【投稿】

江田五月さんを巡る風景、貧乏長屋と江田後継 そして胃潰瘍

仲井 富

 ◆ 五月さん逝去で思い出すこと―貧乏長屋での江田帰郷の食事会と三畳間の生活

 江田五月さんが昨年7月27日、間質性肺炎のため80歳で逝去された。江田三郎・五月と2代にわたるお付き合いだった。思い出すのは1952年から社会党岡山県本部書記として、4年間働いた時代のことだ。

 前年の1951年に講和、安保両条約問題で社会党は左右に分裂。岡山の社会党は50年に江田三郎が参議院に最高点当選、翌51年の衆議院総選挙で左派社会党として和田博雄、山崎始男の両代議士が当選。さらに58年の参院選挙では秋山長造が当選。まさに上り坂の時代だった。私は18歳から22歳までの4年間県連書記として働いたが、この経験は人生最高の貴重な体験だった。
 勢いがあり、仕事も重労働だったが楽しかった。選挙の時などは朝暗いうちに起きて事務所の前の掃除をして水をまく。その後、選挙カーを見送ってから一日中働きづめ、さらに夕刻から夜にかけては演説会、選対会議と続いても平気だった。何しろ当時は、参院選は30日間で衆院選は25日間だった。岡山では日曜休みなど一切なかった。

 楽しかったのは江田さんが金帰火来で東京から帰岡する時の夕食会だった。料理上手の光子夫人手作りの鍋を囲んで、上機嫌の江田さんを中心に食事をするのは毎週恒例となっていた。当時まだ小学生だった五月さんや拓也さんらを含めて、県連書記局の大亀幸雄さん、中山敬弘君、田上秀夫君などの人達が集まって会食をするのだ。

 前の年までは県連の事務所の四畳半くらいの部屋に寝ていたが、邑久郡の中山敬弘君が高校卒業で県連に書記として入り、その部屋に住むことになって、やむなく江田三郎一家の岡山市三番町の木造の家の便所の隣にある三畳間に住むことになった。
 ところが、江田家と言えば聞こえはいいが、古くて傾きかけているおんぼろ家屋だった。しかもその三畳間は便所の隣で、かつては女中部屋だった。すでに部屋自体が斜めになっていて、寝る時には、頭を斜めの上方において眠ると言う具合だった。それでも平気で寝起きしたが、もしあのころ地震でもあれば江田家そのものが確実に崩壊していただろう(写真 江田一家の晩餐会)。

画像の説明
  (1956年、江田家にて。後列右から仲井、光子夫人、
   江田三郎、江田五月、大亀幸雄 江田の前が江田拓也)

 ◆ 江田三郎後継を断固拒否した五月さん

 わが師江田三郎は、生涯せっかちで走り出す人だった。地方遊説に行っても、さあ時間だと歩き出す。随行者のことなど頓着しない。その死に方もあっという間だった。1977年5月11日入院、肝臓がんとわかったが、11日後の5月22日には逝ってしまった。その間に、ともに離党した唯一の政治家大柴滋夫選対委員長の下での後継者選びだった。

 大柴さんの意を受けて、社青同の仲間だった今泉清、倉持和朗、仲井の三人で、五月さんを川崎市駅前の日航ホテルに呼び出した。確か5月15日の土曜日だったと思う。江田さんの後継は運動暦を含めて五月さんが最適だ。親父の跡を継いでくれという単純な話しだったが、五月さんは断固として拒否した。
 あの時、五月さんに江田後継を勧めた、学生運動の仲間だった倉持和朗さんによると、五月さんは「俺はオルグされないよ」と言った。そして「僕は裁判官の道に入ったからには、最高裁長官を目指す。政治家の跡継ぎなんて絶対嫌だ」と拒否された。

 参ったという感じで、大柴滋夫選対委員長に「五月さんは絶対出ない」と報告した。やむを得ず次男の拓也さんに後継を御願いすることになった。拓也さんも悩んだ末に、後継出馬を決意してくれた。拓也さんには大亀さんなどの説得があったのだろうが詳らかではない。これで後継問題は一件落着したかに見えた。大柴氏は、命旦夕に迫った江田三郎の耳元で「おい、あんたの後継は拓也に決めたからな」と告げていたのである。

 ◆ 江田後継を宣言した後に急性胃潰瘍で胃を三分の二摘出

 だが事態は一変した。あれほど江田後継を断固として拒否していた五月さんが、江田三郎の死んだ5月22日が自らの誕生日であったことに強い衝撃をうけた。その夜、光子夫人と拓也さんに「父三郎の後継として参院選に出馬する」と宣言したのである。大柴滋夫選対委員長をはじめ、周囲は唖然とした。しかし長男の五月さんが出馬するといえば誰も反対できない。かくして江田後継は五月さんでいくことになった。これが江田三郎後継の第一幕だった。

 これで体制は決まった。全国各地の旧江田派や青年部などの伝手で、全国区候補者10人も決まり1977年6月の参院選に突入するはずだった。ところが異変が発生した。自ら江田後継を宣言した五月さんが、選挙準備の忙しさに追いまくられる中で、胃潰瘍で入院手術と言う異常事態となった。
 1977年6の参院選開始日に、五月さんは胃の半分を切除した、と私は思い込んでいたが、京子夫人によると胃の3分の2を切除した。本人は病床にあって社民連の参院選挙はスタートした。参院選後半は街頭に立つこともあったが、いわば党首不在の選挙戦だった。1977年7月10日投票日の開票結果/全国区当選 江田五月 1,418,855(2.7%)/地方区 当選ゼロ 社会市民連合 610,505(1.1%)の結果だった。

 ◆ 蛤御門の変が必要 老骨を引っさげて久坂玄瑞になって切り死にを清水慎三

 江田さん急死の5ヶ月前、1996年の12月総選挙の時である。わたしは大阪の西風勲さんの選挙を手伝った。たまたま清水慎三さんが来阪され、大阪府本部の元書記長の荒木伝さんと3人で夜遅くまで飲んだ。そのとき社会党の将来について議論していたと思うが、かなり酔っ払った清水さんが突然、「江田三郎は薩長土肥連合から倒幕維新へという役割ではない。その前に蛤御門の変が必要なんだ。老骨を引っさげて久坂玄瑞となって切り死にするんだ。早くしないと間に合わない」といい出した。さらにつけ加えて清水さんは「西風君や仲井君たちは江田三郎の足ばかり引っぱっている。そんなことではダメだ。江田さんのやりたいことをやらせろ」とわたしたちまで批判された。

 このあと西風勲さんの選挙応援に来阪した江田さんと住吉区の喫茶店に入った。「江田さん、清水慎三さんがこう言ってました。ぼくらは足を引っぱってばかりいてけしからんと言われました」と報告した。江田さんはわが意を得たりというように、ニコニコしていた。「蛤御門の久坂玄瑞たれ」という話は気に入ったらしく、選挙に敗れて上京したあとも、何人かの人に清水さんの話をしていたと聞く。

 ◆ 奈良行き電車の階段を手摺に捉まって降りる後姿に見えた衰え

 その夜、奈良遊説に向かう江田さんを地下鉄の入り口まで送った。階段を降りて行く江田さんの後姿に愕然とした。江田さんは階段の手摺に捉まって一歩、一歩降りて行くのだが、それは今まで見たことのない姿だった。
 1950年にはじめて参議院選挙で当選した43歳から69歳までの26年間「おい時間だ、行くぞ」と随行の書記がいようがいまいが駆け出していく親分だった。ともかくせっかちで長々と説明することが大嫌いで体力は抜群に強かった。
 だがこの夜、奈良行きの地下鉄に降りていく姿は往時の江田さんではなかった。私は愕然としながら、手摺に捉まって降りて行く江田さんの後姿をみつめた。後で気づくことだが、肺がんは肝臓に転移し余命5ヶ月を迎えていたのだ。

 死に方も江田さんらしい。入院後11日間で5月22日さっさとあの世に逝ってしまった。葬儀は、1977年5月23日、港区南麻布の一乗寺で執り行われた。江田さんの離党を歓迎し「日本で社会主義を新しくしようと考えているのは君ひとりだ」との賛辞を贈った荒畑寒村さんは、一乗寺の葬儀に参列し一言「江田君は壮烈な戦死だよ」と仰った。私は90歳の寒村さんの腕を支えて葬儀場にお連れした。寒村さんの腕は枯木のようだったのを覚えている。

 ◆ 京子夫人から聞いた五月さんの引退後の闘病生活 5年前に大腸がん手術

 新聞紙上では、江田五月さんは昨年7月27日、肺炎で死去されたとあったが、江田京子さんによると間質性肺炎のため80歳で亡くなったというのが正確な病名である。
 6年前に政界引退後、5年前に東大病院で大腸がんの手術を受けていたのだ。ほとんどの人が知らなかった。何故ならコロナ騒ぎのおこる前の2019年までは、笑顔の江田五月夫妻や江田拓也さんを囲んで、毎年の「江田三郎を偲ぶ会」が開かれていたからだ。大腸がんの手術以降は、岡山市内の病院で時には危機的な状態に陥りながら闘病生活を送っていたという。
 父江田三郎は、初めての入院で僅か11日間で逝去、息子五月は数年間の闘病生活でこの世を去った。

 (公害問題研究会代表幹事、『オルタ広場』編集委員)

(2022.1.20)
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