■ 民主党さん。ドウナッテイマスカ?      西村  徹

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■ 鳩山由紀夫氏


  思えば不思議な一年だった。まさかの政権交代がほんとうになって、「維新」
というようなことばでそれは語られ、たしか菅さんは「これは革命だ」と言った。
ともかくも俗に格調高いといわれるほどの、空想的で自己陶酔気味の、いささ
か学芸会めいて、こそばゆい鳩山首相の就任演説があって、平田オリザの書いた
台本朗読に喜劇役者の愛川欣也などは涙を流したりした。オーラなどと持ち上げ
る人もいるほどであったが、私はどこかフォニーという印象をぬぐえなかった。

 ともあれ「友愛」の軽佻と浮薄に一抹の不安はありながらも、「緊密で対等の
日米関係」などとくすぐられたりもするものだから、束の間のユーフォリア(多
幸感)はわれわれにもあった。しかしそれは急速に凋んでいった。その後の鳩山
氏の、トラストミーとか腹案とか、どこか思わせぶりで信頼性に乏しい一連の発
言によって泡のように凋んでいった。

 普天間代替地は孫崎享氏の進言に従って「県外」にとどめていたならば比較的
抵抗なく事は進んでいたであろう。軍事評論家の田岡俊次氏もまったくおなじこ
とを言っていた。その場に揚陸艦がいるという軍事的合理性をも理由の一つとし
て挙げていた。村上龍氏は郷里の佐世保が米軍基地に対して持つ特殊な風土的親
和性について語っていたのを記憶している。しかし鳩山氏は、それには「聞く耳
を」持たなかった。やがてイラク参戦の責任を検証さるべき立場にある岡本行夫
氏のほうに、なぜか「聞く耳を」傾け、「学ぶにつけて抑止力というものを知っ
た」などとを口走って、普天間問題を元の木阿弥にしてしまった。

 さんざん気をもませた挙句に沖縄県民を裏切ってしまった。竜頭蛇尾。最善を
呼号して次善を遠ざけ、そして最後に最悪を選んだ。

 辞任後にNHKが鳩山政権八ヶ月の総集編のようなものを放映した。そのなかに
驚くべきシーンがあった。予算委員会かなにかで自民党の谷垣禎一氏だったかが
普天間代替地を鳩山腹案なるものについて「本当に腹案はあるのか」と問い詰め
た。そのとき牧野聖修氏が首相に歩み寄って耳打ちした。徳之島に成算ありとの
報告だったらしく鳩山首相はにわかに語気強く「腹案があるということは何度も
申しているではありませんか」と見えを切った。この情景は忘れられない。まっ
たくの絵空事がこのようにまことしやかに軽々と首相の耳に注ぎ込まれていたの
だ。「腹案」というのは希望的観測が生み出した枯れ尾花にすぎなかった。

 永田メール事件さながらではないか。当時の前原誠司代表と野田佳彦国体委員
長が贋のメールを本物だと信じたのだった。そして永田寿康氏だけが自殺してし
まった。たしかそのとき鳩山氏は幹事長だったと思う。なんと、野党の代表のみ
ならず一国の首相が、この程度の情報で動いていたのかと、その軽挙に驚かざる
をえなかった。もっとも外務大臣も防衛大臣も沖縄担当大臣も首相の意図などそ
っちのけで、てんでに官僚の手になる別々の楽譜を演奏していたのだから、指揮
者はいても、いないも同然のオーケストラだったのだ。

 それにしても、国外、国外と、あんなに大見得を切りながら、小沢一郎氏が「
海兵隊は要らない」と言った、その海兵隊の「抑止力というものを」、鳩山氏が
それほどに日本国防衛上必要と気付いたというのなら、なぜ普天間代替地は辺野
古でなく首都東京とは言わなかったのか。徳田虎雄氏でなく石原慎太郎氏あるい
は猪瀬直樹氏を鳩山氏は訪ねるべきではなかったのか。橋下徹氏が、口からでま
かせ発言ではあったにせよ、関空を候補地にと名乗りを上げたのには、なぜまっ
たく反応しなかったのか。

 そして5月に辞めていればまだしも、6月まで延ばして日米合意などという厄介
なものを置き土産にして辞めた。辞めて「総理大臣を経験した者は政界に影響力
を残すべきでない」などと綺麗ごとを言った。そう言いながら、その後を見るに
、辞めてまだ三月にしかならないうちに、まるで齧歯類のようにちょこまかと右
往左往している。君子は豹変するどころでない。日替わりメニューのように日ご
とに異なることを言ってまわって、ついには「ボクってなに?」と言ったという
から政治家としても珍種だ。「平成の脱税王」と定義されて決まりではないか。

 言うことなすことがころころ変わるだけでない。言葉遣いがきわめて奇異だ。
政権交代は「小沢さんのおかげです」と言い、オバマが来たときは、チェンジを
果たした「オバマさんのおかげです」と言った。「おかげ」にはちがいないが、
「兵隊さんのおかげです」的な露骨で面映い物言いは公的な空間では恥じて避け
るのが男子のたしなみではないのか。この独特の臆面なさは「めぐまれた」境遇
に生まれた人にありがちな幼児性だろうか。そして軽井沢では「小沢先生は私を
総理大臣にしてくださった恩人です」とまで言った。片方で辞任直後には「国民
は聞く耳持たなくなった」と言った。あれだけ過剰なまでに、おチョボ口で丁寧
語を操りだす人物が、である。

 こうなるとこの人の「友愛」というものを疑わざるをえない。実は友愛の芯に
あるのは自己愛で、その自己愛に収斂されうるかぎりでの、ほんの一握りの周辺
に及ぶだけの友愛なのではないか。まちがっても「労働なき富」を恥じて、トル
ストイや、あるいは有島武郎のような悲劇の心配はないようだ。「巧言令色少な
し仁」とはまさにこの人のためにある言葉のようだ。おなじように8ヶ月で辞め
た細川護煕氏はいさぎよく政治から足を洗って単身足柄山で陶芸や園芸にいそし
んでいる。また時に自ら軽トラックを運転して湯河原に下り、寸土ながら畑を借
りて百姓もしている。この風流を真似るには鳩山家は俗に過ぎて背負っている文
化伝統が細川家とはちがいすぎるだろうか。

 この人が民主党初代の総理になった偶然が民主党政権最初の一年を狂わせてし
まった。脱税の罪を逃れた総理が官僚に立ち向かうことなど到底不可能であった。


■菅直人氏


  跡を継いだ菅さんはどうか。いきなり消費税を言って石破茂氏から「抱きつき
お化け」と言われた。厚生大臣の菅さんを知っているから、これはてっきりすご
い大技に出たものだと私は思った。抱きつくと見せて引きずり込んで巴投げをか
けるのだろうと思った。菅さんは碁も達者だから碁にはそういう陽動作戦がある
のだろうと思った。粗雑極まる日本の、益税にもなったりする不平等な消費税を
根本的に洗い直して、単なる逆累進ではないものに変えようとする心算なのだろ
うと思った。

 小野善康氏や神野直彦氏のもとで猛烈なにわか勉強をしたというから、目の覚
めるような新しい付加価値税の構想があるものと期待した。イギリスでは現に行
われている程度の、食糧などは無税、奢侈品には高率課税というような内容を含
む、緻密なヴィジョンに話は進むに違いないと思った。

 ところがまったく何も勉強していなくて勝海舟の孫とかの財務官僚に言われた
とおりをオウムのように言っただけだった。だから「ちがうじゃないか」という
猛反発の気運に慌てふためいて、こともあろうに還付などと、事務経費のいたず
らに大きくなるだけの間抜けなことを言った。還付該当者の収入限度額は、秋田
で、山形で、バナナの叩き売りみたいに変動した。景気対策も、ただポカンして
いないで、かつて影の内閣の蔵相として菅さん自身がテレビで紹介したことのあ
る榊原英資氏に訊けばいいではないか。

 民主党周辺には知恵者はいっぱいいるではないか。「乗数効果」とかいうジャ
ーゴンを知らなかったというだけで経済オンチだといわれた。ラーメン屋の行列
は行列を呼ぶ、というほどのことらしいが、ジャーゴンなどはどうでもいい。し
かし、いくら経済オンチだといっても政治家をこれだけやってきて、これでいい
のだろうか。誰かに一服盛られたのだろうか。医者ではないが「ドーシマシタカ」
といわざるをえない。

 やはり東京ボケではないのか。主として経営者や正規社員みたいなのを相手に
ノホホンとしていては分らないだろうが、選挙区が地方の議員の場合、朝立ち、
夕立、盆踊りの衆から「嘘つき」と罵しられるのだ。

 官僚に全面降伏したのもアメリカへの屈従姿勢も、いずれも鳩山政権負の遺産
を相続したものだから、ここは韓信の股くぐり、前田利常流のつくり阿呆にすぎ
まいと思えば思えなくもない。能ある鷹は爪を隠すという。さりとて広島の式典
で、「核廃絶」を訴える広島市長式辞のすぐ後から「核抑止力の必要」を口にす
ることはないではないか。そこまでアメリカにへつらって見せる必要があるのか。

 消費税発言のその後のへどもどに加えて、これはいったいどうしたことか。ま
あしかし、まだ何もやっているわけでない。ヘマは言ったが、ヘマをやったわけ
ではない。この間の経済無策を棚に上げるとして、すべてこれから、ということ
になるのだろうか。プラグマチスト菅直人はまだ終わってはいないと、そう思う
ことにしたいが、それにしても、あのかつての精悍な菅厚相の姿はいったいどこ
へ消えたのか。米帝国属領日本州の総督という A Happy Slave になってしまっ
たのでなければよいがと思う。


■千葉景子氏


  千葉景子法務大臣は死刑反対議連の一員であり、その政治経歴からも死刑を執
行することは考えられないことであった。ところが先ごろ、それまでなにもしな
いで大臣の席を暖めてきただけなのに、議席を失った直後に突如として死刑執行
に踏みきってしまった。よりによって今年が大逆事件百年の記念の年であること
に挑むかのようにして死刑を執行した。なぜであるか。鳩山由紀夫氏が総理就任
の施政方針演説において「命を守りたい」と声高く24回にわたって繰り返したの
を、千葉大臣は閣僚席で聞いたはずである。

 それから一年にもならないが、その首相演説に挑むかのように二名の人命を奪
ったのはなぜであるか。取り調べ可視化法案を成立させるという重要課題は就任
当初からあった。それには指一本触れないで人殺しだけした。「為すべきを為さ
ず為すべからざるを為し、まったきところあることなし」ではないか。あれだけ
無為無能で、問わるべき罪は不作為の罪のみだったのが、突如殺人の罪を犯して
しまったのはなぜであったか。

 常識では考えられない。誰かに背中を押されたのであろうか。じつは事前に閣
議で了承されたという。閣議で了承されたということは、とても彼女の「単独犯
」ではなく、千葉氏も贋メール事件の永田氏と似たような位置にあったのではな
いかとも考えられる。菅総理はメール問題における前原代表とおなじ轍を踏んだ
かのようにもみえるが、どうであろうか。
  死刑は死刑についての国民的議論を呼び起こすためだという。気は確かである
のか。殺してしまってから殺してもよいかどうかを議論するのは前後倒錯ではな
いか。要するに「死んでからでは遅い」のだ。普天間代替地は国外、少なくとも
県外と言っておきながら切羽詰って尻餅ついてひっくりかえったり、消費税を口
にしたかと思うと途端にしどろもどろになったり、どうも民主党政権は早とちり
、軽挙妄動が多すぎる。いまだ与党一年生で目下研修中とはいえ、なぜそんなに
あたふたとうろたえなければならないのか。普天間も消費税も今からでも間に合
わないことはないが、執行した死刑は取り返しがつかない。ちょん切った首はつ
ながらない。そこで千葉問題を特段のこととして触れておきたい。


■死刑は法の敗北宣言である


  死刑がいけないのは、煎じ詰めれば死刑もやはり殺人だからである。殺人の下
手人が国家権力だというだけで、それが殺人でなくなるわけでない。殺人という
犯罪によって殺人という犯罪を裁くのは法の自殺、法の敗北宣言でしかない。戦
争に良い戦争などないごとく、殺人に良い殺人はない。アムネスティー・インタ
ーナショナルは奴隷制の廃止を19世紀の目標とし、死刑制度の廃止を20世紀の目
標として、先進国においてはほぼ目標を達成した。いまだ目標に届いていないの
は日米を残すのみとなった。日本は戦争をしないという憲法を持ちながら、つま
り「殺さない」という憲法を持ちながら、人権に関して隣国の韓国に先を越され、
取調べの可視化をさえ実現できず、国家に殺人という犯罪を行わせる前時代的な
刑法を維持している。

 また憲法36条には「公務員による拷問と残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」
とある。警察によるにせよ検事、特捜によるにせよ、密室での取調べは特高警察
時代となんら変わらぬ、紛れもない拷問であるということ、このことが今回の村
木厚子氏の無罪判決という新しい事実によってさらに明白になった。実はこれに
先立って大阪府枚方市の元副市長小堀孝恒氏に対する清掃工場建設をめぐる談合
事件に関わる裁判の無罪判決という先例もある。それも大阪地検による取り調べ
であったが、まさに拷問そのものであった。

 介護施設に住む90歳の同氏の母親を検事は「呼び出して調べるぞ」と脅迫した
という。東京での事件でなく、また被害者が中央省庁高官でもなくて地方自治体
の副市長にすぎなかったから、さほどに注目されなかっただけのことで、他にも
多数例はあるはずである。1993年にも東京地検では静岡地検浜松から派遣された
検事が宮城県幹部に暴力を振るっている。拷問、拷問と続く延長上にこそ死刑と
いう残虐な刑罰がありうるのであって、ふたつはひとつのものである。小林多喜
二において拷問と死刑はおなじであった。

 8月30日NHK総合「クローズアップ現代」で諸澤英道という学者が、世論調査で
死刑制度支持が80パーセントを超えることを論拠に「日本人の正義感は長いあい
だ何世紀もかけて作られたものだから(死刑制度)廃止を議論する状況でない」
と言っていた。そのくせ議論してもかまわないとも言い添える。できないと言い、
できると言う。法律家の日本語はしばしば理路不分明で難しい。長いあいだの陋
習だから議論できないというのなら奴隷制度も古代からの陋習であった。ギリ
シャの民主主義は奴隷制度を前提に成り立っていた。その奴隷制度は何世紀も議
論されて廃止された。なぜ死刑制度は議論もされる状況にないのか。

 日本人の意識状況を言うのならば、あわせて諸外国の状況をも言い添えるべき
ではないか。日本人の、この古色蒼然たる意識状態をグローバルな展望のなかに
置いた上で、これを客観的に判断すべきではないか。ベラルーシのみを除いて、
ロシアを含めてヨーロッパは、すべて死刑は廃止されている。EUは1989年の国連
「死刑廃止条約」の批准を加盟の条件としている。
 
  トルコもEU加盟のために死刑を廃止した。ベラルーシもあとを追おうとしてい
る。またアメリカでさえ死刑を廃止もしくは事実上廃止している先進文明諸洲は
相当数に上っている。カナダはもちろんである。死刑か否かを決めるのに裁判員
の全員一致でなくて多数決によって決める国は日本だけである。このように日本
は実はきわめて特異な、法治国としては畸形の国なのである。死刑廃止は世界の
趨勢である。

 死刑にメリットはないわけではない。刑務所の経費節減効果はある。後期高齢
者健康保険によって老人の死を促進する経済効果を期待しえたのとおなじ事情は
ありうる。しかし死刑にそのような効果を求めるのは後期高齢者にそのような効
果を求めるのとひとしく没義道であろう。あるいは殺人犯のなかには死刑を自ら
望む者もありうる。贖罪としてではなく、もっとも受動的な自殺代用として死刑
を望む者もありうる。その場合死刑執行は受刑者にとって相当のメリットがあり
うる。しかしそれは法の禁じる自殺幇助になるであろう。

 結局死刑にメリットなどないのであって、死刑廃止を「被害者遺族の感情が許
さない」というのは世界の趨勢から目隠しされた状態で作られた世論工作の結果
を反映するものであって、今後の啓蒙によって急速に変わりうるはずである。


■新代表・菅直人首相にのぞむ


  14日、菅直人氏が新代表になった。新代表になった以上は、これまでの批判を
とらえなおして自己改革の資とすることができるだろう。景気対策もまさかこの
まま無策ではなかろう。小沢一郎氏の演説のほうが政策の具体性があったから、
それも大いにパクッたらいいだろう。「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と言っ
た。「雇用」を三度連呼したのはトニー・ブレアが「教育」を三度連呼したのが
頭にあってのことと思う。余談ながらアイリス・マードック(1919-1999)とい
う超ノーベル賞級の作家がいた。サルトルについても書いている哲学者でもあっ
た。晩年認知症になった彼女を撮った「アイリス」という実録映画のなかで「ト
ニーはどうして教育を三度も言うのか」と言ったのを思い出す。認知症の彼女に
は同語反復が持つ強調の意味がわからないのだ。

 「雇用には成長が先になければならない。順序を改めるべきだ。成長には規制
緩和などの構造改革が必要だ」と、官僚として竹中平造氏の手伝いをしていたこ
とのあるキシとかいった慶応大学の先生が14日の「報道ステーション」という番
組で言っていた。竹中氏もキシさんも企業がリストラしやすいように規制緩和し
て、せっせと正規雇用を減らしていた。そういうことのないように雇用を三度連
呼しているのであって雇用を強調したからといって成長を止めるということには
なるはずもあるまい。

 このように成長政索を採りながらも雇用をむしろ抑制してきたことによって格
差は大きくななり貧困は広がったのだから雇用がつねに強調される意味は大きい
だろう。むしろ成長だけで雇用は守られるのではなくて、成長なきときにはワー
クシェアリングという薄く広い所得分配もなければならぬことを雇用の強調は含
むであろう。したがって私は菅さんの雇用の強調を、最小不幸社会という理念と
ともに支持する。

 断じて許しがたいのは法務省関係。このおよそ文明から遠い司法の状況に新政
権発足以来一年間なんら手をつけずに過ごしてきたことである。15日の朝日川
柳にも「特捜を特高になる恐ろしさ」(横浜市・小池あきら氏)とある。なぜ取
り調べの可視化を進めないか?よりによってなぜ死刑を執行したか?ケシカラン!
まったくケシカラン!しかし千葉景子氏がわが罪を恥じて自殺するようなこと
はあってはならない。自分を死刑に処してはならない。そういうことのないよう
千葉氏を早く解任して「毒をもって毒を制す」検察最大の敵をもって法務相にあ
てるべきである。三顧の礼を尽くして小沢一郎氏を法務大臣にせよ!
(2010年9月15日)
                   (筆者は大阪女子大学名誉教授)

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