【コラム】
槿と桜(72)

焼肉のルーツ

延 恩株

 日本で韓国の食事として、多くの人がすぐに思い浮かべる一つに焼肉があります。牛肉、豚肉が使われますが、豪快に骨付きの肉を食べるのであれば、豚肉が一般的です。理由は簡単で、豚肉の方が安いからです。私は牛肉をそのまま焼いて食べることもありますが、薄切りの牛肉にほかの野菜なども切って入れて、私好みの味付けをしてから焼いて(煮込んで)食べるプルコギが好きです。そのほか豚肉なら角煮、牛肉ならかたまり肉をスープの材料としてもよく使います。

 このように、現在の食生活で言えば、韓国人が日常的に肉を使った料理を食べる機会は日本より多いと言えます。やや古い資料ですが、日本の独立行政法人「農畜産業振興機構」の「最近の韓国の食肉需要動向」(2016年8月)によりますと、韓国の一人あたりの牛肉、豚肉、鶏肉合わせた消費量は日本の約1.6倍になっています。

 紀元前に朝鮮半島に住み着いた韓国人の祖先は、狩猟、牧畜が主な生活スタイルでした。そのため肉食は当然のように行われていました。この時代の人びとは肉を串刺しにして火であぶって食べていたと考えられていますが、肉の丸焼きの原点と言えるかもしれません。

 4世紀過ぎには、朝鮮半島は北部の高句麗、南西部の百済、南東部の新羅の三国時代となり、中国から仏教が伝来しました。そのため、仏教の戒律によって肉食文化が後退して、米、麦、大豆など穀物栽培を中心とする農耕文化へと移行し、牛や馬は穀物生産のための貴重な家畜として扱われるようになりました。それでも仏教伝来当初は、肉食は維持されていましたが、6世紀からは強く禁止されました。高句麗、百済から始まり、最後に新羅が殺生を禁じ、統一新羅の時代(676~935年)には殺生厳禁で魚を食べることすら禁止しました。

 興味深いのは、中国では僧侶を除いた人びとの間に肉食禁止は行き渡らず、食べ続けられていましたが、一般庶民の間にまで定着し、長く守られたのは日本でした。日本では、飛鳥時代の675年に天武天皇が「殺生禁止令」を出しました(645年の大化の改新から30年後)。時代的には朝鮮半島とほぼ同じ時代と言えます。ただし、肉食禁止の対象は牛・馬・犬・鶏と猿でした。また、この禁止令は毎年4月1日~9月30日までの農耕期に限られ、鹿や猪は対象外で、商業的な狩猟は認められていました。

 これ以降、日本では奈良、平安、鎌倉時代にたびたび肉食禁止令が出され、明治天皇が1872年に牛肉を食べるまで、およそ1200年間、公式的には肉食は禁止されていたことになります。日本で肉食が認められたのは、「脱亜入欧」という言葉に象徴されるように、激しい西欧化によるものだったと考えられます。

 一方、朝鮮半島での肉食は他民族の侵入によって、いわば強制的に始まりました。
 中国から伝えられた穀物文化によって酒、味噌、醤油をはじめ穀物の加工食品が盛んに作られ、野菜の漬け物なども食べる(キムチはまだ登場していません)ようになっていた朝鮮民族は、こうした食文化をおよそ6~700年間、維持していました。つまり日本と同様に肉食文化と言えるものが誕生する素地がまったくなかった時代が長く続いたことになります。

 ところが、モンゴル族が1231年から1273年にかけて6回侵攻してきて、この間に元の使者のために、殺生が禁止されていたにもかかわらず、肉の食事を用意しなければならなくなりました。この頃に考え出されたのが牛肉のスープ「ソㇽロンタン」(설렁탕)の源流になったと言われています。その後約80年間、モンゴル族(当時、中国も支配して「元朝」を建てていた)の支配下に置かれることになりました。

 朝鮮民族とモンゴル民族の戦いは穀物中心の農耕民族と肉食中心の遊牧民族の戦いとも言えるものでした。結果的に朝鮮民族はモンゴル民族の肉食中心の食文化の影響を徐々に受けていくことになります。
 モンゴル族は支配した朝鮮半島の各地に、平時は遊牧や農耕に従事し戦時には兵士となる部隊をおき、彼らは自分たちの食料を確保するために牧場を作っていきました。こうして食料として家畜を飼うという新しい生活スタイルが朝鮮半島に入り込みました。
 現在、韓国の南の島・済州島には「チョランマㇽ」(조랑말)と呼ばれるモンゴル馬の子孫となる小型馬がいるのは、こうした歴史的な経緯があったからです。

 ただ、仏教を信仰していた庶民が肉食をすぐさま取り入れたわけではなく、モンゴル人の肉の料理法や味付け方法などを真似ることから、次第に仏教の戒律が綻んでいきました。しかし、朝鮮半島に肉食文化が定着することになる大きな転換は、1392年に朝鮮王朝時代になってからでした(日本では足利義満が第3代将軍となっていた室町時代)。
 朝鮮王朝はそれまでの仏教を国の精神的な柱としていた方向を捨てて、仏教と同様に中国から移入された儒教を国の教えとしました。その結果、仏教の戒律としてあった殺生禁止、肉食禁止がなくなりました。
 モンゴル人の肉食文化が朝鮮半島に入り込んですでに100年ほどが経過していたのと、儒教は「礼」を重んじ、日常生活での祖先崇拝、祭祀儀礼、冠婚葬祭などでの飲食が盛んに行われるようになったことで、さまざまな料理が作られるようになり、肉料理も積極的に取り入れられていきました。

 ただし、肉料理が解禁になったとはいえ、庶民が食べることができたのは特別な儀礼が行われるときで、日常的に口にできたのは貴族だけでした。その貴族が当時、考え出したのが「ノビアニ」(너비아니)という、牛肉を薄切りにして切り込みを入れ、味付けをして網で焼く料理でした。現在ではポリュラーな冷凍食品として人気があり、学生の弁当のおかずとしてもよく使われています。多くの韓国人に親しまれている料理の一つ「プルコギ」(불고기)の原型と言えます。

 このように韓国での肉食文化は700年間ほどの断絶のあと、今から600年ほど前から再び始まったと言えます。そして、少し意外かもしれませんが、日本の食生活にもすっかり入り込んでいる、目の前で肉などを焼きながら食べるおなじみの焼肉スタイルの歴史はそれほど長くありません。しかも、発祥地は日本なのです。もっとも、これには注釈をつけないといけないでしょう。

 まず私が言う「焼肉」とは、すでに述べたように、主に牛肉や豚肉やその内臓にタレをつけて、網などに乗せて直火で焼きながら食べるもので、ステーキ店での焼肉や陶板焼き、焼き鳥のような串焼き、野外でのバーベキューなどではありません。
 たとえ公には肉食は禁じられていたとはいえ、韓日の人びとはどの時代にあっても、肉を焼いて食べるというスタイルは古代からまちがいなくありました。長く肉食が禁じられていた日本ですら、山間部の日本人は鳥や猪などを捕って直火で焼いて食べていました。でも、それはあくまでも個別的なことで、一般庶民の食生活にまで浸透していたわけではありません。

 時代の動きが人間の生活に影響を与えることは歴史が証明していますが、日本が1910年に朝鮮半島を日本の領土としたときも例外ではありませんでした。
 朝鮮半島から多くの人が日本に移住するようになり、プルコギのような肉の食べ方が日本に伝えられました。最初に伝えられたのは大阪でしたが、1930年代の日本には、すでに朝鮮半島の食事を食べさせる朝鮮食堂があったため、それに加えて肉を焼いて食べさせる焼肉食堂が生まれ、やがてお客が自分で肉を焼くスタイルが取り入れられました。

 このように、現在の「焼肉」は日本に住んでいた朝鮮半島の人びとが生み出した食べ方で、それが朝鮮半島や満州地域(現在の中国東北部)に逆移入され、広められていきました。
 韓国ではかなり古い時代から現在のような焼肉が食べられていたと思っている人が日本では少なくないようですが、その歴史は実は短いのです。
 韓国に即して言えば、韓国人の生活に溶け込んだのは、1950年6月~1953年7月に起きた朝鮮戦争(韓国では「韓国戦争」「六二五戦争」と呼ぶ)後、貧しい生活の中で満足に食事を作ることができないときに、屋外で肉を焼いて食べたのが、現代の焼肉の始まりとなりました。

 こうして焼肉のスタイルが韓日両国の人びとの食生活に定着していきましたが、両国で異なる点がいくつかあります。
 日本では焼肉屋に入れば牛肉も豚肉も食べられますが、韓国はカルビやロースなどの牛焼肉専門店、サㇺギョㇷ゚サㇽ(삼겹살)やテジカㇽビ(돼지갈비)などの豚焼肉専門店というように、肉の種類によって異なります。また肉には基本的に味付けがされているのが韓国の焼肉で、日本のように焼いたあとにタレをつけて食べることはあまりしません。またサンチュに包み込んで豪快に食べるのが一般的です。さらにホルモン(内臓)を焼いて食べることは日本では珍しくありませんが、韓国も最近ではホルモンを提供する店もかなり多くなりました。

 このように、両国で焼肉料理の多少の違いはありますが、焼肉はやはり美味しいですから、私もこの文章を書きながら、食べたくなってきています。

 (大妻女子大学准教授)

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