【コラム】『論語』のわき道(39)

災禍再々(二)

竹本 泰則

 前号に重出となりますが、昭和12年から23年までの間に起きた自然災害のうち、犠牲者の数が多いものについて略記します。発生年--名称等--犠牲者の人数の順です。犠牲者については、死亡者・行方不明者の合計としています。

昭和13年 阪神大水害      715人
昭和14年 朝鮮半島の大規模旱魃    ―
昭和16年 東北地方の冷害       ―
昭和17年 周防灘台風    1,158人
昭和18年 鳥取地震     1,083人
昭和19年 東南海地震    1,223人
昭和20年 三河地震     2,306人
   〃  枕崎台風     3,756人
昭和21年 南海地震     1,443人
昭和22年 カスリーン台風  1,930人
昭和23年 福井地震     3,763人
   〃 アイオン台風      838人

 〇    〇    〇    〇    〇    〇    〇    〇    

枕崎台風
 三河地震が起きた昭和20年は、いうまでもなく、わが国・現代史の大きな曲がり角の年である。ポツダム宣言の受諾により国は敗れ、連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に入った。占領は以後七年間にわたる。
 敗戦を告げる詔勅が全国に放送されたほぼ一ヵ月後の9月17日、鹿児島県に台風16号が上陸する。九州から中国地方西部を通過し、一旦日本海に出て北上した後、再び庄内地方に上陸して東北の穀倉地帯を襲った。「枕崎台風」と名付けられ、昭和の三大台風の一つに数えられる巨大台風であった。
 被害は広島県が特に大きかった。広島市、呉市など瀬戸内海沿岸の各地に水害が発生し、同県の犠牲者は全国の半数を超える2012人にのぼった。中でも、呉市の被害は甚大であった。
 呉は「軍都」と称されていた。戦艦・長門、戦艦・大和などといった日本海軍を代表する大型艦艇を建造した国内最大の海軍工廠を擁し、鎮守府もおかれていた。市内には軍需施設が軒を並べ、対岸の江田島には海軍兵学校がその偉容を誇っていた。入江は多くの軍艦が碇泊する軍港であった。このため米軍も主要な標的地として早くから空襲を仕掛けており、しかもその攻撃は執拗であった。連合艦隊を構成する軍艦を目標とした昭和20年3月19日の爆撃を皮切りとして、8月11日までの146日間に62回にわたる 空襲を敢行した。この数は名古屋市の63回に肩を並べ、横浜市、川崎市などを含む神奈川県 下全体の総数52回をも上回る。
港は艦艇の墓場と化し、市街地も焼夷弾爆撃によって焼きつくされた。その果てに浴びせられた台風禍の追い打ちであった。

 広島県土木部がまとめた枕崎台風による水害の記録誌(昭和26年8月刊)に、当時の土木部長が序文を寄せている。その中に、被災後、呉市民の間には「戦争で火攻めにあい、今度は水攻めにあった。正月頃には食攻めにあって餓死するだろう。何故、天はこうまで我々を苦しめ抜かねばならぬのだろうか。神は平和なときにのみあるものなのだろうか」という悲痛な叫びが聞かれた、とある。言葉は多少こしらえたようなにおいもあるが、多くの市民の気持ちはこの言葉の通りであっただろう。
 この記録では被害を大きくした原因の分析が行われており、その一つとして、気象の予報がなかったことを挙げている。「市民のほとんどがかかる大災害が起きることを予知せず、水害に対する準備が全然なかった」というのである。

 米英に対する宣戦布告以来、ラジオ・新聞による一般向けの天気予報は止められていたが、この年の8月22日(枕崎台風が上陸するおよそ一か月前)には規制が解除されている。その復活の第一日目に発表された東京地方の予報は「天気が変わりやすく、午後から夜にかけて雨が降る見込み」というものであった。しかし、この予報発表の時点で、房総半島沖に発生していた小型台風の見落としがあった。その夜、東京地方は暴風雨に見舞われる。気象庁の建屋のガラス窓はほとんどが割れてしまって風が室内を吹きまくり、床は泥だらけ。その中で机、衝立などを利用して風雨を防ぐなど、職員は大わらわだったそうである。中央でもこのレベルであったわけで地方の観測・通信体制は推して知るべしだろう。いわんや原子爆弾による被害を受けたばかりの広島気象台においてをやである。
 その後一か月も間をおかずに台風20号(阿久根台風)が襲来、枕崎台風とほぼ同じ経路をたどって各地に被害をもたらした。
この年の夏、東北地方はひどい冷害に見舞われており、これに二つの台風の被害が重なった。このためにコメは大正・昭和期を通じて最悪の凶作となり、戦時中から続く食糧の欠乏は危機的な様相を呈する。

カスリーン台風
 昭和22年、関東地方は広い範囲で水没する。
 9月14日から15日にかけて本州・太平洋沿岸地域は記録的な大雨に見舞われた。本土をかすめた「カスリーン台風」による豪雨である。
太平洋を北上してきた台風は14日未明に紀伊半島沖で進路を変えて東海・関東地方の沖合を進み、15日夜に房総半島南端をかすめたのち、翌日になって三陸沖方向に抜ける。
 大洪水の引き金となったのは埼玉県加須市の北東部で起きた利根川の堤防の決壊であった。水位は15日の夜から土手を超えていたらしいが、16日午前0時ころに、大音響とともに堤防が崩れたという。その後、利根川およびその支川でも決壊が相次ぎ、大量の濁流が流れ出た。
 濁流は埼玉県と東京都の境界付近、現在の葛飾区内の水元公園付近まで達して、この地の堰で一時的ながら止まった。しかし、水嵩はなお刻々と増え続ける。堰が崩れれば葛飾区全域が一気に水没することは明白だった。東京都知事・安井誠一郎は氾濫した水を江戸川に流すために、その右岸の堤の爆破を決断する。GHQの了解のもと、米軍工兵隊により堤防は破壊されるが、その前に堰が崩れて間に合わなかったという。
 この台風の大雨により利根川のほか烏川、荒川、渡良瀬川、鬼怒川などでも堤防の決壊が起こった。各地域の洪水によって、神奈川県を除く関東地方全域で犠牲者が出ている。東北地方でも北上川が氾濫し、岩手県一関市などに大きな被害があった。

福井地震
 昭和23年から3年間、わが国はGHQの指導によって、夏時間(サマータイム)制を採用していた。その23年6月28日、午後5時13分(実際の時刻は4時13分)福井県北部を大地震が襲った。福井市に隣接する現在の坂井市のごく浅い地下を震源とする直下型の地震であった(福井地震)。
 犠牲者の大半を福井県で占め、被害も福井市および現在の坂井市、あわら市に集中している。福井市における家屋の全壊率は80㌫に達し、坂井市では建物のすべてが倒壊した地域もあったという。しかも揺れ始めから倒壊するまでの時間が5~15秒という短い時間であったために、犠牲者が多くなったようだ。
 当時の地震の震度階級は「6」(烈震)が最大であり、福井地震の震度もその最大値で記録されている。しかし6では被害状況を適切に表現できないとの声が震災直後から上がっていた。この翌年には地震観測法が改正されて震度7(激震)が設けられた(福井地震の実際の震度は7と推定されているという)。

 福井市は地震の三年前に、地方都市としては異例ともいえる大規模な空襲を受け、市街地はほとんど廃墟の状態となった(米軍資料による損壊率は約85㌫)。
さらに大地震からおよそ1か月後には、3日間にわたって降り続いた大雨による洪水にも見舞われている。地震によって広範囲に被害を受けていた九頭龍川の堤防が崩壊したことによる氾濫であった。地震で倒れた家屋を再建するために集めておいた材木が無残に水面を漂い、急造のバラックなども流されたという。
 福井市が公式ホームページの中でわがまちを紹介するコーナーがある。そこには「これまで福井市は、戦災や震災、水害という数多くの災害を乗り越えて不死鳥のごとく復興し、発展してきました」とある。同市の市民憲章は「不死鳥のねがい」と題され、さらに市の中心を貫く大通り(旧国道8号線)は「フェニックス通り」と命名されているそうである。
 災禍の苛酷さにくじけず、それからの復興を果たした不屈の努力に対する誇りを不死鳥になぞらえたものであろう。

アイオン台風
 福井地震から約3か月後、関東から東北地方の太平洋側を、つまり前年の「カスリーン台風」とほぼ同じコースを「アイオン台風」が通過した。台風は各地に大雨をもたらしたが、9月16日には北上川流域で大きな洪水が発生した。犠牲者は一関市に集中している。前年のカスリーン台風に連続しての被災であった。
北上川支流の磐井川上流で発生した大規模な山津波による土石流が市を呑み込んだという。9月18日の河北新報(東北地方の地域新聞)は現地の惨状を「一関全滅に瀕す」と報じている。
 犠牲となった市民の数は473人に達した。

(つづく)

(2022.8.20)
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