現実に遭遇していたのだろう。
 おそらく、「物体」としての人間の死をいやというほど見たに違いない。酷寒の自然に生命を淘汰されるばかりでなく、人間が人間でなくなる中での殺害的行為の現場にも居合わせたとも考えられる。人間のもろさ、おごり、きたなさ――そうした内在するものが、抑制の堰を切って露出され、次第に開き直り、大勢になっていく姿にも、幾度となく接していたに違いない。
 それが、筆を執る思いを鈍らせ、遠のかせていたように思える。その葛藤を整える作業に必要なだけの時間が、彼の人生に用意されていなかったことが惜しまれてならない。」
(同人誌『土の薫り』=1994年)

 羽原さんと同じ戦中派の端くれである私にも、同じような体験がある。父方の叔父が南方で戦死し、帰って来た遺骨箱には石一つだった。次いで長兄も次兄も出征したが、幸いふたりは敗戦後間もなく復員した。一人帰る度に家の中が明るくなるのが嬉しかった。新潟県北部の小さな村でのことなのだが、周囲のあちこちで戦死・戦病死、時には復員と、よくある光景だった。
 そんな中で小学校3年生か4年生の時、同じ集落に樺太から引き揚げてきた家族がいて、そこの息子が私と同じ学年。何人か集まって戦争中の話や復員した人などの話をしていると、彼はいつの間にか集まりからいなくなっていた。母親が親戚筋だったので、その話をすると、「あそこはいろいろ大変な思いをしてやっと引き揚げてきたのだから、思い出させるようなことはやめなさい」と言われた。
 「寝た子を起こすな」「傷口に塩を塗るようなことはするな」といった雰囲気に包まれていたのが私の子ども時代の空気だった。嫌がることに触れさえしなければ、万事仲良くいくというのが身に着いた処世術だったので、梁田さんのシベリア抑留についても、事実以上のことを尋ねてみるということはできなかった。抑留とはどんなに人間性を損じ、常に死と背中合わせであったと知るのは随分と後年になってことであった。

            × × × ×

《気の合う仲間がいて》
 1971(昭46)年、役員待遇だった岡田任雄さんが朝日新聞百年史編修委員会の初代総監修者に任命され、「百年史」発刊に向け本格的に動き出した。岡田さんは、言論史に通じていた論説委員室の熊倉正弥さんと梁田浩祺さんに、相談できる身近な人として手伝ってもらいたい、とトップに陳情した。梁田さんはしばらく間があったが、1975(昭48)年に3人が揃った、と梁田さんを追悼する文の中で岡田さんが書いています。熊倉さんは朝日川柳の選者で筆名「神田忙人」。著作に『原論統制下の記者』などがあり、世相に通じています。
 この3人は仲がいい。調べると、共通項がいろいろあって面白いのですが、真ん中に戦争がどかんと座り込んでいるので、勝手に比較するのは気がはばかられますが…(いずれも早い順)
・生年=岡田、熊倉1915(大4)年、梁田1918(大7)年 
・朝日入社=梁田1938(昭13)年、熊倉1939(昭14)年、岡田1940(昭15)年       
・軍歴=熊倉1940(昭15)年 近衛歩兵第一連隊、岡田1941(昭16)年 北支甲第一八〇〇部隊、梁田1941(昭16)年 東部第10部隊→シベリア抑留
・復職=熊倉1945(昭20)年 政経部→政治部→論説委員、岡田1946(昭21)年 政経部→政治部→論説委員、梁田1950(昭25)年 世論調査室→政治部→論説委員

 年齢も社歴も似たり寄ったり。軍歴は昭和14~15年に集中しています。
 岡田さんは初任地の仙台支局に1年も経たないうちに応召されています。なんとあわただしいことか。
 熊倉さんはさらにひどい。昭和15年、応召・近衛歩兵第一部隊へ。同18年に同部隊から解除されたので、2月1日付で静岡支局に赴任。翌19年8月に政経部に異動が決まり、本社に行ったら翌20年2月に二度目の応召、千葉鴨川の東部第六部隊に赴く。半年後に「8月15日」だ。9月に政経部に復職。なんという目まぐるしさ。軍隊の崩壊ぶりを目の当たりにする思いだ。
 満州大陸に渡って3年目の梁田さんは病み上がりのまま敗戦を迎え、シベリア抑留に。舞鶴港に復員するのは昭和25年2月。1ヶ月後の3月には世論調査員として復職する。

 新しい職場「百年史編修委員会」。なにしろ明治時代から現代までの膨大な資史料があります。そこから何を引き出し、何にどう使うのか、私には見当もつきませんが、地道で根気のいる仕事であることは間違いない。岡田さんは「おくれて百年史執筆陣に入られた梁田さんは獅子奮迅の勢いで仕事に取り組まれた」と書いています。私が「獅子奮迅」が決してオーバーでないと思う根拠は、梁田さんが37、38歳のころ、著作『日本社会党』を自宅で執筆する様子を淑子夫人はこう書いているからです。
 「正座の苦手な夫は座ぶとんを二つ重ねて腰にあて、先ずたばこを一本、ゆっくりと、深く吸いあげてから筆を走らせた。それからは昼となく夜となく、休みの日に殆ど一日中、机の前に座り込んだ。冷たい井戸水を固くしぼった手拭を首にまいて、流れる汗を拭いながらのこともあった。」
 梁田さんが新潟支局長時代の三八豪雪(昭38年)のとき、夕刊用のセット版向けの本紙用取り換え原稿を出稿しなければならないのですが、支局員各自が書いた原稿を見ながら書くときの集中ぶりは、声をかけるのがはばかれるような雰囲気でした。
 熊倉さんもこんなことを書いています。「決して仕事を諦めない人であった。私がくさくさして、もう疲れたよ、降りたいよといって仕事をほうり出してしまうと露骨に不快な顔をして『百年史を少しでもいいものにするには、やらなきゃだめだよ。やれよ』というのであった。」
 根を詰める仕事に息抜きは欠かせない。メンバーが訪れたのは社(当時の本社は有楽町)を出てすぐの洋食屋レバンテ、志摩の牡蛎料理が自慢だった。岡田さん曰く。「ほとんど毎日、四、五人でレバンテでビールをのんだ」。誘う風景はこんな風だったようです。

 熊倉さんが梁田さんを誘う。
 「(梁田君は)とにかく勤勉、努力の人であった。『君がそう働くと、こっちがサボリにくくて困るよ』と私が言って、ちょっとやろうじゃないかと誘うと、少し考えて、そうするか、といって原稿をしまい、必ず手を洗う習慣で、それからビールをのみに行く。気分がいいと『もうちょっとだけやろうか』といって追加するくせがあった。」
 3人に共通する「政経部」「政治部」、そして「論説委員」を経てきているので、たがいに気心は通じあっていたに違いありません。それに“最後の職場”百年史編修委員会が加わったのですから殊更でしょう。梁田夫人が「あの3人は妬けるほど仲がいいんだから…」と羨むように言っていたことを思い出します。

 3人で戦争中の辛い思い出は話題になったでしょうか?くつろいでいるときですから、暗い話題はそう長く語り合うというより、ちょっとした地名や年度などの断片が出るだけでも、各自が大筋で判りあえる。家族のことになると、互いになんとなく遠慮もあって、ふんわりと終わりにしてしまう。それで満足していたのでしょうか、と私は勝手に想像しています。

 百年史編修委員会を熊倉さんと梁田さんが同じ年の1979(昭54)年に卒業、岡田さんは彼らを見届けた翌1980(昭55)年に卒業しています。

           × × × ×
※朝日新聞社は創刊50周年、70周年、90周年の節目に社史を発刊してきた。創刊100周年にあたる1979年(昭和54年)には『朝日新聞百年史』を刊行する予定で、社長直属の「百年史編修委員会」を設置して取り組んだ。しかし、諸般の事情で延期をせざるを得なくなり、第1巻の『明治編』が発刊されたのは1990(平成2)年で、20年にわたる編集作業だった。以後、第2巻『大正・昭和戦前篇』1991(同3)年、第3巻『昭和戦後編』1994(同6)年、最終の第4巻『資料編』1995(同7)年で完結。総ページ数2931ページ。

(元朝日新聞記者)

(2022.12.20)
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