【コラム】八十路の影法師

漢字漫歩 国字(2)「匂」

竹本 泰則

 日本の秋の味覚を代表する食材といえばマツタケは外せないでしょう。国産品は収穫できるところが少なくなったせいだろうと思われますが、量も少なく値段もたいそう高い。したがって我が家の食卓にのぼることはありません。
 マツタケの人工栽培はまだ成功しておらず天然ものしかないようです。国産マツタケは流通量全体の数パーセントを占めるに過ぎず、ほとんどが外国産だそうです。その約7割を中国産が占めてカナダ産、米国産が続くようです。最近ではブータンからの輸入も始まったといいますが、お目にかかっていません。
 マツタケが好まれる要因はその香りにあると思いますが、その肝心な香りでは従来からの輸入品は国産に遠く及びません。そのため国産品の価格は上がり続け、庶民には縁が遠のいていくばかりです。田内 学という方の著書によりますと、100年前(1920年対2020年)の価格と比較して食費全般の価格は2243倍であるのに対し、マツタケは何と6万倍にもなっているそうです。ところが、そのマツタケの価格は、もともとシイタケよりも安かったのだそうです。
 趣味仲間に卒寿を超える先輩がいます。その方は広島の山村で育っていますが、小さいころには秋になるとマツタケを年中食べさせられていたということです。不平を言う彼女に、母親は「うちは貧しいのだから、我慢なさい」といったらしい。
 マツタケは戦前まで各地でたくさんとれていたようです。
 
 マツタケの特長は香りといいましたが、日本語には「かおり」以外に類義語の「におい」があります。さらには、少し嫌悪を感じるような場合には「くさい」(くさみ)も使います。
 かつて常用漢字表には「におい」という訓読みを持つ漢字がありませんでした。「匂」という漢字が加わったのは2010年の常用漢字改定のときです。「匂」を加えるにあたって、表中にもともとあった漢字の「臭」に「におう」という訓読みが追加されています。このため「におい」は「匂い」と「臭い」の二通りの漢字表記ができることになったわけです。公用文などでは、それまで「におい」とひらがなで表記されていたものが、二通りの漢字が使えることになって生じた新たな問題は両者の書き分けです。
 NHKでは表記基準として、嗅覚で感じる「におい」のうち“よいにおい”は「匂い」、“不快なにおい”は「臭い」を当てるのを原則としています。さらに、「におい」は人によって快・不快の感じ方が違うことがありますが、その区別が難しい場合、あるいは“ほのめかす”という意味で使われる場合などは、ひらがな表記としているようです。(たばこのにおい、生活のにおい、犯罪のにおいがする、など)
 もう一つややこしいことは、常用漢字表では「臭」に「くさい」の訓がもともとありましたから、改定によって「臭い臭い」は「くさいにおい」とも「くさいくさい」とも読めてしまうという問題があります。
 
 漢字の辞書を当たってみますと、「かおり」(比喩的な意味を含めて)を表す漢字は異体字を一つにまとめると6字(芬、芳、香、薫、馨、馥)が挙げられます。「におい」は匂と臭の2字です。ちなみに、嗅覚以外の感覚につかわれる漢字をみると、「あじ」は味、「おと」は音、「こえ」は声と1字ですむ例が珍しくありませんから、五感の中でも嗅覚の分野の漢字は非常に多彩といえそうです。
 個々の漢字の意味をみますと、「かおり」のグループはみな“よいにおい”という意味です。一方の「におい」の2字のうち臭は中国由来ですが、匂という字は国字(日本人が作り出した漢字)でした。つまり本場の漢字は臭のみです。その意味としては、かぐわしい香り、不快なにおいのいずれにも使ったようです。ただ、この字を語頭に使う熟語においては多くが不快なにおい、いやなにおいの意味になっています。
 わが国でも「香」と「臭」の使い分けは同様に思えます。香水を臭水と銘うてば買う人はいないでしょう。「臭」の字が表に出る商品は大体が消臭、徐臭など「臭」を打ち消すものです。余計な話ですが、消臭剤の使用量で日本人は世界一だと聞きます。
 
 においの世界は曖昧です。個人差もあるし、心理的なものも影響しそうです。その表現の仕方も難しい。日本人がわざわざ「匂」という字を作り出したのはそれなりの背景があるに違いないと大いに興味を感じたのですが、結論は意外なものでした。
 「におい(にほひ)」は嗅覚ではなく視覚に対応する言葉として生まれたようです。『日本国語大辞典』の「におい」の項の説明は「あざやかに映えて見える色あい。色つや。古くは、もみじや花など、赤を基調とする色あいについていった」から始まっています。『広辞苑』では①赤などのあざやかな色が美しく映えること、②華やかなこと。つやつやしいこと、③かおり。香気……となっています。
 『岩波古語辞典』の「にほひ」の項では、漢字表記は「匂ひ・薫ひ」を当て、ニは丹で赤色の土、転じて赤色。ホ(秀)はぬきんでて表れているところ。赤く色が浮き出るのが原義」とありました。
 そういえば、よく知られたいろは歌の出だしは「いろはにほへと ちりぬるを (色は匂へど 散りぬるを)」でした。現代においても「におうような」あるいは「におい立つ」美しさ……などといった表現があると思います。
 目に映る色合いが鼻で感じるにおいに変化する……、言葉の不思議さを感じます。

(2024.11.20)
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