【視点】
現代において「正義の戦争」・「戦争の正義」がありうるか
―ウクライナ戦争の停戦と紛争の平和解決を願って
初岡昌一郎
はじめに
― 男の国の言葉で
東の女が囁く
私の国もひとしく悪しき国
山崎佳代子(詩集「黙然をりて」)
京都新聞(6月21日朝刊)が、宇治市紫式部文学賞を最近受賞した山崎佳代子さんとのインタビューを掲載している。そのインタビューの末尾でウクライナ戦争について尋ねられた彼女は、その懸念を短い言葉でさりげなく答えている。「武器を取ればどちら側も罪のない人が亡くなる。どちらかが勝ったほうがよいというメディア論調が色濃い」と。
彼女はベオグラード在住の詩人。悲劇的なユーゴスラビア内戦の渦中にとどまり、一緒に長年暮らしてきた同じスラブ系民族同士の内戦が生み出した悲惨と葛藤にヒューマンな目を注いできた彼女の生活記録と詩は、読売新聞文学賞をはじめ国内外の賞を受けてきた。山崎佳代子さんの活動と人柄については、ドイツ在住の詩人四元康弘さんが個人的な交流を回想しながら、本年5月と6月の日経新聞朝刊日曜日の文化欄で数回にわたって紹介している。さらに付言しておくと、佳代子さんは「オルタの広場」5月号巻頭に掲載されたウクライナ戦争批判論の筆者、畏友山崎洋さんの夫人である。
山崎佳代子さんがインタビューでさらりと述べているその言葉は、少なくとも二つの面で戦争の本質にかかわる問題点を見事に指摘している。第一は戦争の直接かつ最大の被害者は開戦理由に関係のない一般市民であること、第二は戦争の目的や本質が当事者と支援勢力の意図的な宣伝工作やプロパガンダによって、報道と世論が「戦争文化」で色濃く染め上げられていることだ。戦争文化とは、「敵はクロ」、味方は「シロ」とする単純でわかりやすい論法によって、あることないことを突き混ぜた「大本営発表的な」虚偽情報を大量に流し、状況を味方に有利、敵に不利に展開させる心理的思想的な大規模な宣伝煽動を特徴としている。この情報戦はあらゆる現代戦で広範に駆使されてきた。現代の高度な情報技術によってその手法がますます磨き上げられ、情報操作による意図的な情報の配布はますます迅速、大規模かつ系統的に組織されている。その結果、軍備増強こそが国家安全保障のカギという意識が広く浸透し、交戦当事国以外の世界各国でもウクライナ戦争が自国の軍備拡充のためにフル利用されている。しかしながら、果たしてウクライナ戦争は正義の戦争として正当化しうるものなのか、そしてより根源的には国民・市民の生命を犠牲にしてまでも正当化できる、正義の戦争や戦争の正義が本当に存在しうるのかを根本的に問わねばならない時が来ている。現代戦争の本質と基本的な性格のいくつかの側面を取りあげて、この点を若干考察してみたい。
(1)現代戦争は総力戦で市民社会も戦場
時代小説や歴史書の中でロマンティックに描かれた過去の戦争や英雄たちの活躍も、最近の研究によって明白になっているように、非人間的な残虐行為や一般庶民の無残な犠牲を常に伴っていた。人間の生命と人権を最重要とする現代の価値観から過去の戦争をフィルターにかければ、これまで描かれてきたような牧歌的戦争像とは似ても非なる残虐な非人間的行為の実相が浮上する。まして、現代戦は単なる軍隊間のバトルではなく、総力戦として行われているので非戦闘員と戦闘員の区別は次第に無意味になってきている。
現代戦が総力戦ということが明白になったのは、20世紀における両次世界大戦を通じてであった。特に第二次世界大戦とそれ以後の戦争では、戦場において軍隊が相手の兵に勝つことにもまして、敵国の総体的な国力、特に相手国民の戦意を挫くことに戦略的な焦点がむけられてきた。ナチスによる対英戦でのロンドン空爆が一般国民の殺傷を戦争の主要なターゲットとする戦術の嚆矢例だった。しかし、それを拡大した規模で報復的に実行されたのがドイツと日本に対するアメリカの都市空爆である。それは[テロ爆撃](Terror Bombing)と名付けられ、「相手国民の戦争遂行意思と能力を喪失させる」ことを目的とした戦略の主要な実行手段として考案、実行された。 日本では絨毯爆撃とややソフトに呼ばれた都市爆撃は軍事施設と軍隊の破壊に限定されたものではなく、まさに都市住民に対する無差別攻撃であった。その後も、ベトナム、イラク、アフガニスタンにおける戦争でもこの戦術はスケールこそ異なっていても、一般国民の戦意を挫くために常套手段として広く用いられた。
ウクライナ戦争における都市攻撃と一般民衆殺戮も、ロシアの特殊残忍性を示すものというよりも、現代戦の普遍的な性質を具現したものに他ならない。民間人に無害で、ルールを守ったクリーンな戦争などというものは過去にも存在しなかったし、まして現代戦にそのようなことを求めること自体が欺瞞的で、対敵プロパガンダの一部だ。
あらゆる戦争に目的はあっても、ルールというものは無に等しい。勝利が目的と手段を正当化してきた。現代戦のルールは捕虜の処遇や赤十字活動を攻撃目標にしないことなど、若干の戦闘周辺領域を限定的対象にしているだけで、戦争・戦闘行為そのものを束縛するものではない。国際戦争と国際スポーツ試合はルールの面から見て全く異質なものであり、戦争にはいかなる意味でもフェアプレイや公正なジャッジは存在しない。
建前上は国連によって裁可された自衛目的の戦争以外に国際法上に合法の戦争はないはずであるが、国連システム自体がはらむ矛盾によって所期の効果はあげられず、今後も大して期待できない。人類にとっての根本的な課題は戦争を国際法による統制の対象とすることではなく、戦争自体の廃絶である。核兵器廃絶と核兵器の使用につながる危険を常に内包する国際戦争の廃絶こそが、国際的安全保障確立の根本的な目的でなければならない。
現代世界においては国家が唯一の戦争主体でなくなっていることも複雑な問題を加えている。テロに対する全面戦争が発動される契機になった2001年の同時多発テロ「9.11」が、ドラマティックにそれを提示した。だが、非国家主体によるテロ行為を国家間戦争と同列で論じるのは適切でない。非国家主体による暴力行使能力は、国家の有する軍事力とその破壊性に比較しうる水準のものではなく、本来は警察力によって効果的に対処しうるものである。
世界を震撼させたテロ、2001年9月のニューヨーク世界貿易センタービル爆破は「ヒロシマ」というコードネームによって犯人グループが計画、実行したものであった。それに対する過剰で見当違いの壮大な報復戦争開始にあたって、無視された不都合な真実は犯人たちが核兵器どころか、いかなる破壊兵器をも所持せずに相手国の飛行機をハイジャックし、それ自体を凶器に仕立てた点だ。実行犯は僅か刃渡り6センチのカミソリで武装していただけであった。犯人たちの知的なレベルと意思が、巨大国家の過剰な軍備と尊大な安全保障論、それを支える膨大な機構と要員をだしぬき、卓越する能力を持つと信じられたアメリカの諜報治安機関ですら感知しえなかったテロが計画、実行された事件である.そのコミカルともいえる軍事的な側面は、事件を新しい戦争開始に利用した政府がマスコミ報道によって白日にさらされたくなかった。調査報道を誇るアメリカのジャーナリズムとしても掘り下げが足りなかったのか、政府の情報戦に協力したのかは推測の域を出ない。テロ決行日のために選ばれた911という3桁ナンバーは、アメリカ人なら誰でも知っている緊急救援要請先電話番号。史上最悪と言われるテロ行為に慄然とすると同時に、犯人たちのブラックユーモアと批判のセンスに衝撃を受けた人は少なくないだろうが、「極悪非道なテロ」実行犯人の武装内容を知った人はほとんどなかった。
話を本筋に戻すが、非国家主体による戦闘行為は犯罪的な「テロ」で、国家による同様な行為は「正当な戦争行為」として、本質的に共通する武力行使と暴力を截然と区別することが果たして原理的に可能かつ正当化できるのか。国家間戦争において非戦闘員の一般市民に対して攻撃が容易に加えられるように、非国家軍事組織による「テロ」攻撃も民間人を巻き添えまたは標的にしている。これは言うまでもなく、軍事目標を攻撃するよりもはるかに実行上容易であり、非武装の民間人からは反撃を受ける可能性がないからだ。あらゆる軍事紛争において非軍事的な目標にたいする攻撃はますます拡大する傾向が顕著になっている。
民間人と非軍事的経済施設に対する軍事的破壊行動は、偶発的なものや一部悪質な兵隊による蛮行ではなく、現代国家のあらゆる正規軍による軍事戦略の不可欠かつ重要な部分を構成していることを強調しておきたい。この戦略戦術が、非国家主体による武装ゲリラ活動にも組み込まれていることは不思議なことではない。
(2)嘘と妄想が支配する戦争文化で染め上げられた世論誘導
ウクライナ戦争報道を理解するうえでも貴重な視角を与えてくれたのが、奇しくもその戦争勃発直前に日本語版が発行された『戦争の文化(上下)』(岩波書店)だ。著者のジョン・ダワーは日本留学の後、日本近現代史研究によってハーバード大で博士号を取得、現在はマサセチューセッツ工科大学(MIT)教授。最近は第二次世界大戦以後アメリカが関与した諸戦争の研究も手掛け、注目に値する論文を相次いで発表している。
日本研究者としての評価を彼が確立した『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001年)は、従来とは異なる研究手法で描かれた日本近現代史である。日本の一般民衆がどのように敗戦と占領を受容したかを生き生きとルポルタージュ的手法で描写しているので、引きこまれるように読める好著だ。オリジナリティ(先行研究に依存しない内容)があり、かつ読みやすい本は、日本の学界では決して学術書とみなされないものである。このような業績に博士号を授与し、トップクラス大学の招聘に値すると評価できる、アメリカのアカデミズムには脱帽する。
ダワーの新著はその冒頭で戦争文化の特徴を「嘘と妄想」と定義した上で、「政府が次々に嘘をつくのは聞き飽きた話だが、それがあらゆるレベルで広く受容されたというのはもっと説明が難しい」と指摘している。そして、「戦争についての政府の変化転々とする説明を唯々諾々とフォローしてきた議会とジャーナリズムの受動性をどう説明できるかに苦慮した」と述べている。
ダワーはまた、デモクラシーが「三権分立と独立した調査を行う自由なジャーナリズムによって保障される建前自体」も、”妄想”にすぎないのかとの疑問を投げかけている。これから後はダワーの疑問を引き継いで、筆者の考察を若干蛇足として付け加えるのだが、これを妄想視されなければ幸いだ。
かつて、第二次世界大戦中の功労者、ヨーロッパ戦線のヒーローとして共和党から大統領選に出馬、当選したアイゼンハワー元帥が、アメリカは「産業界と軍部の複合体(コンプレックス)によって支配されている」と発言して、騒然たる議論を巻き起こしたことがあった。だが、この軍事複合体に、「目下の同盟者としてマスコミと学者・評論家が加わっている」と指摘する声が昨今出ているが、これは奇異なことではない。
現代の戦争を総力戦と規定することの重要な政治的な側面は、国民と国民経済を守るための「安全保障」という響きの良い言葉に置き換えられた戦争準備体制に、あらゆる機会をとらえて一般市民をじわじわと組み込みこむことである。これは長期にわたる積み上げによって成果が生まれる。軍隊と軍備の拡充に並行して醸成される、一般市民の「軍事安全保障観」受容度が、軍事費拡大を受容させ、総力戦体制仕上げの基礎となる。防衛支出は防衛要員と軍隊の物理的な強化に充てられるだけではない。巨額で、実際には無駄な軍事費の負担を納税者に納得させることが必要となる。国民世論を先導する報道界や、オピニオンリーダー、教育関係者などから「仮想敵国にたいする軍事的防衛の必要性」という妄想に支持を得るために、継続的な働きかけと協力関係の拡大維持を図る努力も「防衛政策の不可欠な範囲」に入るとみなされている。科学技術関連の工学、医学やその他の自然科学領域だけではなく、国際関係論、情報・メディア論、心理学など、一見軍事に無縁な社会人文系の研究までも国防関連分野とみなされ、ペンタゴンによる選別された研究にたいして潤沢な資金供与がおこなわれてきた。日本においても、そのような施策が次第に効果を上げているように見受けられるが、軍事機密のベールで都合よく隠蔽されているので実態は不明。
ウクライナ戦争報道に登場するコメンテーターは、防衛省・外務省などの外郭団体や、政府与党・官公庁と近い関係にある民間シンクタンクの関係者が今や圧倒的な多数を占め、在野の学者・評論家・研究者には登場スペースがほとんど稀有になっている。しかも、それを不思議として批判する声すらもあまり聞こえてこない。ベトナム戦争はもちろん、比較的最近のイラク戦争やアフガニスタン戦争当時と比較してもこの翼賛的な報道評論傾向はまことに顕著である。
戦前のような露骨な規制や抑圧が横行しているとは思わないし、剝き出しの金銭的なインセンティブが与えられているとも考えないが、情報の入手や活躍の機会(政府審議会や公的な研究への参加と助成、公的に収集された情報へのアクセスなどの利益誘導)を含む、多様かつ広範な連携誘導のネットワークが長期的組織的に形成され、拡大されている。これは見間違うことのできない進行中のトレンドである。こうした大きな変化が、20世紀末期以後の国際環境の構造的な大変化(冷戦とイデオロギー対決の終結、それに代わって人類共通の最重要課題となった地球環境擁護と人間安全保障課題)に関係なく、仮想敵国と対峙する日米軍事同盟の目下のパートナーという国際的な立場の延長線上で、伝統的かつ狭い国益論的観点からだけで進められてきた。日本においては、ウクライナ戦争に対する見方もこの枠組みの中でとらえられており、主体的な判断と行動は、この視野狭窄を治療しない限り生まれない。
(3)停戦と和平の機が潜在的に拡大したウクライナ戦争
ウクライナ戦争は早くも4か月を超えており、本稿を書き始めた時
点では、戦争は膠着状態に入っているものの、停戦和平の動きは少なくともまだ表面化していない。しかし、一方の軍事的な勝利よって終戦する展望がゼロに等しい現状において、何らかの形で停戦するために和平交渉に移る以外の道はないことが次第に明白になってきた。
A)当事国の戦争疲れと厭戦感情の広がり
侵略側のロシアでは当初から国民の熱狂的な支持はなく、むしろ反戦の声さえ散見されてきた。これは共産党独裁下のソ連時代には考えられないことであり、権威主義的統制を効かせてきたプーチン支配下でも完全にコントロールできない「自由な政治空間」が社会にある程度存在していることを窺わせる。ロシア政府はこれは戦争ではないという立場を維持しているので、徴兵によって兵力を増強できず、しかも志願兵応募者は少なく、兵力補充に苦しむようになっている。 ウクライナも兵力を確保するために、16歳から60歳までの男子が国外に出ることを禁ずる措置を取らざるを得なくなっている。両国とも無理は限界を試すようになっている。
しかし、残念ながら交戦当事者両国の市民社会に和平のリードをとる条件が存在しているとは考えられないので、停戦のイニシアティブは国際的に出てくることを期待する以外にないようだ。ウクライナ戦争に触発されて、両国の歴史の中に対立の種を探ろうとする考察も散見されるが、この角度からは現下の戦争の主原因と解決法は見つからないだろう。過去の因縁に主原因を探る視点では、「存在するものには理由がある」という、亜流ヘーゲル的現状解説の域を抜け出せると思えない。
この戦争の契機はNATOの拡大をめぐる国際的要因が決定的なのものであり,その面から国際的なレベルで解決する努力が基本的に必要かつ不可欠となる。ロシアの侵略行動はいかなる意味においても容認できるものではないが、ウクライナに対するロシアの軍事行動がウクライナのNATO加盟を阻止する意図に触発されたものであることを踏まえておかなければならない。これが解決を探る出発点であり、またその解決の決着点となるだろう。「ウクライナ国内におけるロシア人の保護」も侵攻理由にあげられているが、これはヒトラーが「ドイツ人住民保護」を東欧侵略の理由にしたように、せいぜい副次的かつ弁解的な理由に過ぎない。
冷戦終結以後、アメリカ政府とNATOはそれに対抗的であった旧ワルシャワ機構の解体に対応する「平和の配当」で報いるどころか、逆に旧ワルシャワ条約加盟諸国の多くをNATOに取り込み拡大してきた。しかし、NATO側も軍事的展開がロシア国境を直接取り巻く形をとることだけには、最近に至るまでは慎重であった。それはロシアを不必要に刺激しないという考慮からみて、当然の政策であった。ウクライナの現政権がこの点を無視、少なくとも軽視してロシアとの対話抜きで挑発的にNATO加盟を進めようとしたことは、国際的な平和と安定の観点から見ると決して称賛に価することではない。それに対抗するロシアが唐突に旧来型の上から目線で軍事的懲罰行動に出たことが、アメリカ主導によるNATOの対ウクライナ軍事支援拡大へ向けて、タカ派路線を俄然活気づけてしまった。話し合いと交渉抜きの軍事行動に走った両国を交渉のテーブルにつかせるのは容易ではないが、決して不可能ではない。特に戦争の犠牲と厭戦気分が拡大するにつれ、和平の早期実現を望む声が交戦国内外双方で高まっていることからみて、そのチャンスが浮上している。
B)ウクライナ軍事支援にやや慎重になるNATOと一方の交戦国に加担しない圧倒的多数の国々
すでにアメリカだけでも日本の年間軍事予算を上回る軍事支援をウクライナに供与したのに、期待通りの成果にはほど遠いことが支援国における失望感を招いている。多大な犠牲と破壊で国民的苦難が拡大しているのに、戦争継続のためにさらに高度かつ高価な最新兵器を”more and more”と、供与要求をエスカレートしているウクライナ現政権をNATO諸国も持て余し始めている。さらには、アメリや西欧諸国の中にもウクライナの暴走が核兵器の使用、そして予期しない世界戦争を誘発する導火線になることに警戒心が高まってきた。
われわれが接する報道では、西側諸国の結束した支援の姿が強調され、その反面でロシアの国際的孤立の様子が浮き彫りにされている。しかし。世界全体の動きや国際機関内の状況をより仔細に見ると、かなり違った様相が映っる。ロシアの影響力が大きくないアジアだけを見ても、ウクライナの立場を日本と同じくほぼ無条件に支持し、NATOの軍事支援を公然と肯定している国は韓国ぐらいのもので、大多数の国は旗幟を鮮明にしていない。日本とアメリカが最近盛んに秋波を送ってきたインドは中立非同盟の立場を堅持、ウクライナに「非軍事物資」を届けようとする日本の自衛隊機が給油目的で着陸することさえ拒否している。G20首脳会議にロシアを招待から除外することを求める圧力には、ホスト国のインドネシアが公然とNOを表明した。中国はロシアの立場に理解を示している唯一の大国であるが、ウクライナの利益を直接に損なう行動に出ることは控えている。ただ、アメリカとの関係が悪化している現在、調停者としての中国の行動は制約されており、公然たる調停仲介には乗り出せそうにない。
非同盟諸国の結束は冷戦の解消によって役割を終え、グループとして既に存在しないが、個々の非同盟国がこの状況において果たす役割は潜在的にたかまっている。インド、インドネシア、それにNATO加盟国内でもトルコなどの自立的な立場を維持している諸国の出番が到来しているとみることもできる。こうした触媒の役割が双方の対話を促進できるならば、行き詰まりからの脱出が可能になりうる。しかし、早急な効果を期待できるよう具体的な動きは見られないし、事態を変化させるに足る意欲と力量には疑問符が付く。
C)停戦・和平解決のカギはアメリカの手中に
こう見てくると結局、平和的解決のカギは依然アメリカの手中に握られていると考察せざるを得ない。アメリカの同盟国である日本にも和解促進に向け一定の役割を果たす余地があるはずなのだが、今のところはそのような「自覚」の予兆が皆無と言わざるを得ない。日本政府と与党の目は、世界やウクライナよりも、自国の軍備拡大に集中しているからだ。この機会を天与の「タナボタ」と利用して、軍事大国という見果てぬ夢を再び追う勢力が、すっかり活気づいてしまった。軍備の飛躍的な拡大という自分の政治目的に利用しようと、現下の国際情勢にワルノリしているものが目立つ。
日本はアメリカの軍事同盟国になって以来、アメリカが行った戦争にある程度の距離を置きながらも、忠実な支持者の立ち場を一貫してとってきた。今回は、これまでにもまして前のめりとなっている。だが、ウクライナに寄せる「情け」は「人のためにあらず」だ。日本とそしてアジア諸国にとっての最大の危険は、ウクライナに対する支援行動から生ずるものではないが、それに便乗した日本の軍事予算と軍備の飛躍的増強にこそ潜んでいる。この歯車はひとたびギアが回り始めると、ウクライナ戦争が終結した後でも自律的にストップすることはない。軍事費GDP2%レベルに引き上げる方向で軍事予算の倍増を主張している勢力は、単なる軍備の量的な拡大ではなく、外国を先制攻撃できる能力を持つミサイルなど最新の高度攻撃兵器の保有を望んでいる。これは「専守防衛」から先手必勝型の「先制攻撃が最高の防衛」に国防体制へ、つまり束縛なく戦争ができる「普通の国家」に根本的に転換させるものである。この大転換は国内的に見て軽々と容認されとおもえないが、国際的にもすんなり受容されるものではない。
選挙の勝利に勢いづいて、アメリカが急旋回してロシアと和解する可能性を考慮に入れないで暴走すると、軍拡に免罪符を入手したつもりのタカ派は「ショック」に見舞われるかもしれない。日本の軍拡強行派が行き場を失う日は案外早く来る予感がする。歴史を振り返って見ると、機を見るに敏なうえに、過ちを改めるのに憚らないアメリカの転換と逃げ足はまことに早く、うかうかしている同盟国はしばしば置き去りにされてきた。他力本願の希望的観測に耽ることはここまでにしておきたいが、戦争と平和の問題に関して、アメリカ市民社会が持つ究極的なシビリアンコントロール力が議会と政府を、それを通じて国際情勢を動かしてきた歴史のケースが稀でないことに注意を喚起しておく。
政府与党の目論見通り、このまま軍備拡大と核武装の道を進むことが、仮にアジアや世界を脅すものでないと仮定しても、日本の将来をどす黒い暗雲で覆い、現在と将来の国民に取り返しのつかない被害をもたらすだろう。今までの誤った政策の帰結として既に明らかになっている、国力の急低下や巨額な債務の急膨張を間違いなく加速化させる。巨費を投じても、今の日本が軍事大国にとして再登場する可能性は皆無だ。国力低下が著しい日本が、軍拡や核武装による世界大国を目指すことこそ妄想の最たるものだ。ある中国の指導者が述べているように「日本の軍国化は嫌だが、恐れるものではない」と国際的には理解されたとしても、危険かつ無駄な巨額出費によって将来長期にわたり負担を背負う国民に莫大な債務のツケが回され、この選択に関与しない将来世代が最大の犠牲者となる。領土と国家の軍事的防衛を基本目的とする前時代的な軍事的安全保障思想は、現代の最大課題となっている人類全体の生命と生活の安全保障、さらには地球環境安全保障とは両立せず、それを逆に阻害する。
結びに代えて - 軍事的経済的な分断を越えてワン・ワールドへ
一方の交戦国の軍事的な勝利よってウクライナ戦争が終わる可能性は、核戦争と第三次(最終的世界戦争)の危険を冒さない限り(そしてその危険を冒したとしても)見えてこない。これまでに払われた多大な生命の犠牲、そして測ることのできない人間的な悲惨と苦悩は、この戦争の継続をもはや関係国にとってだけではなく、世界のすべての人々にとって正当化できないものにしている。即時停戦と紛争の平和的な解決こそが唯一の理性的解決法であり、犠牲をいとわない戦争継続は狂気の沙汰だと断言せざるを得ない。
ロシアの非道な行動に戦争しか有効な対抗手段がないと判断して、これを軍事的に支援することが最善と主張することは歴史を無視し、その教訓を学んでいないものだ。例えば、フィンランドはかつてロシアと勇敢闘いながら軍事的な勝利を断念し、領土の割譲と巨額な賠償に応じて停戦と中立化による和平に応じた。しかし、その後の臥薪嘗胆の時期に国民生活と国土の平和的な再建に目覚ましい成功を収めた。その時代に国民すべてを対象とする教育が最重要視され、フィンランドはその成果により世界トップクラスの教育水準を実現した。
もう一つの教訓は、チェコの近現代史から引き出せる。チェコは第二次世界大戦前段でナチスドイツに軍事占領され、戦後はソ連の軍事支配を受けるという大きな悲劇をさしたる軍事的な抵抗なしに受容せざるを得なかった。しかし、その後数世代にわたる犠牲と苦難を強いられたものの、平和的な道を通じて主権と繁栄を回復するのに成功した。1960年代中頃から始まった民主化「プラハの春」は、ロシアの軍事的な介入によって1968年に一旦は潰され、指導者たちは完全に追放された。この時も民主化勢力は軍事的な抵抗よりも、隠忍自重の道を選ぶ苦渋の選択をした。しかし、80年代後半のゴルバチョフ時代に開始されたペレストロイカ政策を背景に、チェコは再び東欧民主化と自主独立の旗手となった。民主化勢力はこの忍従と非戦和平を選択することで、結果的にみて国民の生命、美しい歴史的な街と国土をほとんど無傷で守りきった。 ロシアの事実上の軍事支配下に置いて武力抵抗を選ばず、自滅的な破壊と人命損失を回避したことは、より迂回的な道で犠牲を最小化する優れた状況判断であった。ただ誤解がないように付言しておくが、これらの例示はウクライナに追従を薦める意図によるものではない。和解的妥協的な和平解決が屈服と目的の放棄に必ずしも直結するのではなく、むしろ悲惨な犠牲を最小限にとどめ、しかもより効果的に目的を達成する可能性を生みうることを力説するためである。
ウクライナ戦争は、交戦国の双方に予期しなかった規模の損害と犠牲をもたらしているだけではなく、エネルギーと食料の安定的な供給を国際的にも切断したことで、世界的な危機を加速化している。特に、ウクライナとロシアはいずれも穀物の主要な供給国であり、戦争のさらなる継続が世界的食料危機を一層深化させつつある。これは、食料自給率が低く、そして経済的財政的に国外からの調達力の弱い開発途上国はもとより、先進工業国においても貧困層を飢餓に追い込み、低所得層の生活を破綻させる。その兆候はすでに顕在化しており、国連諸機関は深刻な世界的人道的危機の大規模な到来に警鐘を乱打している。
ウクライナ戦争を「正義の戦争」として軍事支援を続けるよりも、早期停戦に向かうよう積極的に努力するのがウクライナを支持している国々にとっても理性的かつ合理的な道である。この戦争に「正義」があるとみる人にとっても、戦闘の拡大が核兵器の使用を招く危険と戦争の長期化が新たな世界戦の勃発を誘発する可能性は容認できるものではない。
結論的に再度繰り返すが、現代において正義の戦争はあり得ないし、戦争の正義とは「妄想」にすぎない。現代の安全保障とは、軍備によって「国家」と「領土」を防衛することではなく、地球環境の保全と、人間の生命・生活を守る人間安全保障の確保こそがその目的の核心となっている。そのためには、軍事同盟よりも、異なる立場にある諸国間の平和共存を、さらには和解と国際協力を発展させて人類全体のワン・ワールドを目指すことが、持続的な地球と人類社会にとって不可欠、そして唯一最適な道である。市民自らが「妄想」から脱却し、市民社会の国境を越えた積極的な連帯によって、軍備増強と軍事同盟による安全保障という「妄想」から世界を解放しなければならない。我々高齢世代にとってこれは壮大にして見果てぬ「夢」となるかもしれないが、少なくとも「妄想」ではないと確信している。
(以上)