【コラム】『論語』のわき道(29)

災禍再々(一)

竹本 泰則

 江戸いろはかるたには「泣きっ面に蜂」の諺がある。 同じようなことをいう「踏んだり蹴ったり」や「弱り目に祟り目」などの慣用句もある。似たような言い回しが多いというのは、不幸・不運は重なっておこることが多いからなのか、それとも重なることで苦痛がことさらに大きいために印象が強いせいだろうか。
それはともかく、さきの戦争中から終戦直後にかけて、わが国は戦禍に加えて大きな自然災害に見舞われ続けていた。

 盧溝橋事件の勃発が昭和十二年七月。その後、大東亜戦争へと拡大し昭和二十年の敗戦に至るが、この戦時中の期間は八年。これに戦後の三年間(昭和二十三年六月まで)を加えた十一年間に、わが国はほとんど毎年のように大きな自然災害に襲われている。
 特に後半の六年間、昭和十七年から同二十三年までの間は、毎年千人以上、時には数千人の犠牲者(亡くなった人、行方知れずになった人の数をあわせて、このように表記させてもらいます)を伴う自然災害が連続する。
家族を兵士として徴(と)られる、物資、とりわけ食糧の欠乏にあえぐ、戦争末期には打ち続く空襲にさらされる、終戦を迎えても食糧不足はかえって苛烈を極める。そんな苦難の中でさらなる不幸を背負わされた人々が大勢いたのだ。
 その時代に生を享けているが、これらの災害についてほとんど知らぬまま今日まで過ごしてきた。

 昭和十二年以降、今日までの自然災害による犠牲者の数の推移をたどると、2万2千人を超える人々が犠牲となった「東日本大震災」の年である平成二十三年、およそ6千5百人の犠牲者が出た「阪神・淡路大震災」の平成七年、5千人余りの犠牲者を数える「伊勢湾台風」に襲われた昭和三十四年、この三ヵ年が抜きんでて大きい。しかし、この三年を除けば、昭和三十五年から平成三十年までの五十八年間の自然災害による犠牲者数は年平均で232人である。平成の30年間だけに限れば137人とさらに少なくなる。つまり、現代では一どきに何百人もが亡くなるような自然災害の発生は、極めてまれになっている。
 これに対して戦中戦後の一時期をみると、犠牲者の数が数百人以上、場合によっては3千人を超えるという規模の災害が毎年のように続く。

 昭和十二年から二十三年までの間に起きた自然災害のうち、犠牲者の数が多いものを表にまとめた。

戦中・戦後の主な自然災害
   年  月  名称等   犠牲者数(人)※
昭和十三年 七月  阪神大水害  715
昭和十四年 夏季  朝鮮半島  大規模旱魃 ―
昭和十五年
昭和十六年 夏季  東北地方 冷害 ―
昭和十七年 八月  周防灘台風  1158
昭和十八年 九月  鳥取地震   1083
昭和十九年 十二月 東南海地震  1223
昭和二十年 一月  三河地震   2306
      九月  枕崎台風   3756
昭和二十一年 十二月 南海地震   1443
昭和二十二年  カスリーン台風  1930
昭和二十三年 六月  福井地震  3763
       九月 アイオン台風  838
※ 死亡者・行方不明者の合計

 昭和十三年は大雨・集中豪雨の多かった年で、水害被害が全国的に発生したという。中でも七月初めの豪雨では兵庫県の六甲連山の山腹が多くの箇所で崩れ落ち、土石流がふもとのまちを襲った。南麓の神戸市の被害が特にひどく、同市だけでも六百十六人の犠牲者が出ている。その様子を谷崎潤一郎が『細雪』の中で描いている。
 この豪雨禍は阪神大水害と呼ばれる。

 その翌年の昭和十四年は前年とは逆に少雨の年で、西日本から朝鮮半島にかけて大規模な干害が発生している。特に朝鮮半島の旱魃は壊滅的ともいえる深刻さで、稲作の収量は激減し餓死者の発生も危惧されたという。
 当時、わが国は主食であるコメの供給源として植民地である朝鮮・台湾にも依存しており、全体の二割近くを移入米が支えていた。しかし昭和十五年度分として朝鮮から送られてくるコメはほとんどゼロとなってしまう(直前十年間の平均に対し95㌫減)。このため急遽フランス領インドシナ(仏印)、タイなどからコメが輸入された。その一方で、昭和十六年にはコメの配給制度が実施されて消費量が制限されるようになる。また、この年には、わが国の東北地方が冷害・凶作に見舞われている。
 気候の異常は今でも予測が難しい。つまり、いつ起こっても不思議はない。その意味からすれば、この時期のわが国には、戦争継続の重要な条件である「国民の食糧確保」に不安が内在していたといえそうだ。
 盧溝橋事件を端緒とする中国大陸での戦闘(支那事変と呼ばれた)は長期化、泥沼化して先への確かな見通しも立ち難いような状況を呈していた。そのような中、昭和十六年十二月八日、わが国は米・英二国に宣戦を布告した。中国一国にすら手を焼いている一方で、その何倍も強大な国に同時に戦を挑むという道を選んだ。
十二月八日以降は報道に対する規制が敷かれ、天気予報などの気象情報が一般には伝わらなくなった。翌十七年の八月二十七日、NHKラジオは午後十時のニュースに引続き、九州・中国地方西部地区に向けて中央気象台の発表を伝えた。
 「今夜より明日にかけて九州南部および西部、ならびにその近海一帯は暴風雨となる、警戒を要す」と。
 たったこれだけでどれだけの備えにつながっただろうか?

 二十七日の夜半、台風十六号が関門海峡の西60㎞を通過して北上した。いわゆる風台風であったようだ。雨交じりの強風が九州地方をはじめ西日本各地に吹き荒れて被害をもたらした。特に山口県の小野田、宇部両市を中心とした周防灘西部沿岸では二百年来といわれる高潮が発生し、沿岸部に甚大な被害が出ている。この台風(周防灘台風と呼ばれる)による犠牲者は山口県だけでも七百九十二人にのぼる。

 その後も台風は毎年襲来するが、甚大な被害を伴うものはしばらくなかった。代わってというわけでもなかろうが、昭和十八年からは毎年のように地震が列島を揺さぶる。
鳥取地震(十八年)、東南海地震(十九年)、三河地震(二十年)、南海地震(二十一年)、福井地震(二十三年)である。

 昭和十八年は戦況が大きく変化した年であった。日本軍はガダルカナル島からの撤退に追い込まれ、ソロモン諸島における攻防戦にも完敗、その後は一転して連合軍の反攻が強まる。山本五十六元帥の戦死などが重なり軍部は国民の戦意の喪失を恐れたのであろうか、全国に「撃ちてし止まむ」のポスターが掲げられた。
この年の九月十日、鳥取県東部を震源とする直下型地震(鳥取地震)が起こる。被害の中心は鳥取市で、その震度は6(当時の最大震度階級)とされ、家屋の全壊率は80%を超えた。市内の木造家屋のほぼ全てが倒壊し、中心部の街並みも壊滅状態であったという。
 発生時刻が夕方の5時36分ということから食事の支度に重なったために各所で火災が発生しているが、倒壊家屋が防火帯の役割をして延焼を防いで大火には至らなかったという。死亡者(1083人)の多くは圧死であった。

 米・英への宣戦布告以来ちょうど満三年が経った昭和十九年十二月七日には、熊野灘の海底を震源とする(昭和)東南海地震が発生している。被害は広範に及び、愛知、三重、静岡、和歌山、岐阜、大阪、奈良の各府県で犠牲者が出ている。
揺れが激しかった東海地域は三菱重工をはじめ中島飛行機、川崎重工など名だたる航空機メーカーが拠点を構え、それに関連する工場が集中していた。軍需工場の被害状況に関する情報が連合国に漏れることを恐れた軍部は、新聞・ラジオには被害の報道を禁じ,会社関係者などにも緘口令を敷いた。
 翌日、この日は大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)と称して、米・英に対する宣戦の詔勅が交付されたことにちなんで勅語奉読、宮城遥拝などを行う日にあたる。このため新聞各紙の一面は昭和天皇の大きな肖像写真を載せ、戦意高揚の文章で埋められている。地震については三面にわずかなスペースをとり、発生日時、震源地を伝え「強震を感じて被害を生じたところもある」といった程度の記事にすませたようだ。正確な被害情報が伝えられなかったために、被災地は他の地域からの支援もないままに置かれた。
 一方、同日のニューヨーク・タイムズの見出しには「日本の中央部で大地震」の文字が踊り、他の米国主要紙も地震の発生や軍事に及ぼす影響について大きく伝えているそうである。軍部が国内に覆いをかけても、世界各国の地震計は地震発生とその大きさをとらえていたのだ。
 戦争では敵の弱いところを見つけると、そこを重点的に攻めるのは常道であろう。アメリカ軍は地震の三日後に航空機による偵察を行い、さらに三日後の十二月十三日からはB29の大編隊による名古屋地区への爆撃を開始する。十二月中に三回、翌 一月に二回、二月に一回と計六回の空襲が行われている。
 この地震からほぼ一か月後の昭和二十年一月十三日には三河湾内のごく浅い海底を震源とする直下型地震が起きている。
この地震についても軍部の報道統制は徹底していたので、被害状況も不明な部分が残されているようだ。また、情報が伝わらなかったことにより、他地区からの支援活動などがなかったことも先の東南海地震と同様だったようである。
家屋が倒壊を免れていても、余震の恐怖などで家に入れない人も多かった。空き地に筵(むしろ)を敷いて、家から持ち出した布団をかぶり、星を眺めながら寝る以外になかったという。二つの大地震の時季は冬であった。
 東南海地震から二年後、敗戦から一年目余を経た昭和二十一年十二月二十一日には紀伊半島・潮岬沖の海底を震源とする地震(南海地震)が発生している。被害は中部・関西地方はもとより、三年前に地震で被災した鳥取県でも五人の犠牲者が出ているほか、大分県でも倒壊家屋四十棟以上、犠牲者十三人を数える。広い範囲に被害が及ぶ大地震であった。

 東南海、三河湾、南海という三つの地震を南海トラフ地震として括ると、この地域における大地震はさかのぼる五百年の間で五度目となる。百年に一回という確率である(実際の発生間隔も奇妙に百年刻みに近い)。地震発生に規則性があるのかどうかわからないが、今や昭和の大地震から八十年近い時間が経過している。
(つづく) 

(2022.7.20)
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