無党派層の投票動向から県知事選と国政選挙を考える 

沖縄県知事選挙翁長勝利のカギは無党派層

民主党の転落は無党派層の離反

仲井 富


 沖縄で野党候補全勝。12月14日の総選挙は、予想通り自公与党政権の圧勝に終わった。だが沖縄のみは4つの選挙区すべてで自民候補が敗北した。11月16日の県知事選挙における翁長勝利の直後とはいえ、これまた対照的なできごとだ。ちなみに勝利した4つの選挙区における野党候補の得票総計は304,063票、それに加えて1区から「県民の意向は辺野古移設反対」として維新から立候補した下地氏が34,328票を得た。合計すると野党の得票は338,391票となる。

 野党全体の得票率は59.5%であり、翁長氏の勝利した得票率51%を上回る。与野党の得票差は107,665票で、翁長対仲井真の得票差99,744票を上回る。また沖縄の勝利が、建白書グループに押された、赤嶺氏(共産党)の沖縄1区当選につながり、全国的な共産党の躍進を後押ししたともいえる。1区のみの公認に絞り、他の3つの立候補は取りやめて、保守系を含めた他党を推した。この経験を、共産党や他の野党がどう評価し、今後の国政選挙や首長選挙につなぐことができるか問われることになる。

 もう一つ注目される無党派層の投票動向だが、12月14日の投票率は戦後最低の52%。民主党の劣化によって、2003年以降初めて、政権選択不可能な選挙となったこともあって、多くは棄権に回ったと見られる。それが組織的な強さを持つ公明、共産の議席拡大につながったともいえる。投票した無党派層の支持は、維新21.7%、自民21.1%,民主20.8%、共産17.7%などに分散した(共同通信出口調査14・12・15日経新聞)。共産が前回12年の総選挙の7.5%から倍増しているのが特徴的で、ここでも共産の躍進を無党派層が支えたと言える。

(図表参照)画像の説明

◆翁長氏10万票の大差で51%を獲得して完勝

 沖縄県知事選挙は、大方の予想通り翁長雄志前那覇市長勝利に終わった。
  翁長氏の得票数は36万820票(得票率51%)
  仲井真氏は26万1076票、
  下地氏は6万9447票、
  喜納氏は7821票。
 約10万票の大差をつけた勝利だった。投票率は64.13%とで、前回投票率を上回ったが、過去4番目に低い投票率だった。同じ日に投開票された本土の市長選などは、ほぼ40%台、中には30%台も見受けられた。しかし沖縄ではまだ過去に比べると低い。私はオルタ2014年8月20日号で「滋賀県知事選挙での自民敗北と沖縄県知事選展望」で要旨以下のように書いた。

 —滋賀県知事選挙での自公維新の敗北は、年末に予定される沖縄県知事選挙に大きな影響を及ぼすことは確実だ。県知事候補の筆頭に上がった仲井真弘多知事について、自民党本部が独自に調査した結果では、同じく自民党の翁長雄志那覇市長にかなりの差でリードされているという結果が出た。党本部は仲井真の擁立に難色を示し、候補者の差し替えを求めたが、県連はことわった。翁長那覇市長は一貫して、仲井真知事の選挙事務長を務めた実力者であり、4年前の知事選挙でも、もともと普天間県内移設賛成の仲井真知事に活を入れて「当選をめざすなら、県外を明確にせよ」と迫ったことで知られる。しぶしぶ同意して知事再選を射止めた。

 翁長氏が保革を超えて辺野古県内移設に反対するオール沖縄最強の候補者であることは間違いない。沖縄の普天間基地県外移設運動は、2010年以降、保革を結集し、公明県本部もともに戦ってきた歴史がある。滋賀県知事選挙で敗北を喫した現在、公明県本部を県内移設に転換させる見通しはない。公明党本部も、滋賀の敗戦を受けて、なお強引に自公政権の枠組みを公明県本部に強制できるか。自民党内には早くも沖縄県知事選の敗北を見越して、当選確実な翁長氏に、自民党お得意の「抱き付き作戦」で事態の打開を図ろうという動きさえあるという—。

 いち早く県知事選敗北を予測した自民党本部の分析力はいつもながら見事だ。そこで自民党は仲井真在任中に辺野古移設工事を強行することに賭けた。安倍首相が「テーブルを叩いて何をしているのだ」と怒鳴ったという。安倍にしてみれば、昨年末に3000億円を超える地域振興費で沖縄県知事と5人の国会議員に「いい正月」をさせたのに、1月の名護市長選挙では前回4年前の市長選挙より差を付けられて敗北、さらに7月の滋賀県知事選も絶対有利と見られたのに惜敗、これで沖縄知事選挙も敗北となれば政権に大打撃だ、という思いが当然あっただろう。

◆市町村長の切り崩しと翁長になれば革新不況との大宣伝

 仲井間陣営が自民党本部と組んで仕掛けたのが、沖縄振興費をエサにした県内自治体の切り崩しである。13年1月27日、仲井真知事を先頭に、沖縄の全41市町村長、全市町村議会議長などによる「米軍普天間飛行場からの垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ配備撤回と同基地を閉鎖・撤去し、県内移設の断念を求める集会」が日比谷公園野外音楽堂で開催された。集会後、安倍晋三首相に対する直訴状ともいうべき「建白書」を提出した。

 この建白書運動をリードしたのは翁長氏だったが、仲井間陣営は沖縄振興予算という「餌」を使って市町村長の切り崩しを行った。今年8月8日、仲井真知事の沖縄県知事選出馬会見では、司会者が「41市町村長のうち、31市町村長、75.6%が現職仲井真知事を支持してる」と発表した。投票日前日の11月15日には、琉球新報に「意見広告」を一頁すべてを使って掲載した。「現県政の実行力で大発展する沖縄か、革新県政に戻り大停滞する沖縄県」という大見出しである。「革新県政になれば普天間は再び固定化され 沖縄は再び革新不況に逆もどり」と翁長勢力を革新県政と誹謗した。まさに豊富な政府資金を使って国政選挙並みの一大キャンペーンである。

画像の説明

 「圧倒的」な市町村長の支持があったはずだが、ふたを開けてみると、主戦場となった市部11市では宮古島市と石垣市の島しょ部のみで仲井真リード、郡部では30町村のうち、仲井真が13町村でリードしたが、そのうち10町村は投票者数百名という村だった。合計15市町村で仲井真氏が勝ったが、残りの26市町村は翁長氏が制した。県民は市町村長の意向にかかわらず「札束でしばき、踏みつけるやり方」(野中自民党元幹事長発言)に屈しなかった。(注)参照。

(注)野中氏は、1月の名護市長選で自民党候補の応援に立ったが、その発言内容は以下のようなものだった。「3000億円台の沖縄振興予算を2021年度まで確保すると表明したが、今回の一連の流れに怒りを持ってきた。沖縄の人たちを札束でしばき、踏みつけるような手法を取ってはならない」と安倍政権の米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)移設問題への対応を批判。今回の知事選では「翁長氏の一貫した政治姿勢を支持する」との激励文を送った。

◆自民党支持11%、無党派層60% 琉球新聞県民世論調査

 自民党本部がが危惧したように、沖縄の世論は急激に辺野古移設反対に向いていた。琉球新報は、政府が米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた海底ボーリング調査を開始したことに関する県内電話世論調査を実施した。このなかで政党支持率についての調査で驚くべき結果が出ていた。(琉球新報2014・8・23)
 自民党(11%)社民党(5.2%)民主党(4.3%)共産党(3.4%)(4)公明党(2%)社大党(1.8%)。以下、日本維新の会、次世代の党、みんなの党、結いの党、生活の党、新党改革などはいずれも0.2〜0.3%の支持率だ。しかも支持政党なしは60.2%に上った(琉球新報2014・8・26)。是で見る限り、自民党の11%に対して、社民、共産、社大で合計10.5%と匹敵する。

◆毎日・朝日出口調査で無党派の60%が翁長投票

 琉球新報の世論調査は、県知事選当日の毎日新聞と琉球放送の出口調査でも実証された。沖縄知事選挙で投票を済ませた有権者を対象に合同で出口調査を実施した。投票の際に「米軍普天間基地の辺野古移設に対する考え方」をもっとも重視した人の75%が翁長氏に、「経済振興への取り組み」を重視した人の67%が、仲井真氏に投票したと回答。支持政党別では、翁長氏は共産・社民両党支持層の9割以上を固め、自主投票の民主党支持層の8割、無党派層の6割から支持を得たほか、自民、公明支持層にも食い込んだ。仲井真氏は自民支持層の7割が投票したと回答したが、辺野古移設への対応を巡って自主投票とした公明支持層は仲井真氏と翁長氏にほぼ二分された。(毎日新聞2014・11・17朝刊)
 朝日新聞と沖縄タイムス、琉球朝日放送の出口調査でもほぼ同様の結果だった。翁長氏は社民、共産の9割を固めた。自主投票の民主の大半、公明の35%の支持を得て、自民支持層の2割も取り込んだ。とくに有効回答を寄せた人の3分の1を占める無党派層の62%が移設反対を訴えた翁長氏に投票している。出口調査は県内90カ所で実施し、有効回答は4906人。(沖縄タイムス2014・11・17朝刊)

 翁長陣営は、序盤から先行する展開だったが、寄り合い所帯による上滑りの懸念もあった。しかし保守系と革新系の選対幹部がほぼ毎朝、会議を持って互いの取り組みを確認。報道各社の調査で優位な情勢が出ても、「県民意志を示すには圧倒的な勝利を」と有効投票総数の過半数、さらには40万票獲得を目標に掲げ、引き締めた。告示後の1万人5千人規模の総決起大会、三日攻防に入ってからの那覇市内での大規模な[Vロード作戦』、期日前投票を呼び掛けの徹底、最終日も5千人規模での集会で締めくくるなど、最終盤まで手を緩めなかった。(琉球新聞2014・11・17朝刊)

(図参照)画像の説明

 毎日、朝日の出口調査で見ると、ともに無党派層の6割から6割以上の支持を得ていることだ。1人区の選挙で沖縄の有権者の60%を占める無党派層の支持を得たという事が圧勝につながった。加えて自民支持層から2割以上、公明支持者の35%以上を取り込んでいる。

 これは一月の名護市長選挙の結果と共通する。読売新聞が名護市長選挙での出口調査結果を発表しているが、それによれば名護市長選挙でも無党派層の7割が稲嶺に投票という出口調査の結果が出ている。読売新聞の出口調査でも、投票の際に重視した争点については、「普天間飛行場の移設問題」が約5割を占めた。その他は、「地域振興や景気・雇用対策」「市の行財政改革」がいずれも約1割で、有権者が移設問題に強い関心を寄せていたことが裏付けられた。自民支持層に限った投票先は末松氏が約7割だったが、稲嶺氏も約3割あった。民主支持層では約8割が稲嶺氏に。社民、共産支持層はともに稲嶺氏が9割強に達した。無党派層でも稲嶺氏が7割強と、末松氏の約2割を上回った。(2014・1・20読売新聞朝刊)

◆本土の政党支持率自民22%から40%、無党派が40%から59%へ

 これを本土の政党支持率と対比してみると、10月半ば以降から11月前半にかけての各社世論調査で、内閣支持率では、安倍内閣支持は39%から50%、不支持は26%から40%の間となっている。政党支持率は、自民が時事通信の22%を最低に読売の41%までの間に比較的安定している。支持政党なしは、読売が最も低く42%だが、時事は最高の59.0%となっている。これは沖縄、琉球新報の政党支持なし60%に匹敵する。しかも政党支持率でも時事は、自民も22%と最低だ。

 内閣支持率と政党支持率の近況を概観すると、内閣支持率と自民党支持率が多少低下しても、民主党以下の野党支持にはつながらず、無党派層の増大につながっているということがわかる。これは沖縄の世論調査にも特徴的に現れている。自民党支持率は本土では考えられない11%だが、他の野党支持に回っているわけではなく、多くは政党支持なし層に移っている。

◆政権交代は無党派層の支持が絶対条件、民主の没落は無党派離れ

 近年の国政選挙は、無党派層の存在を抜きにして語れない。今年7月の滋賀県知事選挙結果を見ても、無党派層の向背が選挙結果を決めている。なぜ自民党は小泉郵政選挙で2005年の衆院選挙で圧倒的な勝利を収めたのに、2年後の2007年参院選挙では大敗したのか。

 また民主党は07年の参院選で大勝し、2009年の衆院選で政権を獲得したのに、もろくも翌年の参院選で敗北し、さらに012年衆院選、013年参院選と惨敗に次ぐ惨敗で、自民党政治の復権を許したのか。そこには無党派層の支持と不支持が大きく絡んでいる。ただ自民党も民主党も、なぜ負けたのかという分析において無党派層の存在を軽く見すぎている傾向がある。とりわけ民主党は「党のまとまりがないから敗けた」などという意味不明瞭な総括で、根本的な反省もなく今日に至っている。

 民主党がはじめて二大政党の一翼として登場したのは、2003年11月の総選挙だった。自民党は00年6月の前回選挙で獲得した233を上回る237議席を獲得したが、目標の単独過半数には届かず、選挙前の247議席を割り込んだ。一方、小沢自由党と合併した民主党は選挙前より40議席も伸ばし野党としての過去最高議席を上回る177議席を獲得。比例区では第1党に躍進した。

 政権交代は果たせなかったものの、自民、民主両党が政権を競う「二大政党制」への足がかりを築いた。朝日新聞は「この選挙は、民主党がマニフェスト(政権公約)を前面に掲げ政権選択を訴える選挙を展開したことが同党の議席大幅増につながった。自民党に政策論争を仕掛けた戦略が功を奏したのだ。小選挙区制に加えてマニフェスト選挙ということになれば、今後、さらに自民か民主かという政権選択選挙になっていくだろう」と論じた。(03・11・10朝日朝刊)

 新聞各社が実施した総選挙の出口調査によると、特定の支持政党を持たない無党派層の5割強が小選挙区、比例区ともに民主党に投票し、民主支持層とともに、同党の躍進を後押ししたことがわかった。一方、都市部を中心とした無党派層の自民離れが顕著になった。この時、民主党は前回01年の参院選では899万票だった比例区得票を2200万票という驚異的な伸びで、自民の比例区得票2000万票をはじめて上回った。

 以後一貫して民主党は、04年参院選約2100万票、05年郵政総選挙で小泉政権が圧勝したが、そのときでも比例区票は自民の約2600万票にたいして約2100万票を確保した。これが07年の参院選の勝利につながった。民主比例票は約2300万票に対して自民は約1700万票。そして政権交代の09年総選挙では民主の比例区票は約2900万票に対して自民は約1900万票と1000万票の差が付いた。03年からの09年までの国政選挙では、無党派層の5割から6割近い支持が出口調査で明らかになっており、民主党政権誕生に寄与している。

 それが010年の参院選挙で暗転する。沖縄辺野古基地移設反対、官房機密費の公開、八ッ場ダムなどの中止、高速道路の無料化、消費税4年間は上げない、などの政策を早々と転換し、一気に無党派層及び伝統的な民主支持層の民主離れが起こった。民主党が掲げた日米地位協定改定は、長年の沖縄県民の悲願であったが、これさえ民主党政権は口にしなくなった。

◆無党派層の民主支持59%から(09年)から12%(013年)へ

 マニフェストによる明確な政策提示で選挙のたびごとに支持率を上げてきた民主党が、政権獲得と同時にマニフェストを破り捨てるという自殺的な政権運営に堕して行ったのだから敗北は当前だ。民主を支持してきた無党派層は維新、みんな、自民に流れるとともに、棄権という形で抗議した。その結果、低投票率の下で自民、公明が比例区票を伸ばしたわけではないのに、012年総選挙、013年参院選で圧勝するという政治状況を招いた。

 民主党の比例区得票は010年参院選で約1800万票へ、012年総選挙では約960万票、013年参院選では約700万票へと低落。比例区では公明党に次ぐ第三党となった。12年前の01年参院選当時の約800万票を下回るまでに転落した。

(図表参照)画像の説明

 無党派層の民主党への支持は、出口調査などで明らかなように、09年政権獲得時の総選挙では58%に上った。しかし、敗北した012年総選挙では23%へと激減した。また民主支持層は、政権獲得時には82%が民主に投票したが、12年には支持層の61%しか投票しなかった。逆に自民党は09年、無党派層の24%を獲得しただけだが、012年には32%の支持を得ている。組織基盤の薄い民主党は、明確な政策目標を掲げ、都市部を中心に無党派層の支持を取り付けながら政権に着いた。しかし、その政策目標が政権獲得と同時に曖昧になった。

 したがって、政策目標が曖昧なままの013年参院選での惨敗は当然の結果である。このときの無党派層からの支持率は、朝日新聞の出口調査(013・7・22朝刊)によれば12%しか集められず、自民(23%)、みんな(17%)、維新(15%)、共産(13%)に次いで12%と第5位。その結果が、東京、大阪、京都など戦後一貫して社会党〜民主党が獲得してきた議席ゼロという致命的敗北につながった。

■■資料)政党支持層と無党派層の推移
  早稲田大学 田中愛治教授「無党派層の研究」

 無党派層の研究は幾人かの学者グループなどでさまざまな知見が語られているが、以下に早稲田大学田中愛治教授の「無党派層の研究」の要旨を紹介したい。
 日本において無党派層が急激に増加し始めるのは、最初は1960年代末から70年代初めにかけてであり、次に急増するのは1990年代初頭である。無党派層は1960年代中頃まで1ケタ台であったのが、1970年から20%台になった。それまでの伝統的な無党派層の約10%のほかに、15%程度の無党派がこの70年代に上乗せされた。その後もさらに無党派層は漸増し、90年代初頭には約35%にまで膨らみ93年に自民党が分裂した後に自民党が下野した政権交代(細川護煕内閣の誕生)以降には急増して1995年1月には50%に達することになる。

◆自民党支持が下がれば無党派層が増加する90年代以降

 1960〜70年代は自民党の支持率が下がれば社会党の支持率が上がるという関係だったが、1993年以降は自民党の支持率が下がれば無党派層の比率が上がるという自民党対無党派層が緊張関係を持つようになる。無党派層が増加するのは、1974年に田中角栄首相が金権問題で辞任した時、89年のリクルート事件、93年の金丸金権問題と自民党分裂の時などである。

 これらはいずれもスキャンダル等で自民党政権への国民の批判が高まった時期である。すなわち、無党派層は、無関心層を別にすれば、政治に対する不信感が強まった有権者層がどの政党も支持しなくなることによって増加している。
 この傾向は現在も続いており、2005年に小泉首相が郵政改革選挙で自民党の支持率を引き上げると無党派層は減り、その後2009年に民主党政権が誕生するまで、国民が政党に期待をしている時期は無党派層が減少する。しかし、鳩山内閣の執政上の失敗と、菅内閣の東日本大震災後の復興の遅れと福島原発事故後の処理の不手際などにより、再び無党派層が増加した。2007年頃からは無党派層が減ると民主党支持層が増え、2009年以降は民主党支持層が減ると無党派層が増加するというパターンになっている。

◆無党派層の3類型

 政治的無関心層、政党拒否層、脱政党層無党派層は増加してきたが、その増加した時期によって異なる特徴を持つと考えられる。無党派層は、3つに分類できる。

(1)政治的無関心層(約15%)は、政治的関心が低いために政党支持も持た
ず、教育程度も低く新聞なども読まない無党派層で、1960年代の無党派層は全てこのタイプだったと思われる。
(2)政党拒否層(約20%)は「どの政党も支持しまい」と考え、選挙毎にどの政党が最も良いかを考える政治的関心の高い層だが、1970年代から現れ、その層が90年代初頭には約20%になった(91年には20.7%)。
(3)脱政党層(約15%)とは、それまでの政党支持を捨てて無党派になった層であり、1993年以降95年までに急増し約15%(13.7%)になった。

 このように、無党派層は、実は3種類の類型(タイプ)に分類でき、それらの合計で約50%であった。
(「研究最前線」掲載号NO.922 田中愛治政治経済学部教授「無党派層」の投票行動から読む政治 国民が政治に求めるものは?)所載。
             (筆者は政党政治評論家)


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