【コラム】八十路の影法師

漢字漫歩 国訓(日本における漢字の特有な読み方)

竹本 泰則

 韓国が大きく動揺している。発端は昨年12月3日夜、ユン・ソンニョル(尹錫悦)大統領による「非常戒厳」の発令だった。戦争や騒乱状態でもない「平時」で、しかも突然だったこともあって大騒ぎになったようだ。国会議事堂の周りには多くの人々が集まり抗議している様子が日本のテレビでも報道された。国会は素早く解除の要求を議決し戒厳令は解かれたものの、野党側は大統領弾劾の議案を提出した。第1回目の結末は廃案となったが、再度の提案には与党議員の一部が賛成にまわり弾劾が成立した。
 他国のことであり、細かな事情も分からないのでいい加減なことは言えないが、なお混乱が続くのかもしれない。

 「弾劾」という語は読める。自分なりに意味もわかっている。多分、学校で教わったのだろう。しかし日常の暮らしの中でこの言葉にお目にかかることは滅多にない。
 わが国の場合、弾劾制度の対象とされるのは裁判官に限られるようだ。インターネットで弾劾裁判所の記事をみると、70年余りの歴史の中で罷免訴追事件は10件(昭和期6件、平成期3件、令和期1件)を数える。ちなみに弾劾裁判を受けた裁判官は延べ10人で、そのうち8人は罷免されている。直近では昨年4月に仙台高等裁判所の判事が罷免の判決を受けている。しかし、このようなことは本稿を手掛ける以前には知らなかった。
 蛇足ながら、行政の分野では弾劾ではなく議会による不信任決議がある。昨年9月の兵庫県知事・齋藤元彦氏の例が記憶に新しい。

 ところで「弾劾」には「弾」の字が入っている。「弾」が使われる語としては爆弾、弾薬、弾丸などがまず思いつく。そのほかでは弾力(的)などという言い方もよく聞く。また、宮沢賢治の童話に『セロ弾きのゴーシュ』がある。しかし、これらから推しても弾劾の弾の意味はひらめかない。
 あらためて辞書をひいてみると、古代の中国に石つぶてをパチンコのようにはじいて敵方に撃ち込むという武器があり、それを表す字というのが元来のようである。そこから「たま」、あるいは、弾を発射する(はじく)などの意味になったようだ。これから派生したのかどうか浅学ではわからないが、琴など楽器をひく、さらには、批判し責める、告発するという意味が挙げられていた。弾劾の弾は罪を責めて告発するということらしい。ちなみに、劾も罪状を暴く、告発するといった意味をもつ字だった。
 この「弾劾」という熟語は唐の時代、7世紀半ばに編まれた『晋書』という正史にもでてくるという。外国語の訳語として近代以降にできた新しい言葉ではなかった。

 常用漢字表では、「弾」の漢字音は「ダン」、使い方としては弾力、弾圧、爆弾という例をあげている。一方、訓読みは三つある。①「ひく」(例として「弾く」、「弾き手」)、②「はずむ」(例として「弾む」,「弾み」)、そして③「たま」(弾)である。
 このうち、②の読み方「はずむ」は漢字のもともとの意味から外れるようだ。表に示された例のほかにも「話がはずむ」、「チップをはずむ」、「滑ったはずみでけがをした」などといった表現にもこの字は普通に使われる。この「はずむ」という和語を訓(漢字の読み、つまりは字義)に用いるのはわが国特有だという。したがって、中国、台湾などでは「弾」の一字で「はずむ」という意味にはならない。こうしたわが国に特有の読み方は「国訓」と呼ばれている。漢字の辞書では「国」の字を四角などで囲った記号によって国訓であることを表すものが多い。しかし原義に沿った読み方を「訓」というので、この呼称は紛らわしい。このためだろうか、現代日本語に定着している国訓を「日本語用法」という用語によって注記する辞書もある。わが国には漢字がもっている原義とは異なる特有の訓読みがあるのだ。

 国訓をもつ漢字の数は多い。たとえば鮎、この漢字はもともとナマズを表す。
 筆者は東京の調布市に住んでいるが、この「調」という漢字の原義には調査などといった意味合いの「しらべる」は含まれていない。楽器を奏でる、演奏するという意味と「ととのう」という意味が原義である。漢文訓読では前者の場合「シラブ」と読まれる。わが国でも「妙なる調べ」といった表現があるが、これに対応する。後ろの意味からは調停、調度品などの語に通じていく。
 「調」の場合は漢字本来の意味も生き残っているが、鮎と同じように国訓が原義にとって替わったものもある。自分が思い込んでいる意味がもともとの意味とは大きく違うという漢字を見つけると少しばかり驚く。たとえば「戻」。この字の原義は①そむく、たがう、もとる、②ゆがむ、ひねくれるなどといった意味合い。しかし、現代のわが国では「もどる」と読んで、ある場所からもとのところへかえる、以前の状態に復するといった使い方がほとんどではないだろうか。
 中には差異が微妙な例もある。「要」がそのひとつ。漢字としては「自分のものにしたいと願うこと」、「求める」、「請う」といった意味がある。「欲しい」といった感じだろうか。一方、日本語の「いる」(要る)は「必要だ」というニュアンスである。「不要不急の外出」と言えば日本人にはすっと受け入れられるが、中国や台湾の人などでは頭をかしげるかも知れない。

 いまわたしたちが目にする漢字は基本的には日本人が読むことを前提としている。「鮎」を見て「あゆ」と通じれば十分で、漢字のもともとの意味を知る必要性などない。パンデミックが怖れられる状況では、「不要不急の外出」を控えるようにと広報することで意は通じる。
 漢字はもともと漢民族が自らの言葉を表記するために作り出したもの。文字をもたない日本人はその漢字を導入して学んできたが、一方では言葉・心情など自分たちに固有の文化を保持しながら、より合理的な国語表記を営々と工夫してきた。いまわたしたちが目にしている現代の漢字は『日本の漢字』である。意味が変化したものもあるし、漢字の読み方(音)も本来のものから外れた慣用音もある。字形ももともとの漢字とは変わってきているものも多い。
 日本漢字の現状がすべての点で完全とは言えないだろうが、言葉や文字は長い時間の経過とともに変化することもある。であるなら、オリジナルの漢字の意味に拘泥しすぎるのもあまり建設的とはいえないだろう。
 もっとも、それは現代の日本という枠の中にあってのこと。漢字文化圏の古典籍、漢字を通して日本に伝来した外国の思想・科学(特に仏教)などを学ぶようなときには漢字本来の意味に注意が必要なことは言うまでもありません。

(2025.1.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧