【旅と人と】
母と息子のインド・ブータン「コア」な旅(16)
◆「国境の町」プンツォリンではなく回想…チベット活仏少年僧の思い出
大雨が続いた日本。みなさまご無事であられることと存じます。海外での大雨をご経験されたかたは…この雨は日本じゃないぞ!!とお感じになっているだろうと思います。
私自身は1988年の頃の体験があります。インドのヒマチャル州の山の家では大雨で物資が届かず、水が溢れそうになっている道をざぶざぶと歩き、ようやく腐りかけたトマトと芽がでてきそうなジャガイモを手に入れて、ストックしていたツナ缶で数日食事をしたことや、そこから小旅行にでかけたジャンムー・カシミール州でタクシーに乗ったとき、川のようになっている十字路の向こう側をまるでボートのように渡っていった経験があります。
その小旅行が終わって家に帰ったら、かなり長雨だったらしく、部屋中がカビだらけでかび臭くて、カビの臭いが取れるまで部屋を昼間の時間帯に全開しすべて日干し。2日間、ゲストハウスに宿泊しました。25年以上前のことが今回の大雨で鮮明に蘇りました。
今回も活仏の話しを続けさせていただきます。1988年の思い出。しかし、その前に最近のニュースを少し取り上げさせていただきます。
2015年9月6日、チベット自治区成立50周年の記念式典の前宣伝として、中国国務院報道弁務室は、《チベットにおける自治区制度の成功とその業績---民族区域自治制度在西藏的成功実践---》と題した白書を公表しました。それに関する記者会見が行われ、ドルジェ・ツェードップ西藏自治区副主席が会見で白書以外にパンチェン・ラマ11世の消息についても語りました。パンチェン・ラマは、一般的な説明ではダライ・ラマに次ぐ宗教的指導者とされていますが、正確にはダライ・ラマに次ぐ政治的影響力を持つ宗教的指導者なのであって、第2の宗教的精神的な意味を持つ指導者ということであれば、各宗派のトップであるともいえます。
前回お伝えしたカルマパ転生上師を第二の精神的指導者と考えている信者も少なくありません。中国の立場ではパンチェン・ラマはチベット支配に欠かせない重要な聖職者です。そして政治家です。パンチェン・ラマ10世が1989年に急逝し、その後、転生の11世にチベット亡命政府がギェンドゥン・チューキ・ニマくんを認定(ダライ・ラマ指名と日本のメディアは伝えていますが、亡命政府認定→法王「承認」)、中国政府はギェンツェン・ノルブくんを国務院認可しました。二人のパンチェン・ラマが存在するのです。そして、亡命政府認定のパンチェン・ラマは長年消息不明となっていて、今回の会見の内容は「健全な成長を遂げ、普通の生活をしている。本人は干渉されたくないとのこと」と、なんとも言えないものでありました。
…ところで、ダライ・ラマとパンチェン・ラマの言葉の意味について申しますと、どちらもチベット語と外来語の組み合わせです。ダライはモンゴル語の大海、パンチェンは、サンスクリット[インド古語]のパンディッタ=学匠とチベットのチェンボ=大きいで、さらにモンゴル語のエルデニ=宝(人間国宝のような意味・チベット語ではリンポチェ)と3言語の合成です。ラマはチベット語で上師。メディアで、ダライはチベット語で大海と間違えた説明をされていることがしばしば見受けられます。
この会見については拙ブログでまとめ記事と感想を書きましたので、ご興味がおありでしたら、ご高覧くださいませ。
「チベット白書」(自治区成立50周年)を発表☆パンチェン・ラマについても
http://ameblo.jp/amalags/entry-12070411339.html
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1. 【回想】1988年「意に添わないときは別に原因がある」老転生上師の教え
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1988年3月、うら若き乙女というには、少しお姐さん、当時は「売れ残りのクリスマスケーキ」(24歳までに結婚しない女性)という年齢で大学院修士課程をなんとかかんとか修了し、博士課程にストレートで進むにはお金もなく、論文を出す能力もなかったため、論文の基盤を作るためにインド・ヒマチャル州ダラムサラで再び勉強することにした。
香港→(貴州省→)四川省→甘粛省→青海省(北と東のチベット地域)→ラサ→ネパールを陸路で経由して到着する頃には6月となり雨期が近づいていた。ダラムサラはチベット亡命政府とダライ・ラマ法王の寺院ほか小さな寺院がたくさんある。亡命チベット人がたくさん居住し、難民学校もある。仏教に関心がある外国人が観光で訪れるスポットである。また西洋人などは長期滞在して「英語話者寺院」で修行や勉強をしている。かの有名な俳優リチャード・ギア氏もテレビ局俳優時代のこの頃、この寺院で勉強していた。
そして、この当時より少し前くらいの時期にオウム真理教の人たちが集団でいろいろな寺院で勉強に来ていたらしい。私が滞在中、何度も彼らの噂話を聞いた。良い噂でも悪い噂でもなく。私は最初リンブル・リンポチェという転生上師に習っていた。いい先生だった。先生の部屋にいた若い僧はすごく美しい文字を書く。写経の浄書の仕事を黙々とやっていた。しかし耳が聞こえない。中国人にぶんなぐられて聴覚を失ってインドに逃げてきたのだという。その部屋にいたおじいさんの僧侶もいいかただった。部屋は、3人部屋が普通らしく、部屋の主と弟子・ベテラン僧侶の3人がひと部屋で生活している。
ここで勉強するのは好きだった。しかし私の勉強の目的が先生のご専門と違うということでほかの先生に変えてくださった。そのきっかけは勉強以外のことだった。遅刻が3回続いて、しかし遅刻の理由は途中で出逢った人が「子どもの教育のスポンサーになる人を探してほしい」とか、今急いでいるのに後にしてよ、といいたい内容を話しかけられて時間通り家を出たのに遅刻していた。長い坂道を登ってきて疲れているところに呼び止められて…と説明した後、先生はその話しではなく「それは他の先生に変えたほうがいいという意味だ」とおっしゃって師匠のところに連れて行かれた。
師匠が変わってから、そういう呼び止めがなくなった。それどころか、呼び止める人は帰宅途中で勉強の後、経典を抱えて歩く私をみて「経典の解釈と翻訳の勉強をしているのだね」「はいそうです」その後「しっかり勉強しなさいよ」または「日本人は真面目だから勉強ばかりしておかしくなる人もいるから楽しいこともして、美味しいものを食べてよく寝なさいよぉ」というやりとりになった。先生のところで勉強していたときは、…私自身が学びたいことと違うんだけどなぁ、先生のカム方言聴き取りにくいから聞き返している時間がもったいないなと思いながら山道を歩いていたのが雰囲気に出ていたのかもしれない。
先生がお気づきになったことは深い。自然災害ではない場合、出来事としての偶然は自分の心と外界の現象と連動して起こる。仏教哲学の空性論の理念ではない現実的なこととしての解釈だ。チベットのお坊さんが占いのようなことをして当たるのは哲学に因るからだ。ついでに、オウム真理教の教祖が超能力のように空中浮遊の写真を世間に出しているが、チベットのお坊さんも同じことができる…ただし修業で鍛えぬいた筋力だ。チベット仏教のパワーは超能力ではない。知識と修業の結果だ。
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2. 【回想】1988年かわいい転生上師の少年僧のきょうだい弟子
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私の師匠はダライ・ラマ法王のご自坊(直属寺院)であるナムギェル学堂の経頭(読経のリーダー)トゥプテン・チョムペル師だ。転生ではなく叩き上げの僧侶。チベットのポタラ宮にナムギェル学堂があったころからずっと法王の許で僧として生きてきた。インドに逃げる時もポタラ宮からだった。出身地がラサとナクチュ(那曲)の中間のダムシュンという遊牧地で、日本でチベット語を教えてくださったゲシェ(博士)テンパ・ギェンツェン先生と方言が近い。師匠はポタラ宮、ゲシェ先生はデプン寺なので、ラサ語も同じだった。録音がいらないくらいわかりやすいチベット語だったので時間も短縮した。
師匠はダライ・ラマ法王の儀礼・法要の読経リーダーとしてつとめられているので実践的なことも教えていただけた。すごくいい声なのに「いや、私は読経より機織りや道路工事のほうが得意なのかもしれないよ。ダラムサラに逃げてきて、聖俗関係なくみんなで道路を作ったり、お寺を建てる資金を作るためにカーペットを織ったりしていたからね」と笑いながらおっしゃっていた。ほかにも思い出は尽きないが長くなるのでこれだけにしておく。師匠の話しをしたかったのではなく、同室にいた少年僧の話しを紹介したかったからだ。しかし、師匠の人柄について軽く触れないと様子を感じ取っていただけないかもしれないと考えたからだ。
部屋にいた少年僧を紹介していただいた。彼はタグルン・マトル・リンポチェ。当時8歳。色白でおめめくるくるマルコメくんのさらに賢さがにじみ出たとても可愛い子だった。カギュ派の転生上師で「預かり弟子」ということで法王のそばで高僧となるべく学問と礼儀と品格とを身につけるためにゲルク派のお寺で勉強することになる。小さい子だけど兄弟子になるのかなぁ…と思いながら、この可愛いお坊さんと挨拶した。
亡命家庭でラダック生まれ。父親は交通事故で亡くなったため、母親が女手ひとつで育てていた。転生上師は貧しい家庭・不幸に見舞われた家庭出身の子が割合多いと感じている。私の知る限りでは裕福な家庭出身や元貴族出身は比率として低いような気がする。もしかすると財産によって生じる教育格差を広げないため、わざと貧しい家庭の子を選んでいるのではないかとすら思っていたことがあった。また字数がオーバーしそうなので、エピソードをひとつ。ある日、少年転生上師がすっとんで外から部屋に帰ってきた。
「先生、せんせぇ、せんせ〜〜ぇ☆ あのね、あのね、牛がね、牛が、前足で鼻をかいていたんだ!!」師匠「そりゃ牛だって痒けりゃ前足で掻くだろうさ」
ありえないものを見たと驚いて報告する少年上師。ありえないと否定しない師匠。…母親となってこのときのことは私の子育ての根幹となった。少年上師も師匠も素晴らしい!!
次回は、回想をもう少し続けさせていただきます。そして目的地パロの地元情報と文献知識を授け賜われたンガワン・テンズィン金剛阿闍梨との謁見です。
(筆者は高校時間講師)