【コラム】八十路の影法師
漢字漫歩 杓文字とは
竹本 泰則
食品の値上がりが続く。年中行事とでも言いたくなるような状況だ。
卵がスーパーの商品棚から消えたなどというニュースが飛び出したのはおととしくらいだったろうか。去年は野菜類の値段が高騰し、都内の某スーパーの社長さん(?)はテレビに出突っ張り、すっかり有名人になった。野菜は物によっては今もって高値が続いているらしい。
そんな中、米が騒ぎの主役に躍り出た。昨夏以来の値上がり傾向が年を越しても収まらず、政府が保有する「備蓄米」の放出という事態になっている。
頭を抱える細君の傍らで能無しの亭主(小生であります)は「影響が酒にも及ぶかもしれぬな」などとピント外れの心配をしている。
「米は今でも日本人の主食たり得ているのか?」との疑問がわいた。
令和5年3月に公表された農林水産省の調査結果を見ると、主食の構成割合は米がおよそ4割を占め、首位の座にある。これに次ぐのがパンで、米の半分くらいの割合。ところが朝食では順位が逆転する。パンがおよそ半分を占めてトップだ。米食の割合は2割弱くらいのもの。昼食でも米は麺類やパンに押されている。総体ではなんとか首位にあるというもののその座は盤石と言えそうもない。それでも、ただいまのところでいえば、米は日本人の主食である。
日本列島に住んでいた縄文人の食生活は、イノシシなどの動物やドングリなどの木の実、魚や貝類などを採拾狩猟することで成り立っていた。弥生時代になると稲作(水田耕作)がはじまり、人々は定住生活をするようになった……つまり、稲作が縄文と弥生という時代区分の指標という認識でこれまで過ごしてきた。
ところが最近の学問的な研究によれば違う。縄文時代後期に、現在の福岡県、佐賀県といった地域では水田耕作が伝わっており、定住生活も行われていたらしい(現在の日本史教科書には、縄文時代に定住生活していたことが記述されているそうです)。
稲作はその後数百年をかけて各地に普及し、そこでは米づくりを中心に人々が協力しあう農耕社会が形成されてゆき、弥生時代を迎えたということらしい。
この国は狭いとはいえ、大きな生活態様の変革があっという間に列島を覆うはずはないから、それなりの時間を経てゆく中で米を主体とする農業が定着したという見方は頷ける。
三千年もさかのぼる大昔に日本人は米を主食とする生活を始めたといっても、その米たるや現代のものとは見た目も風味も異なる文字通り「古代米」だっただろう。また、その食べ方も、まさかわたしたちが現在食べているような「ごはん」と同じではありますまい。
調べてみると、縄文人は米を煮ていたという。土師器(はじき)の釜だと「おこげ」ができてしまったときには洗いようもなくて、釜が台無しになってしまうらしい。
その後、米食は「煮る」から「蒸す」に変わり、江戸時代中頃には今のような「炊く」という方式になる。そのころから釜(もちろん鉄製)に分厚い木のふたを載せて炊く方式が普及し、新米、古米によって水の量を加減したり、「初めチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いてもふたとるな」式の炊き方も考え出されたりして、わが国独特のおいしい炊き方が完成したようです。
次の画期は昭和の時代。昭和三十年(1955年)に日本初の自動電気釜が出現した。タイムスイッチで希望の時間にご飯が炊けるという先端商品として人気を集め、出荷台数は「最盛期には月産20万個を超えた」と開発元の電気製品会社は言っている。
この自動炊飯器ができる以前の炊飯は江戸時代の延長でした。唯一、違うのは熱源が「まき」からガスに変わったくらいでしょうか。自分が炊いたことはありませんが、おそらくチョロチョロ、パッパの火加減も、手でガスの出方を調整しながらの仕事だったろうと思います。炊きあがったご飯は「おひつ」にうつされ、木の「しゃもじ」で銘々の碗に装う。かつてはそんな風景でした。
ただいまの炊飯器は仕上がりまでの加熱の塩梅も、その後の保温もすべて自動でやってくれます。便利になりました。お陰で「おひつ」はどこかに追いやられ、「しゃもじ」もエンボス加工が施された樹脂製のものが幅を利かせています。なにせ、炊飯器を買えばおまけでついてくるのですから……。
『広辞苑』で「しゃもじ」を引くと「杓文字」という漢字をあてています。「杓」はともかくとして、何がゆえに「文字」がしゃしゃり出る……? 考えてもわかりません。
この謎を解いてくれたのが阿辻哲次という中国文学の学者、この方は日本漢字学会初代会長をつとめた人でもあります。
少し長くなりますがその説明をまとめてみます。
かつてわが国では、食べるという行為はさげすまれていた。身分の高い人などは、人前ではなるべくものを食べないようにとしつけられていた。
時は室町時代ですが、御所に仕えていた「女房」(天皇の身辺の用事を受け持つ官職にあった女性)たちにとっても、食事は恥ずかしいもの、つつみ隠さねばならない行為だった。このため彼女たちは食に関する事柄をそのままでは口にせず、婉曲に響く言葉を作りだして表現した。いわゆる「女房言葉」です。たとえば「おなかが空いている」の当時の言葉は「ひだるし」ですが、やんごとない女房たちはこれをそのまま言うなど、口が裂けてもできない。そこで彼女たちは遠回しに「私はいま、あの『ひ』という文字ではじまる状態なのよ」といった言い方に代えた。それが「ひもじ」(ひ文字)。現代の「ひもじい」です。
「しゃもじ」の本来の名称は「杓子(しゃくし)」ですが、これも食事に関係する「恥ずかしい道具」になっちゃう。だから「しゃ」という文字からはじまる物、「しゃもじ」と言いかえた。これが現代まで引き継がれているのだ……ということでした。
食べるという行為が恥ずかしいこと、秘すべきことというのはすこし意外な感もあります。しかし現代でもこうした感覚は残っているのかもしれません。路上や公共の乗り物の中などで食べることは無作法といわれこともあります。あるいは、食事の店など通りに面した席は通行人から食べているところを見えないようにするため、窓ガラスに加工・工夫をしています。
いささか粗雑な想像ですが、食べることに関するこうした感覚は中国発祥の儒教思想から派生したものかもしれないと思ったりします。
中国の古典である『論語』には食を蔑視するとまで言えるかどうかわかりませんが、少なくとも食を第一義としたり、それにとらわれたりといった態度を否定しています。
孔子の言葉をひきます。
君子(くんし)は道(みち)を謀(はか)りて食(しょく)を謀(はか)らず
君子はどのように生きるべきかについては考えるが、食べるすべなどは考えないという思想に読めます。
ほかにも、食べるもの、着るものが粗末であることを恥ずかしがるような者はともに語るにたりない、あるいは、腹いっぱい食べたいとか我が家が安寧であることを願ったりするような者は君子と呼べないといった言葉などもあります。
士(し)、道(みち)に志(こころざ)して、悪衣(あくい)悪食((あくしょく)を恥(は)ずる者は未だ與(とも)に議(はか)るに足らず
君子(くんし)は食(しょく) 飽かんことを求むることなく、居(きょ) 安(やす)からんことを求むることなし
「杓文字」という漢字表記についての謎は解けたものの、この表記はいただけない。言葉自体は国語として定着しているのですから、日本語として使えばいい。漢字をわざわざあてることはないでしょう。辞書などでも、杓子(しゃくし)の女房詞(文字詞)であることを注記すれば済むでしょう。ちなみに、『広辞苑』は「ひもじい」に漢字表記を併記していません。第一、「杓文字」をまともに読むならば「しゃくもじ」ではありませんか。
(2025.4.20)
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