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没後44年 江田三郎が最後に怒った日と和田当選で号泣した日

仲井 富

① 江田さんが最後に怒った日 焚くほどは風が持てくる落葉かな
② 江田三郎が号泣した日、1957年10月総選挙で和田博雄55票差の当選
③ 寒村さん 江田君だけが社会主義新しくしようしている
④ 岩井章総評事務局長 江田離党社会主義者にあるまじき行為と批判
⑤ 岩井章の讒言でソ連木材輸入会社員を首になった話

◆江田さんが最後に怒った日 焚くほどは風が持てくる落葉かな

 わが師江田三郎の没後、今年で星霜44年になる。1977年5月22日、69歳で急死した。江田没後30周年の集いが、いまから14年前の2007年10月12日、東京赤坂のプリンスホテルで行われた。実行委員長の山岸章さんをはじめ、江田さんに繋がる人々が約800人の集いだった。まことにありがたく懐かしい日であった。
 江田さんは1977年3月26日社会党離党、2ヶ月足らずの5月22日急逝した。5月11日、慈恵医大に入院、肺がんから転移した肝臓がんで手術不可能と診断され、11日後の5月22日亡くなった。まことに江田さんの人柄にふさわしい、あっさりした死に方というべきであろう。

 いまでも覚えているが、江田さんが離党直後に『週刊文春』でイーデス・ハンソンと対談したことがある。「さらば愛しの社会党よ」という表題だった。ところが、出来上がった『週刊文春』見て、江田さんがけしからんと怒りまくったことがあった。
 それは対談の最後の頃に、ハンソンに「選挙といえばおカネがいるわね。ありますか。どうするんですか」と問われてこう答えているくだりである。「良寛の俳句に焚くほどに風がもてくる落ち葉かな」というのがあるんです。だから、落ち葉が来ただけ焚いておればいいですよ。焚いとると、ちょっと気流が変わって、そのへんの落ち葉が、クルックルッと舞ってくるんでしょう」(『週刊文春』1977年4月14日号「さらば愛しの社会党よ」)

 江田さんは、あの句は「焚くほどは風がもてくる落ち葉かな」が正しい。編集部がまちがえて「焚くほどに」してしまった。訂正を出せと抗議したんだと言った。無知なわたしは「に」でも「は」でもそんなに頭に湯気を立てて怒ることもあるまい」と思った。
 だが後日、アララギ派の歌人助川信彦老師(元横浜市公害局長)に話を聞いて納得した。「焚くほどは」というのは落ち葉をかき集めてお芋を焼たり、暖をとる程度はという謙虚さと感謝の意味がある。「焚くほどに」となると、いくら焚いても、つぎつぎに落ち葉が集まるという傲慢な句になり、その辺の汚職代議士と変わらなくなると教えられた。

 俳句は、和田博雄さんが現代俳句の名手で、それを見て一人で勉強し自分でも作ってきたが、2009年から句誌『惜春』に入会し高田風神子先生の指導を受け今日に至っている。ようやく助川老師の教えを貴重なものとして思い返すのである。

◆江田三郎が号泣した日:1957年10月総選挙で和田博雄55票差の当選

 もう一つ、忘れがたいことがある。江田三郎が泣いた話である。わたしが社会党岡山県連の書記として働いていた1957年のことである。片田舎の山村から出てきた若者には、岡山市は大都会だった。見るもの聴くものめずらしく夢中で働いた。この年に社会党は講和、安保両条約問題で左右に分裂、岡山は江田三郎の指揮下にあり、左派県連となった。1957年10月2日に分裂後初の選挙があり、左派は躍進した。

 岡山一区は当時5名区だったが、左派社会党政審会長の和田博雄を担いで55票という僅差で勝利した。岡山市を除く即日開票では自民党の小枝一雄が5位に入り、和田は次点の6位だった。しかもその差は小枝一雄3万5,549票に対して、和田博雄は2万8,419票とじつに7,000票余の差がついた。
 選挙事務所の空気が凍りついたことを覚えている。だが翌日、大票田の岡山市の開票で僅か55票の差で奇跡の逆転勝利を果たした。その瞬間、あの江田三郎が大粒の涙を流して号泣した。後にも先にも江田さんが泣いたのを見たのはこれ一回きりだ。

 それほど左派社会党の第一歩となる選挙には責任感と重圧を感じていたのだ。もしあの55票差の勝利がなければ、和田さんのみならず江田を含めて左派社会党のその後の躍進はなかったともいえる。あの沈うつな一夜と逆転勝利は、私の終生忘れがたい思い出となった。国政選挙史上55票差の当選の事例はおそらく最小差の記録ではなかろうか。

 江田、和田の関係は性格の違いもあって、後年必ずしも一体ではなかったが、私は岡山から社会党大会に上京すると、つねに渋谷区初台の和田邸に泊めてもらったこともあり、和田さんや津馬子夫人に可愛がってもらった。岡山の旧友田上秀夫さんも和田邸に寄宿して大学に通っていたこともあり、彼とともに、年1回は千葉県松戸市の都営霊園に祀られている和田博雄・津馬子夫妻の墓地に墓参りに行っていた。 

◆寒村さん 江田君だけが社会主義新しくしようしている

 1977年5月22日、江田三郎は志半ばにして肝臓がんで急逝した。その2ヶ月前の荒畑寒村さんとの出会いを思い出す。離党直前の1977年3月18日のことである。これは当時、新産別顧問の三戸信人さん[注]の「社会党を離党するのだから戦前からの大先輩である荒畑寒村さんのところへ一言ご挨拶にゆくべき」という助言によるもだった。
 江田さんは例の性格で素直にうんと言わない。「日頃行っていないのにいまさら行くのはわざとらしい」と言って応じない。それを毎日の当時社会党担当だった中村敬三記者と今泉清君と3人で説得して強引にタクシーに乗せた。今泉清君(故人)とわたしが同行した。

 寒村さんは開口一番こういわれた。「江田君、ぼくは社会党の中で君が一番好きだ。少なくとも君は日本の社会主義を新しくすることを考えている」。とたんにあれほど嫌がっていた江田さんがニコニコ顔になる。寒村さんは、「江田さん一人の離党には賛成しがたい。もっと党内で勝敗を度外視して、なりふり構わず大暴れして、とけしかけた」とその後の雑誌の対談でも語っておられる。(雑誌『諸君』77年11月号「社会党分裂すべし」丸谷才一氏との対談)

 まるでかつてのわれわれ社会党青年部のようだった。赤旗事件で入獄中、恋人管野須賀子と師幸徳秋水が通じていたことを知り、出獄後2人が投宿している湯河原の宿にピストルを懐に乗り込んだという。血気にあふれた「青年の気」は89才にして衰えず、と思った。
 江田さんの葬儀の日に寒村さんは、港区の寒村会の大浜亮一氏に支えられて参列された。わたしも片方の腕を支えてご案内したが、まさに枯木の如くであった。一言「江田君は壮烈な戦死だよ」と言われた。

◆岩井章総評事務局長 江田離党社会主義者にあるまじき行為と批判

 もう一つ忘れがたいことがあった。当時の岩井章総評事務局長が北京で談話を発表して「江田離党は社会主義者にあるまじき行為」と非難した。それを読んで寒村さんは怒りまくった。岩井談話について抗議するため、朝日新聞の「論壇」に、岩井談話批判の投稿すると言って一文を書いた。
 寒村さんにすれば、岩井ごときが、社会主義協会のマルクス・レーニン主義を奉じて、江田批判をするなどおこがましいと怒ったのだ。当時は社会主義協会の全盛時代で、ソ連派の協会に対する批判などするものは皆無といってよかった。

 岩井氏と同郷の長野出身で、総評事務局から川崎市で国会議員になった岩垂数寄男氏は、岩井の子分だった。当時は社会主義協会のオルグとして全国を回り、江田離党を非難する活動を全国的に展開していた。そういう旧いマルクス・レーニン主義者に、寒村さんは我慢がならないと怒ったのだ。そこまでしなくてもと、当時は社会党員だった大濱亮一さんらに説得されてやめたという話もされた。

◆岩井章の讒言でソ連木材輸入会社員を首になった話

 岩井章氏は、その後、ソ連からレーニン勲章と賞金をもらい、熱海に別荘を作って優雅な人生を歩んだ。何しろソ連派の重鎮だから、江田離党前後には、さまざまな圧力をかけてきた。

 江田さんが存命中の1973年から私は、青年部時代の友人板鼻耕治社長の奈良栄和商事というソ連の木材輸入会社の社員となった。公害研の専従を止めて、彼のところでお世話になった。3年間くらいという約束だったが、これに対して岩井章氏から、当時左派の理論的指導者の社会主義協会の向坂逸郎代表を通じて「仲井は江田の子分だから警戒すべき、板鼻の会社から辞めさせろ」という圧力をかけてきたのだ。

 それには理由があった。奈良栄和商事は表向きはソ連の木材輸入会社だが、その見返りにソ連科学アカデミーの理論誌『社会科学』を出版する事務所を社会主義協会に提供していた。私が出勤すると、手前の部屋が事務所、奥の一室は社会主義協会の事務局スタッフが2、3名常駐し『社会科学』日本版を出す仕事に当たっていた。
 それを世間に一言も口外するつもりもなかったが、岩井氏は江田の子分の仲井はヤバいと思いこんだのだ。3年間の約束だったが、板鼻社長の懇請で、私は2年で会社を辞めざるを得なかった。その後、江田離党から12年後の1989年、ソ連邦は解体した。

 江田さんに荒畑寒村さんへの挨拶を勧めた新産別の三戸信人さんに、最後にお会いしたのは2004年12月、「オルタ」発行の加藤宣幸さんが主催した「戦後期社会党史研究会」の席上である。忘年会もかねたその会で、三戸さんに「社会党がだめになった原因は」と問うた。「外国の党の代弁者になり下がったことだ」と明言された。これはまことに含蓄のある言葉だと思った。日本の社会党をはじめとする左翼が、最終的にダメになった根幹をついていると思う。

[注]三戸 信人 1914年10月8日生まれ、2010年10月18日没、96歳。
1930年2月の第2回普通選挙で、高津正道の選挙活動を手伝ったのを機に無産政党や労働運動と関わりを持ち、1934年1月に治安維持法違反容疑で東京で検挙。懲役5年の判決を受け広島刑務所に服役。戦後は細谷松太氏らとともに新産別を結成、労働運動の歴史を体現していた。

<和田 博雄(わだ ひろお)> 
1903.2.17 京都生まれ。1925.3 東京帝国大学法学部卒。1926.4 農林属、1933.5 農政局農政課長代理、1935.5 内閣調査局調査官、1937.5 企画庁調査官、1937.12 企画院書記官、1938.4 農林省米穀局米政課長、1939.5 大臣官房調査課長、1939.10大臣官房調整課長、1941.1 農政局農政課長、1941.4 企画院事件で治安維持法違反容疑で検挙、1945.9 無罪判決、1945.10 復職、農政局長、1946.5 第1次吉田内閣農林大臣、1947.1 依願免本官、1947.5~52.9 参議院議員、1947.6 片山内閣国務大臣、経済安定本部長官・物価庁長官、1949.3 日本社会党入党、1952.10 衆議院議員(第25~30回総選挙当選)、1954.1 左派社会党書記長、1957.1~7 社会党政策審議会長、1961.3 社会党国際局長、1964.12~66.1 社会党副委員長、1967.3.4 死去。

 (公害問題研究会代表・オルタ編集委員)
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