【旅と人と】
母と息子のインド・ブータン「コア」な旅(その6)
■美しい土地ダージリンで知った「国境線」(中編の4)
楽しいながらも(本当は)悲しい人々とも出逢った充実した旅!!
国際誤解??風評被害??日本で語られる姿は現地では幻想のようなものだった。
日本から中国まわり経路からインド・コルカタで映画を見て過ごし、そしてダージリン。目的地はブータン。
前回は、観光地「チベット難民ハンドクラフトセンター」での出逢い。私たち親子が「ダージリンで出逢った最強の爺ちゃん!!」と評した83歳の男性から学んだ「仕事」「年齢」。
今回は、地元民と化したネパール人たちとのやりとりで感じた「美味しい」は人の心をつなぐ食べ物関係の話しを述べさせていただく。軽いノリで楽しんでご高覧いただけるものと思っております。
過日、10月半ばに夫と私とふたりでネパール人経営のアジア料理屋で遅めの昼食を食べた。ここは昨今の都内近郊ネパール料理屋ではなく、開業20年続いていて、料理もきちんとしている店だ。ネワーリー(カトマンドゥ盆地に多く住む仏教徒民族・ネパール国内では高いカーストに位置する)のオーナーと話しをした。 (彼の話しも面白いので機会があればご紹介したい)そして「今、ポカラにホテルを建設中で日本料理のレストランも中に作る予定です」…そして、「私は60になったら仕事をやめる。
14歳から働いてきたし、日本に留学生で来て日本でいろいろな仕事を経験してきたから、これで十分」彼は40代だ。前回紹介したダージリンの爺ちゃんとは対照的な考え方を持っていた。いや、対照的なのではない。ブータン(4代)前国王は、憲法の草案を作るとき、「国王の定年は60歳」と自分で盛り込み、それが可決し、ブータン王国憲法の条文となっている。しかも前国王は、60歳になる前に退位し、現在の若い5代目に王位を譲ってしまった。理由は「新しい立憲君主制の国になったのだから憲法ができた今、私は退く」とのことだ。定年はやめなくてはいけない年齢ではなく、そこまで続けてもいい年齢という意味であって、続ける必要がないと判断すれば自分がいつ仕事をやめるかは自由なのだ。自分の仕事は自分で期限を決めるもの、仕事は諸行無常のひとつなのだ。
話しをダージリンに戻そう。
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1.ダージリン ローカル茶葉のお土産を買う
---出逢った人々・ここは誰にとっても「終の棲家」ではない(6)---
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滞在3日目。タクシーを使わずに「チベット難民クラフトセンター」方面に徒歩で出かけた。その帰りにローカル茶葉の露店を出していた茶畑のご夫婦に出逢った。目についた茶葉は3種類で、「紅茶」「緑茶」「ウーロン」ともう一種(覚えていない。興味がなかったので)を売っていた。日本を出る前からダージリンの紅茶をお土産に買うつもりでいたので、いいところで出逢ったと思った。お土産屋さんやショッピングモールで売られている紅茶は思ったよりも高く、しかし、キレイなパッケージやキレイで気が利いた入れ物に入っていた。象の絵の小箱や入れ物が可愛かったので数個購入したが、配るお土産として普通のパックものがほしかった。
地元の人相手の商店では「ロプチュウ」というブランドものの紅茶もそこそこ安い値段で売られていたが、日本人に渡すには多い!! 彼らの売っている茶葉は量が適切だったので、こちらが積極的に買いたいものではあった。紅茶と緑茶の値段をきいたら、「10パケット100ルピー」…安い!!で、まてよ、ここは軽くだけ値切ろう。「紅茶5パケット、緑茶5パケット、1パケット、サービス」…もっと買えばもっと値切るけれど、11パケットあればいいだろう。で、すんなり交渉成立。息子が横でニタニタしていた。「エカ・パケッ・サルビス、ははは」あ…英語で話しているつもりで混ざっていたんだ、ネパール語・ベンガル語の「1」はエカだ。南アジアの英語はサービスのRが強い。
いやそういうことでなく、当然のように値切っていた私が面白かったのかもしれない。この茶畑が広がる景色、そしてネパールでよく見る田舎の人たちと同じ服装のご夫婦、さっきチベット語を思いっきり話して…いや、思いっきり話しをきいて…感覚が戻ってきているのを感じた。彼を生む25年くらい前に過ごしたネパールでの感覚が。インドにいるがネパールにいる錯覚を起していたのかもしれない。
買った直後に思い出したが、ローカル茶葉は当たり外れが大きい。無選別だから高級茶より美味しい可能性もあるし、くず茶ばかり入っていると、なんだこれ…日本で買ったほうがいい…くらい。ただし、ぜったいに「新茶」、ほぼ摘み立てである。帰国して渡すときの話題のネタになるのでローカル茶葉のお土産はおすすめだ。…ちなみに、さすがダージリン!!…それとも新茶だからか?? 外れがゼロだった。差し上げて喜んでいただけたようだった。自分でも飲んだが、インドに住んでいたダラムサラ(ヒマチャル州)やネパール・カトマンドゥ郊外で飲んだローカル茶葉よりもずっと美味しかった。
このご夫婦が、いわゆる「地元農家」なのだろう。およそ100年前英国人につれて来られたグルカの軍人の子孫たち。彼らのスマイルは、のんびりしたネパールの田舎にいるという錯覚を起こさせる。(いまやネパールも連邦になる数年前から国がおかしくなっているので、こちらのほうがのんびりしているのかもしれない)
歩きながら疑問が湧いてきた。いずれ誰かにきいてみたい。
ここで生まれここで死んでいく人生…それとも。この人たちは美しい山々に囲まれた地で満足しているのだろうか、若い子たちは都会に出ていくのだろうか、ここで茶畑の仕事の跡を継ぐのだろうか。インド国民になってはいるが、軍隊の仕事にも出ていく者がいるのだろうか。あちらこちらに遊牧・行商していくチベット系民族とは違うのだろうか。ネパールは「帰る」場所なのだろうか。ここダージリンとシッキムのネパール系居住地域とで、「グルカランド」として独立できたとして、幸せになれるのだろうか。
じいさんの代に江戸に来て、三代続けて江戸に生まれて育ってはじめて「江戸っ子」を名乗れるであれば、「ダージリンっ子」は、もっとも古い退役軍人のお茶栽培や避暑地使用人の移住者家族でやっと今の子ども世代ということになる。チベットから亡命してきた人たちはまだ「ダージリンっ子」はいないことになる。
ああそうか、いまやネパールはフィリピン同様、人材・労働者輸出国で、そういう人たちを日本で見ているから余計に落ち着いて住んでいる人たちを見ても、次に来たとしても、もういないような気がするのだろう。ダージリンを再訪することがあるならば、このご夫婦ともう一軒、テントのようなバラック小屋の軽食屋さんに逢えるのであれば、定住し、安住している人たちにとって「終の棲家」と考えていいだろう。こんなに美しい土地の人々の生活は定着感がないほとんどヨソ者で構成されている。これがダージリン。
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2.ダージリン「テントのようなバラック小屋の軽食屋」
---出逢った人々・ここは誰にとっても「終の棲家」ではない(7)---
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山の沿道にはいくつかお茶できる・軽く食べられる店がポツポツと存在する。ただし、店によっては外観から店とはわかりにくい…看板なしとまではいかないが、覗かないと軽食屋さんなのか民家なのか慣れていない人には区別がつかないだろう、というよりも大抵の人たちは何も考えずに素通りしていくだろう。
新しめでオシャレな軽食屋もあるが、どちらかというと観光客向け。3日目はそういうオシャレな店で休憩したが4日目は宿を引越ししたため遅めのブランチを掘っ建て小屋バラックのテントのような軽食屋「グルン・ティー・ショップ」で、ブレックファスト・セット20ルピー(日本円にして32円)のチャイとチャパティとジャガイモと葉物野菜のカレー煮のセットをそれぞれ、そして「モモ」というもともとはチベット料理だがネパール料理として定着している蒸し餃子(または餃子型小龍包)を食べた。ここで、以前はチャパティ用のフライパンがないとうまく焼けないと思っていたのだが、軽く焼いて炙るという焼き方を見た。ここは家族でやっている店だとすぐにわかる。下の娘がウェイトレスとしてオーダーを取り、上の娘がモモの皮をこねて作り、父親がモモを拵え、母がチャパティを焼く、という小さい店だが、分担作業をしている。
まずブレックファスト・セットが出てきた。息子「安くて美味しい!!」「うん、やっと土地に慣れたから地元の人が食べる安くて美味しいが出逢えたね」後で気づいたが、この店でスプーンやフォークが出てこなかったのだが、なんとも思っていなかった。で、モモを待ちながら、二人で彼らの作業を見ていると小さな店であっても職人技だ。上の娘の少しでも規格外の皮をよけて作り直しする皮の位置にはじき出し、黙々と具を包んでいく父親。それ渡すタイミングが阿吽の呼吸。どうやって準備したのかわからないが下ごしらえが全部終わったら、皮も具も余っていない。
店の様子もグルン族の衣装もネパールにいるのと変わらないのだが、この精密さは、やはりここはインドだと思った。インドでは民家の窓がやや歪んでいたり、へんな隙間があったり、工事現場の足場の組み方が日本の鳶職のような芸術的とはいえなかったりするのだが、私たち日本人がどうでもいいようなことはものすごく精密で厳密でこだわりを感じる。この「モモ」作りの作業もまさしくそれだ。彼らはネパール人ではない。ネパール系の「インド人」だ。
彼らを見て、横浜中華街の華僑4世たちがここ数年日本に来た新華僑(文革以降に在住資格を得た人たちをこう呼ぶ)について話していたことを思い出した。ある意味日本人以上に「日本人」だと思うことがある。「あの八百屋さんは魚屋の恰好をしているでしょ。最初ここに来たときは、テレカ売っていて、それからケータイ屋、そして、魚屋、八百屋…節操がない…自分の仕事がない」「就学生で勉強しないでバイトして、甘栗売って、レストランで皿洗いやって、不法労働して、お金を送ってもらい、貯めたお金で知らない土地で横浜中華街で修行したといってシロート料理を出している人たちがいる」「ある同郷会の大物がレストランを丸ごと売りに出した。
あっさり新華僑が全部買い取ったので唖然とした。古くからの地元の人たちは恩義や仁義があるからまず手を出さない。日本人に買い取ってもらうつもりだった」ペリーたちのために通訳として日本に住み着いた人たちの子孫や明治の洋風な家具や楽器の職人さんとして来て住み着いた人たちの子孫は、古き清国の良さを残し、古き日本の良さを残している老華僑たちだ。ネパール系インド人として生活して定着していこうとする彼らとどこか重なるものを感じたのだった。この土地の人たちは「故郷に錦を飾る」夢を持っているのだろうか。それともすでにここが故郷になっているのだろうか。グルン族とタマン族が独立したいという話しを知らなければ、ああこの人たちはネパールの良さを残し、インドの良さを残してここで暮らしていくのだなと素直に思えただろうが。
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3.ダージリン、息子「ミトチャ」を覚える!!
---出逢った人々・ここは誰にとっても「終の棲家」ではない(8)---
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4日目。最後の夕食。屋台が並ぶ一角。まるでイベント会場のような看板を出した夜店が夕方になって突然増えてくる。エリア的には観光客も地元の人も所要でダージリンの泊まっている人も、どこの国からでもどの民族でも誰が食べに来てもOkな空間ではある。観光客用のホテルやお土産屋さんが並ぶエリアから進んだ広場の先に位置する。到着当日にモモの移動販売屋台が気になっていたが、食べそびれてしまった。その翌日、ここのイベント会場風の屋台のエリアをみつけた。
旅行中「モモ」はひとつのキーワードになってしまった。それはタイまで続くのだが、後述させていただく。そして、選んだ店で「モモ」と「シャパレ」を注文する。「シャパレ」はチベット式のピロシキだが、なんと!!ここダージリンには「ベジタブル・シャパレ」という肉ではなくキャベツや玉ねぎの入ったものがあった。チベット語で「シャ」は「肉」を意味し、「パレ」は「パン」を意味する。「肉なしシャパレ」はネパール系の人たちが育んだ新しい料理ということだろう。揚げたお好み焼きみたいなものになっていた。
この店で、お客とお店のご夫婦との会話。お父さんが妙に元気が良くて、お母さんがお父さんのおっちょこちょいさをいさめるという昭和の風景ってきっとこうだったよね、という楽しいご夫妻だった。そして、ネパールから仕事で来たというお客。息子にみんなで質問。「キミは何年生?10年?12年?」「いや僕は社会人です」「モモ、美味しいか」「イエス、テイスティ」お父さん「ミトチャ…ミトチャは美味しいだよ、ネパール語で」「ミトチャ…ミトチャ…」、私「ミ・ト・チャ」息子「バラして言うなよ、かえって覚えづらいよ」「ごめん、ミトチャー」お客「Oh!!おかあさん、ネパール語知っているの」(発音良かったのかな??)「少し…(単語を並べる)」息子が食べながら「ミトチャ…ミトチャ…、言いながら食べていると、もっと美味しくなっていくよ、ミトチャ…ミトチャ…」そして、「ミトチャ…ミトチャ…」を聞きながらご夫婦とお客さんの顔がどんどんゆるんでいく。みんなでスマイル。見た目10代の男の子が「ミトチャ…ミトチャ…」とやっていれば、それだけで大人は楽しいよね。美味しいものって、幸せを呼ぶ、それを声に出して言えば、空間が溶けていくようにみんなが和んでいく。「ミトチャ…ミトチャ…」
帰り際に「美味しかった」と言う過去形を教えてくれた。
「ミトヨォ」おっ…ネパールだと「ミトギョ」だけど、ダージリン訛りだな。言葉はチベット語とまざっているんだな。
「美味しい」は言葉を超えた世界の幸せ。言葉にすればもっと幸せ。
そういえば、四川の片田舎の軽食店で「ハオツマ?t(美味ししいですかぁ)」と方言ベタベタのおばちゃんが心配そうに厨房から私に訊きにきたことがあった。「美味しい」は思いやり。
世界のほとんどの人たちがいろいろな意味で「故郷喪失」状態だ。自分の国や言葉で暮らしていても、なにかしら自分の居場所だけど本来ではないと感じる要素が転がっている。うん、みんなどこにいても「終の棲家」なんてないのかもしれない。歴史や政治の「国境線」とは別なんだろうと思う。きっと誰もが地球が「終の棲家」なんだよね。
「ミトヨォ」美味しかった。
母子はダージリンからブータンとの国境の町「ジャイガオン」へ向かう。
「国境線」の悲しみを乗り越えて生きている人たちが住む美しいダージリンを去る。
次回はダージリン後編・もう少しだけダージリンの話しを続けさせてください。解説的なまとめと観光案内をいたします。そしてブータンに向かいます。
(筆者は高校時間教師)