【コラム】『論語』のわき道(55)

漢字の運命(3)

竹本 泰則 
 
 昭和二十七年四月二十八日、わが国は占領状態から脱します。日本語表記をどのようにするかは自らが決める問題となったわけです。それにもかかわらず、基本的な方向性をはっきりさせることはないままに「当用漢字」がでんと構える体制がずるずると続いた……と、そう理解していました。ところが、実は違うようです。漢字廃止の危機は消えたのです。
 昭和四十一年、時の文部大臣中村梅吉が国語審議会の総会において、漢字廃止が前提ではなく「漢字かなまじり文によることを前提」とすると表明し、これ以降、国語審議会の方針が変わっていったのだそうです。漢字の使用を制限するという姿勢から、漢字使用を前提とした上で、使用範囲の目安を示すという色が強くなり、現在の政策につながるようです。
 
 漢字は将来的にも安泰でしょうか。それについて考えてみました。
 いうまでもなく、漢字はわたしたちの日々の生活に根付いているといえましょう。しかし、もともと日本語とはあかの他人である漢字は、日本人にとって不便、不都合なものです。
 漢字の数は5万、あるいは、それ以上という膨大な数にのぼるようですが、そんな数はとても覚えきれません。ある程度の数に整理しないことには社会生活上も非効率です。このため、現在のわが国では2136字の常用漢字が定められており、必要な情報を文字で得ようとするには常用漢字を知っておればあらかたは間に合うというのが基本です。

 現在の教育制度では、小学校六年間で常用漢字のうち1026字の読み書きを習い。 中学校で残りの1110字を学習します。この2136字の常用漢字の読み方(音と訓)は4388語にのぼります。一つの漢字に対して読みが複数あることは通常のことであり、同じ読みでも字が異なる例も多くあります。
 漢字の読みには音読みと訓読みとがあり、音読みには漢音・呉音という2種類の読み方が併存するのが普通です。「人」という字の漢音は「ジン」、呉音は「ニン」といった具合です。十数年前の話ですが、某総理大臣が未曾有(みぞう)を「みぞうゆう」と読み間違えるという珍事がありました。呉音で読むべきところを漢音で読んだのです。
 訓読みとして常用漢字表に採用されている読み方は全体で2036を数えます。一方、訓読みがない漢字も結構あります。点とか線、ほかには歴、史、猛、烈、鉄、銅、料、理……これらの漢字には訓読みが示されていません。音読みがもっぱらという漢字の数は820字です。つまり残りの1196字に対して訓が2036あるわけですから、平均すると一つの漢字に二つくらいの訓読みがあることになります。「生」とか「下」などになると、いずれも10種類の訓が挙げられています。表に示す以外の訓読みも使われたりします。雅(みやび)、眼(め)、寛ぐ(くつろ・ぐ)、強ち(あなが・ち)……の類です。
 読みにはほかにも厄介なことが出てきます。例えば「日」という漢字は誰しもこれを見ない日はないといってほどおなじみです。常用漢字表には音読みとして「ニチ」と「ジツ」、訓読みは「ひ」と「か」とされています。しかし、実際はこれでは済みません。昨日、今日、明日は違った読み方(熟字訓)をします。月毎の日にちでは、「一日」は「ついたち」と熟字訓になり、二日から十日までは「か」がおしりにつきます。ところが十一日以降は4の日を除いて「にち」と読みます。また「日曜日」は「にちようび」と重箱読みになります。
 感覚的な見方ですが、2千字を超える漢字の読みを覚え、意味を知り、標準字体にそって書けるようになるのは容易なことではないはずです。その上に「書き順」だの、「とめる」「はねる」などの細かなことに必要以上の注意を要求することが加われば、「漢字嫌い」を育てることになりかねません。

 また、常用漢字ですべてかというと、そうはいかないところもあります。常用漢字外ながら日常生活で普通にお目にかかる(その意味では識る必要性がありそうな)漢字は相当な数になるでしょう。思いつくだけで、「絆」のほか、伊豆・伊勢などの「伊」、炒飯、炒めものの「炒」、桃栗三年の「栗」、鮨や鯉、鮭、鰻など色々出てきます。鷲も鷹も烏も雀も常用漢字ではありません。醤油も味噌も常用漢字外の文字を含んでいます。そのためか中・高校生を対象とした漢和辞典であっても一万字近くの漢字を収録しています。
 さらに漢字は字形も複雑です。ローマ字の場合、多くは一筆書きで済みます。しかし、漢字では、常用漢字だけをとっても全体の平均画数は十画あまりにもなります。書く手間がかかる上、細かい部分にまで注意が必要です。
 
 漢字は数多く覚えなければならず、日本語がもつ特性も与って、読み方も様々なものがあり、しかもそれにかかわる規則性があいまいです。つまりは、まことに始末が悪いものといえます。わたしたち日本人にとってもそうなのですから、外国の人にとってはなおさらでしょう。
 わが国にはたくさんの外国人が仕事のために来ています。少子高齢化社会の先頭を行くこの国では介護の現場のみならずあらゆる分野で外国からの労働力に依存していかなければならないように思います。その意味からも、漢字をふくめて日本語の表記については改善の必要性がますます高まると思われます。
 
 いっそ漢字は無くした方がいいでしょうか。なくせるものでしょうか。
 漢字をなくしてしまえば、現代の日本人のコミュニケーションが成り立たないように思っています。その大きな要因は国語の中にある大量の同音異義語です。
 ワードプロセッサー開発の過程で使われた文言らしいのですが、「貴社の記者は汽車で帰社した」などという文句があります。漢字を識らなければこれを耳から聞いても意味は理解できないだろうと思います。わたしたち日本人は相手の話を聞くときに、その文脈などを手掛かりにしながら耳に入った言葉を瞬時に漢字に置き換え、理解しているはずです。多分、英語圏でもrightとwriteの区別は似たような仕組みによって理解しているのではないかと想像しています。しかし、このような語の数は日本語が断然多いだろうと思います。『広辞苑』などを開いて同音の言葉が10や20出てくることは珍しくもありません。ちなみに最多は「こうしょう」で、50語近い言葉があるそうです。ローマ字などの表音文字を採用しても、おびただしい同音異義語の存在がコミュニケーションを阻害することは間違いないように思えるのです。
 
 個人的には、現在の常用漢字の数に大きな不満は感じていません。つまり、この程度の漢字の数であれば「読める」し、それぞれの漢字について大まかな字義も(すべてとは言えませんが)、なんとかわかります。
 ところが、大きな問題となるのが「書く」です。今は昔、学校でのテストさらには入学試験などがあって「書き取り」には奮闘努力を強いられたかもしれません。そんな昔のことはよく覚えていませんが、現状ははっきり認識しています。勉強や仕事とは無縁になって以来、書くことは日々心もとなくなる一方であります。そのことで老いの哀れを思い知らされてはいますが、生活するには困っていません。コンピュータや通信端末のキーなどを「打つ」ことで「書く」という行為が代替されているのです。「書く」(手書き)といえば、役所や銀行・病院などで住所、氏名、生年月日などを記入するのがほとんどではないでしょうか。そのうち、書こうにも住所さえ忘れちまうことになりましょうか……!
 
 漢字の不便さ、不都合さは如何ともなりません。しかし、今に至っては「漢字ありき」と割り切るほかはないでしょう。そのうえで日本語表記、漢字学習の課題については知恵をしぼり、さらにIT技術の進歩で補っていく、そうした努力をする以外なかろうと思うのです。
 
 (了)

(2023.12.20)
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