【国民は何を選んでいるのか】
国政選挙から読み解く日本人の意識構造(6)

「死んだふり解散」で2匹目の泥鰌(どじょう)を手にした中曽根政権
― カギは「世論調査」と「定数是正」だった ―

宇治 敏彦


 去る10月22日に行われた第48回衆院選挙は「安倍自民党」の圧勝に終わった。野党分断を招来した安倍晋三自民党総裁(首相)の作戦勝ちだ。これで来年秋の同党総裁選での「安倍3選」は濃厚となり、3年後の東京オリンピックまでは安倍長期政権が継続される公算が強まった。
 こうした安倍氏の成功体験を見て筆者が類似のケースとして想起したのは1986年(昭和61年)7月6日施行の衆参ダブル選挙で、自民党が衆院304議席(追加公認を含む)と圧勝し、中曽根康弘首相の自民党総裁任期が1年延期され、5年の長期政権になった時のことだ。

 中曽根氏は、故大平正芳首相が命と引き換えに実施した史上初の衆参ダブル選挙での大勝を再度味わいたいと、自民党の金丸信幹事長や藤波孝生国対委員長(いずれも当時)と「謀りに謀って」ダブル選挙に持ち込んだ。なぜダブル選に拘ったかといえば、ロッキード事件後の衆院解散―総選挙(1983年12月18日)で自民党が36議席減らす250議席と過半数にも届かず、新自由クラブとの初の連立政権で、どうにか首がつながったことに中曽根氏は「次は絶対、名誉回復の勝利を期す」と決意したからだった。「83年の敗北は、ロッキード事件を機に政界引退をして欲しかった田中角栄元首相が立候補したことにある」と中曽根氏は見ていた。

 その田中派が竹下登氏らの造反で分裂し、1985年2月には田中元首相が脳梗塞で倒れてしまった。「何事も目白(田中元首相邸のあった場所)の意向を聞かないことには動かない政局」から解放された中曽根首相は、国鉄の分割民営化をはじめ電電、専売両公社の民営化など独自路線を突っ走った。防衛費の対GDP比1%以内という従来の政府方針の打破に動き、夏の自民党軽井沢セミナー(1985年7月27日)では自らの使命を「戦後政治の総決算」とぶち上げた。
 そして8月15日には靖国神社に総理大臣としては初めての公式参拝。そのかたわらレーガン米大統領との首脳会談(85年1月、ロサンゼルスで)、豪州、ニュージーランド訪問(同)、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談(同3月)、ボン・サミット出席(同5月)、欧州歴訪で仏伊首脳らと会談(同7月)、国連総会で演説(同10月)など翌年の東京サミット開催に向けて準備を怠らなかった。

 これらの中曽根首相の動静を振り返ってみても、安倍晋三首相は「中曽根型宰相」をモデルにしているのではないか、と思うほど思想信条や行動パターンが良く似ている。

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 中曽根政権は、以上のような経過を経て、1986年7月6日の衆参同日選挙にこぎつける。
 だが、そこに至るまでの経緯が実に手の込んだものだった。筆者にも苦い判断ミスの思い出がある。同年の通常国会には「現行の衆院定数は、一票の格差が3倍を超えており憲法違反」とする最高裁判決を受けて、定数是正のための公選法改正案が提出されていた。これが通ると首相が7月の参院選に合わせてダブル選を決断するかもしれないと、野党側は必死に抵抗を試みていた。坂田道太衆院議長は会期末(5月22日)が迫ってきた5月8日、「8増7減」という調停案を提示し、「この法律は公布の日から起算して30日に当たる日以降に公布される総選挙から施行する」と付言した。この改正案は国会最終日の5月22日に成立し、翌23日に公布された。

 理論上は6月21日に衆院選を公布すれば7月6日の衆参ダブル選挙が可能になる(参院議員の任期は7月7日まで)。まるで作新学院の江川卓投手を読売ジャイアンツが「空白の一日」(プロ野球界で、さまざまな縛りがあるドラフト会議の1日前に突如、入団契約した事件)を利用して獲得したのに類似するような話だ。多くの政界人が「そんな器用な真似は出来まい」と踏んでいた。ところが政府は、改正公選法を記載した官報号外を5月23日午前、東京で掲示したほか、空輸や新幹線を使って大分、和歌山といった区割り変更区にまで届けたのだった。

 通常国会の閉幕後に内閣調査室の依頼で筆者は政治学者たち5、6人の会合で政局見通しを話した。「日程的にも政治的にもダブルは無理でしょう」と私は述べた。すると佐藤誠三郎東大教授が「いや衆参ダブル選挙になる」と即座に反論した。そこで学者たちの間でも論争になり、蒲島郁夫東大教授(後の熊本県知事)ら大半の学者が私の意見に賛同した。だが佐藤教授だけが「いやダブルだ」と譲らず、座が白けてしまった。この経緯は拙著『実写1955年体制』(2013年、第一法規)にも書いたので、ご参照いただきたい。

 数日後、日本選挙学会の会合で蒲島教授に行き会ったら「あんたの言うようにダブルなんて無理だよ」と言っていた。また当時、ある葬儀で遭遇した宮澤喜一氏(宏池会の会長)も「これでダブルは消えましたな」と喜んでいたことを思い出す。

 ところが、後年になって分かったことだが、佐藤教授があんなにも強くダブルを主張した根拠があったのだ。それは国会開会中の5月11日、同教授が浅利慶太氏(演出家、実業家)とともに中曽根首相を訪問し、ダブル選を進言していた事実だ。
 中曽根氏の日記によれば、両氏から「解散して違憲状態を速やかに脱却すべしと具申された」とし「元より同感で、金丸、藤波君とは、7月6日衆参同日選挙で打ち合わせてある。しかし、当分、30日の周知期間のため、早期解散は無理となり、打ちひしがれているように見せなければならない。寝たふり、死んだふりである」と書いている。佐藤教授は、中曽根首相との会談で「ダブル選の実施」を確信し、小生との会合でもそう主張したのであろう。「寝たふり解散」「死んだふり解散」は見事に功を奏した。

 もう一つ、中曽根首相、金丸幹事長が衆参ダブル選に走った理由があった。それは自民党事務局が密かに同年春以来実施していた世論調査で、中曽根人気とともに自民党支持率が高く、早期解散に踏み切れば衆院で270議席の安定多数が確保できるかもしれないとの見通しが出ていた。それは選挙担当だった同党の砂田重民総務局長(中曽根派)が事務局に命じて、当時としては珍しかった全国世論調査を実施した結果によるものだ。
 それを見た中曽根、金丸両氏の顔が思わずほころんだといわれるが、砂田氏は「この調査は決して口外されないように」とくぎを刺したという。そのためか中曽根首相が同年5月28日の経団連総会で271議席の安定多数を目指すと述べた際も、記者団からの質問に「安定多数なんて言ってない。『安定勢力を目指す』と言ったんだ」としきりにカモフラージュしていた。確かに当時のマスコミの世論調査でも内閣支持率と同時に自民党支持利率が上向く傾向を見せ始めていた。ここでは読売新聞の調査を引用しておく。

 「中曽根政権発足後、半年余は41%-45%程度とやや低迷気味だったが、内閣支持率が50%台に乗せた直後の(昭和)59年10月から自民党の支持率も50%を超えるようになり、内閣支持率のピークと符合するように60年6月には55%という高水準をマークしている。中曽根首相が衆参ダブル選挙の決断を迫られていた61年5月の調査で、自民党の支持率は52%。野党の支持率合計は20%弱で、実に倍以上の高いレベルにあった」(1982年、加藤博久編著「‘86ダブル選挙分析 自民『304』議席の秘密」政治広報センター)1980年の大平首相急死に伴う自民圧勝のダブル選と違って、1986年ダブル選は中曽根首相と自民党首脳が謀りに謀ったうえでの勝利だったのだ。

 2回目の衆参同日選挙の結果は、次の通り。

(第38回衆院選挙)
▽自民党300(解散時250)▽社会党83(同111)▽公明党55(同59)▽民社党26(同37)▽共産党25(同27)▽新自由クラブ6(同8)▽社民連4(同3)無所属9(同5)▽合計508(同500)

(第14回参院選挙)
▽自民党65(改選前63)▽社会党18(同21)▽公明党9(同11)▽共産党7(同7)▽民社党4(同6)▽無所属5(同7)

 衆院では自民党が安定多数(271議席)を確保し、さらに6年前の大平首相時代のダブル選挙における284議席も上回る300議席の大台に乗せた。対照的に野党第1党の社会党は1969年の90議席をも割り込む83議席と大惨敗であった。

 東京新聞(中日新聞)の事前予測(衆院)では、自民党は275議席。最大限伸びても288議席で、300議席は予想を超えるものだった。朝日、読売、毎日、産経の各紙でも300議席を予測したところはなかった。また社会党について東京新聞は102議席で、最低だと84議席。他紙も90から100議席台が多く、83議席予測は1紙もなかった。

 そんな中で興味深かったのは東京新聞特報部が実施した事前の「各界50氏の同日選予測」で、ただ一人「自民300議席」を的中させた人物がいたことだ。
 ニューウエーブ詩人といわれたねじめ正一氏だ。中学時代の同級生だった海江田万里氏(当時は税金党。現在、立憲民主党最高顧問)が衆院選に出馬したこともあって「いつになく選挙に関心があった」そうだが、自民党の圧勝を願っていたわけではなく、むしろ「自民党を大勝させて内部崩壊させるしかない、と半分遊びで予想した」のだという。そして選挙後に自民300議席について次のようにコメントした。

 「保守化が強まったとか、そういうことじゃない。若い人は、自民党に加担していると思わずに、自民にいれている。自民党も、なぜこうなったのか、その原因に気づいていないはず」「中曽根3選もあるかもしれないが、あまり喜びすぎると思わぬアクシデントがあって、足をすくわれることになりますよ」(同年7月9日、東京新聞特報面)

 ねじめ氏の警告のように、ダブル選大勝後の9月20日には中曽根首相が「アメリカには黒人などがいるので知識水準が低い」と発言。米国内から強い反発にあい、同27日には取り消して陳謝した。また選挙後発売の月刊「文藝春秋」(10月号)インタビュー記事で藤尾正行文相が「日韓の合併は伊藤博文と高宋の合意に基づいている」と日韓併合を正当化する見解を示し、野党や韓国側の反発をかった。しかし、本人は辞任を拒んだので中曽根首相が罷免するケースもあった。

 なぜ自民党が圧勝したのかに関して筆者は(1)ハト派政権の鈴木善幸前政権と対象的なタカ派中曽根政権の誕生で、有権者の間にも保守志向が強まった、(2)「ダブル選挙はあるまい」と踏んでいた社会党など野党側の気の緩みがあった――ことが大きかったと見ている。言い換えれば、自民党が世の中の風向きを読み込んで、効率の良い選挙をしたのに対して、野党側は「風を読めない」まま効率の悪い選挙をしたことになる。自民党は49.4%の得票率(衆院)で議席占有率58.5%(300議席)と前回より10%近く占有率を増やした。対する野党では社会党が17.2%の得票率で、議席占有率は16.6%と得票率を下回る実績しか挙げられなかった。

 筆者に「絶対ダブル選だ」と断言した佐藤教授は、内閣調査室の要請でまとめた「報告書」(非公開の内部文書)に要旨、次のように書いている。

 「自民党の圧勝は、自民党に対する支持が基本的に拡大していたことに、その主因が求められる。自民党支持が単に量的に拡大傾向を示しただけでなく、質的変化を伴っている。

 近年、保守支持が拡大してきた要因としては、①ナショナル・アイデンティティの自覚、②生活満足度の向上、③定住率の向上、④環境・福祉など革新に有利な争点の克服、⑤ベトナム、アフガニスタンなど革新幻想の崩壊、⑥財政危機に対する革新自治体の統治能力不足、などである。だが中曽根政権下に見られた新たな上昇は、国民が現在享受している豊かさや平和を維持することが容易ではないことを意識した、⑦「現実的な時代認識」や行政改革をはじめとする既得権益にとらわれない改革断行によって困難な時代を乗り切るべく自民党が目指した、⑧「新しい方向性の提示」が効いていると思われる。国民は急激な改革は望まないが、現状のまま閉鎖状況に陥るよりは、改革を求める強いリーダーを求めた」

 こうした佐藤教授の指摘は、中曽根時代の300議席に限らず、先の第48回衆院選における安倍圧勝の284議席にも共通しているかもしれない。
 佐藤教授は1986年9月号の雑誌『中央公論』にも「自民党『歴史的勝利』の解剖」という論文(松崎哲久氏と共同執筆)を寄せ、「最近の自民支持率の急上昇は、首相のリーダーシップへの期待と支持」「国民の多くが内外環境の大きな変化と日本の直面する困難を自覚していること」「野党が現状維持と既得権擁護に傾き過ぎ」などをあげ、「野党が大胆な自己革新をすれば今回の同日選は自民党一党優位時代の『終わりの始まり』となることも十分可能だろう」と指摘した。

 確かに2回目の衆参ダブル選挙は、「中曽根康弘」という政治リーダーの個性が強く反映したことは確かである。
 「青年将校」「緋縅の鎧を着けた若武者」「風見鶏」「変節漢」「ヤス」「大統領型首相」などなど、さまざまな呼ばれ方をした中曽根氏だが、1970年代に中曽根派を数年間担当し、中曽根首相時代に首相官邸クラブのキャップとして接した小生の印象は次のようなものだ。

1、知識欲と好奇心が旺盛な人物で、何でも吸収しようという意欲を持っている。
 シャンソンをフランス語で歌うかと思えば、首相就任直後の初訪韓(1983年1月)では全斗渙大統領の前で韓国のヒットソング「ノーラン・シャツ(黄色いシャツを着た男)」を韓国語で披露した。努力家でもあるが、もともと器用なのであろう。中曽根番をしていた時、箱根の旅館でほら貝が置かれているのを見て彼はほら貝の吹き方を教えてくれた。私も含めて何人かの番記者がトライしたが、結句、音を出せたのは中曽根氏一人だけだった。「普段ホラを吹くのがうまいから」と陰口をきく者もいた。
 油絵を描くことも好きで、毎年欠かさず政治家たちの絵画展に出品していた。
 中曽根派には俳句のうまい政治家として藤波孝生、宇野宗佑両氏がいたが、中曽根氏も句集を何冊か出している。「暮れてなお命の限り蝉しぐれ」は代表作と言ってよい。さらに首相時代には座禅にも励み、上野の全生庵に通っていた。

 こうした多情多趣味は、一体どこから来ているのだろうか。その原点は、中曽根氏が政治家になろうと志した時につくった青雲塾にあるのではないか、と筆者は思っている。青雲塾「修学原理」の「目標」として同氏は、次のように書いている。「生きたままの最高の芸術品に、その人生を完成して世を去ることを修学の目標とする」
 「生きた芸術品」たらんとして、政治家稼業と同時に、シャンソン、油絵、俳句などにも関心が向いたのだろう。

2、目立ちたがり屋であること。
 政治家は誰でも目立とうとするのだが、中曽根氏は飛び抜けている。首相に就任した直後に後藤田正晴官房長官を通じて一つの希望を官邸記者たちに提示した。「記者会見は立ってやりたい」というのである。当時、筆者は共同通信のキャップとともに内閣記者会の幹事を務めていたので、各社代表者会議で首相の要望を諮った。しかし、「アメリカ大統領の真似ではないか」「首相が立って会見するなら記者団も立って聞かねばなるまい」など不評で、誰一人賛成しなかった。
 結局、首相も官邸内での立っての会見は断念し、同年12月19日、参院補欠選挙の応援で訪れた富山市の会見で初めて「立ったままでの会見」を実現させた。最近は官邸でも立っての会見が定着しているが、当時の記者たちは「マスコミは国民の代理として質問しているのだから、記者会見も官邸側の都合でやるのではない。官邸と記者団とが対等であるべきで、質問も官邸の指名でなく記者団幹事が主導して行う」と考えていた。そうした筆者の経験からすると、近年の首相会見などは「官製の記者会見」に思えてならない。

 もう一つ、中曽根氏の目立ちたがりで語り草になっているのは1983年5月28日、米国ウィリアムズで開催された第9回サミット(先進国首脳会議)で、記念撮影の際に中曽根氏が指定のポジションを無視してレーガン米大統領の右隣(カメラマンから見て右側)にさっさと位置を確保したことだ。これについては「日本も世界の先進国の中心にあることを印象付けたかったから」と後日語っており、それなりに許容される行為だったかもしれない。

3、「良い発言・知恵は盗む」のが中曽根氏の常識だった。
 たとえば1983年1月、訪米の際、「ワシントン・ポスト」紙主催の朝食会で飛び出した「不沈空母」発言(正確には「日本列島をソ連に対抗する巨大船にしたい」という趣旨で、「不沈空母= unsinkable aircraft carrier」は通訳だった村松増美・サイマル社長の訳)も、そうだ。1980年、訪米した大平正芳首相はカーター米大統領との会談で「防衛関係では今まで通り、日本列島を4杯の航空母艦とみなして自由にお使いください」と発言し、対ソ戦略に苦慮していた同大統領を感激させた。この時は共同声明が出されなかった非公式会談だったので大平発言は当時、問題化しなかった(後年、米側の通訳を務めたコーネリアス飯田氏が月刊『文藝春秋』1989年4月号で大平発言を明らかにしている)。
 早耳の中曽根氏は、訪米前に大平発言を承知していたものと思われる。大平首相没後に中曽根氏は、大平氏の娘婿・森田一氏(元運輸相)に「大平時代にまとめた『環太平洋構想』『田園都市国家構想』などを使わしてほしい。また香山健一(学習院大教授)、公文俊平(東大教授)、佐藤誠三郎(同)氏など大平ブレーンだった学者を私に引き継がせてほしい」と申し入れ、了解をとっている。

 「中曽根君の前に演説するのは嫌だ」とぼやいていた政治家もいた。選挙区(群馬3区)が同じだった福田赳夫元首相で、「わしの演説のおいしい部分を別の演説会ですぐ採用するのだから」。旧制高崎中学で福田、中曽根両氏を教えたという数学の教師・中曽根宇内氏が二人を比較して次のように語っている。

 「秀才といってもくらべものならない。福田先生が甲の上なら、一方は甲は甲でも下だね」「福田先生に(陳情ごとを)頼むと、全部即決してはからってくれる。先生は慎み深く、地元の人にそんなことはいわない。中曽根の方は、あれはオレがやった、これもオレがやった、これもオレの力だと、高崎じゅうへ電報雨と降らす」(1972年8月7日『週刊文春』)

 この老教師は福田びいきだったのだろうが、それにしても中曽根氏の「真似上手」の一面を伝えている。
 中曽根氏は現在99歳。来年5月27日の海軍記念日には満100歳だ。安倍政権は当面安泰だが、再来年の2019年が日本列島を二分する「大混乱の年」になる可能性が強いと予測される。消費税(現行8%)の10%への引き上げは自公連立政権で押し切るとしても、9条(戦争放棄)改定を含む憲法問題は、公明党も慎重な側面を見せているので、簡単には国民投票になるまいと思うが、護憲が瀬戸際に来ていることも確かだ。筆者は戦後平和の原点である日本国憲法を死守すべきだと思うが、中曽根政権下の「保守化」に次ぐ安倍政権下の「超保守化」傾向が日本国を劣化させるのではないか、と強く懸念している。100歳を迎える中曽根氏の大局観も聞いてみたいものだ。

 (東京新聞相談役)

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