【国民は何を選んでいるのか】

国政選挙から読み解く日本人の意識構造(5)
現職首相の死が自民党を救った初の衆参同日選挙と「大平同情票」の行方

宇治 敏彦


 政治の世界には時々「まさか」という坂が出現する。小泉純一郎元首相は2007年9月、当時の安倍晋三首相が健康上の理由で代表質問の直前に辞任表明をした際、「人生には上り坂も下り坂もあるが、『まさか』もある」と感想を漏らした。その安倍首相による今年9月28日の臨時国会冒頭解散―「10・22」総選挙も、その「まさか」の例に入るだろう。特に野党側は「まさか所信表明演説と代表質問もすっ飛ばしての『いきなり解散』とは」と焦りの気持ちも含めて怒りをぶちまけた。

 ただ、戦後政治を振り返ってみると、もっともっと凄い「まさか」という急坂があった。
 国会で新しい内閣総理大臣を選ぶ首班指名選挙に与党・自民党から2人の有力幹部が出馬したケース。野党が提出した内閣不信任決議案に与党の一部議員が賛成して可決されたケース。それを受けて、時の総理大臣は辞任でなく国会解散を決断し、衆参同日選挙に発展したケース。そのダブル選挙の最中に指揮官の内閣総理大臣(自民党総裁)が急死したケース。首相の病死を悼んで自民党への同情票が集まり、結果的に自民党圧勝に終わったケース。

 以上の「まさか」は、いずれも争いごとを好まなかった大平正芳首相当時に起きた出来事である。1980年(昭和55年)5月30日、衆参同日選挙の先陣を切って第12回参院選が公示(衆院選公示は6月2日)され、大平首相は午前中、安井謙候補の事務所がある新宿で第一声をあげ、午後は横浜など4か所を遊説した。しかし、体調が万全でなく、昼食に立ち寄った自民党本部では、出された蕎麦にも手を付けず、汗びっしょりの姿に党本部の女性職員たちが只事ではないと感じていた。大平氏は、心臓に懸念があり、普段から森田実秘書官(娘婿。後に衆院議員、運輸相など歴任)は発作が起きた時の用意にニトログリセリンを持参していた。しかし、当日は生憎のことに森田氏は在京せず、後日、「私がそばに付いておれば」と悔やんでいた。

 大平氏は帰宅後、診察医にかかったが、「専門医による治療が必要」との判断が下った。しかしマスコミの目を避けるため東京・虎の門病院に入院したのは翌日未明のことだった。医師団は「狭心症で、少なくとも2週間の加療が必要」と発表した。政治家、特に首相クラスの病状は、政治的配慮が加わって軽めに公表されるケースが多く、大平氏が秘書官として仕えた池田勇人首相の喉頭がんの場合も、国立がんセンターの医師団と大平氏らが相談して「前がん症状」という造語で世間へのショックを和らげようとした。

 歴史はめぐって皮肉にも今度は大平氏の側近たちが「大平首相の病状は快方に向かっている。ベネチアでの先進国首脳会議(サミット)への出席も検討中」と誇大発表する事態になった。首相は急性心不全で6月12日未明に亡くなった。享年70歳。

 「急いで夕刊に評伝と大平政治の功罪を書いてくれ」。政治部長からの指示で執筆したのが「調和の政治 裏目に。55年体制崩壊の中での挫折」という一文である(同日の東京新聞夕刊)

 「大平首相は時代の“変わり目”を深く洞察していた数少ない政治家の一人だった。(中略)戦後政治の中で大平首相の政治理念は、日米安保体制―高度経済成長という吉田・池田路線の嫡子としてはぐくまれてきたが、昭和47年のドルショック、48年の石油ショックを契機に首相は『吉田路線』の限界を人一倍肌身に感じたに違いない。加えて、政治上の“盟友”田中角栄元首相が51年、ロッキード疑惑で逮捕され、“みそぎ”を主張して自ら“政治家廃業”の心境に傾いた時期もある。(中略)争いよりも平穏を志向した首相が、結果的には予算案の逆転可決(54年)、与党内からの2人の首班指名候補(同年)、内閣不信任案可決(55年)衆参同日選挙といった戦後混乱期を除けば極めて異例、異常な“裏目”の政治状況を生み出さざるを得なかったのは歴史の皮肉といわざるを得ない」

 40年近く経つ今日から振り返っても、自民党内の派閥抗争があんなに陰湿で、根が深い時期はなかったように思う。その発端は保守本流でない三木武夫氏が「椎名(副総裁)裁定」によって自民党立て直しの救世主に選ばれたことにあった。しかし時間が経つにつれて、福田派、大平派など保守本流派閥からは「いつまで三木にやらせておくのか」と不満が高まり、椎名氏も次第に「三木おろし」に傾いていく。派閥を超えた議員心理としても「国政選挙に勝てない総理総裁は支持できない」との空気が支配的になり、三木首相は解散権という伝家の宝刀を使えないままに、任期満了選挙に追い込まれた。第34回衆院選(1976年12月)で自民党が260議席以上の勝利を得ていれば、三木政権の継続も可能だったろう。現実には自民249議席で、8人を追加公認して過半数を維持したものの政権継続の余力はなく、総辞職に追い込まれて福田赳夫氏にバトンタッチした。

 その福田氏も「2年経ったら総裁を大平氏に譲る」という「大福密約」に反して1978年秋の自民党総裁選に出馬した。新たに導入された党員予備選挙に勝てるものと信じて「予備選の結論は本選挙でも尊重されるべきだ」と強気の態度に終始した。ところが田中派の全面的支持で全国の党員票を細かく拾い上げた大平陣営が予備選に大勝した。福田氏は自らの強気発言に縛られて身動きがとれなくなり、「天の声にも変な声はたまにある」との“迷言”を残して退陣した。

 後を引き受けた大平氏も総選挙できわどい経験をした。それが1979年10月の第35回衆院選で、当初は「財政再建のための一般消費税の導入」を掲げたが、塩崎潤氏など身内の与党議員からも増税反対の声があがり、大平首相は総選挙公示後、増税を口にしなくなった。しかも国会解散直後に特殊法人・日本鉄道建設公団が組織的なカラ出張で浮かした金をヤミ給与に充てていた不祥事が発覚し、有権者の間には「公費の無駄遣いこそ問題で、何が一般消費税だ」と増税反対ムードが高まっていった。

 10月7日投票日は天候が悪かったこともあり、投票率が前回より約10%ダウンした。選挙結果は自民248議席と前回の三木首相の時よりさらに1議席少なかった。ここから「40日抗争」が火を噴いた。ヤマ場は選挙から10日後の10月17日に行われた福田赳夫前首相との「大福会談」だった。主なやり取りを取材メモから再現する。

 福田氏 「総選挙結果を踏まえ、国民に分かりやすい処置をとるべきだ」
 大平首相 「それは私に辞めろということか」
 福田氏 「恐れおおい事だが」
 首相 「辞めろというのは、私に責任を放棄しろ、死ねということになる。党の機関で決着を着けたい」
 福田氏 「それは、どうかな。自ら決断すべきだ」

 物別れに終わった会談の後、大平首相は首相官邸に戻って加藤紘一官房副長官と昼食を共にした。その時のやり取りを後日、筆者は加藤氏から直接聞いた。

 「食事中におとうちゃん(大平氏の愛称)が『俺が辞めたら、次に誰がやるんだ。加藤、お前の考えを言ってみろ』と迫ってきた。そんな恐ろしいこと、言えるものでもないから頭を下げて黙っていた。すると、おとうちゃんは『灘尾(弘吉衆院議長。椎名悦三郎、前尾繁三郎両氏と並んで政界3賢人といわれた政治家の一人。ちなみに加藤夫妻の仲人)かなあ』と言ったりして、しばらく考えていたが、『俺が辞めたら、後はやっぱり福田(前首相)しかいないか』とつぶやいた。これには本当にびっくりした。ついさっき喧嘩別れしてきた福田氏を推すなんて」

 私だけでなく当時の大平派担当記者たちは一様にびっくりした。「俺に死ねということか」という、日頃の穏健さからかけ離れた激しい表現や、その裏返しのように「やっぱり福田しかいないか」と最大のライバルを有力後継に想定する頭の構造は、一体どうなっているのか。

 結局、大平氏は西村英一副総裁に「総裁の進退を含む責任問題の処理」を一任した。しかし、福田、三木、中曽根氏らは反対し、10月中には「次期首相」問題はけりがつかなかった。11月になっても政局の混迷は続き、野党も巻き込んでの政局になった。首相指名候補をめぐる与党内の一本化調整は結局まとまらず、同6日の衆院本会議には自民党から大平首相と福田前首相が立候補という前代未聞の事態を招来した。「まさか」も「まさか」、断崖絶壁の坂であった。

 結果は、▽大平正芳 135票 ▽福田赳夫 125票 ▽飛鳥田一雄(社会党委員長) 107票(以下略)で、過半数に達する候補はなく、午後の決選投票に持ち込まれた。この時点で福田氏が降りるという事態も理論的にはあり得たが、福田派、三木派など反主流派が納得しないほどに与党亀裂の溝は深かった。午後2時20分から再開された本会議では野党は無効票を投じ、結局、▽大平 138票 ▽福田 121票で、大平首相の続投が決した。

 しかし、さらに続編があったのだ。福田派、三木派ら反主流は「幹事長は総裁派閥から出さない」ように主張し、組閣から一週間後の16日に桜内義雄幹事長(中曽根派)、鈴木善幸総務会長(大平派)、安倍晋太郎政調会長(福田派)という党三役人事で、ようやく決着をみた。10月17日の大福会談から数えて実に40日間を要したことから俗に「40日抗争」と呼ばれるようになった。

 自民党内に常識派が多数なら、ここで政局は平静さを取り戻すところだが、年が改まると再び反主流派の「反大平」工作が活発化した。赤城宗徳(三木派)、中野四郎(福田派)、中尾栄一(中曽根派)、石原慎太郎(中川一郎グループ)各氏らが自民党刷新連盟を結成し、ラスベガスで大規模賭博をした浜田幸一代議士の証人喚問要求や国際電信電話会社(KDD)の巨額交際費問題などで、野党に歩調を合わせ大平政権に揺さぶりをかけた。その最後の決め手が5月16日の衆院本会議における大平内閣不信任決議案だった。
 反大平グループの中で中曽根康弘氏は本会議に出席し不信任案に反対票を投じたが、与党反主流派の欠席作戦が功を奏して不信任決議案は賛成243票、反対187票で可決された。「なれあい解散」(1948年12月)、「バカヤロー解散」(1953年3月)以来の戦後3回目の内閣不信任可決だった。衆院は19日に解散、6月22日投票の衆参同日選挙に向けて走り出した。選挙史上、初めてのケースである。

 「まさか」はさらに続く。冒頭に書いた大平首相の死去(6月12日)とダブル選での自民圧勝(同22日)だ。特に衆院では自民党が前回比36議席も増やした。
 衆院選では、▽自民284 ▽社会107 ▽公明33 ▽民社32 ▽共産29 ▽新自由クラブ12 ▽社民連3 ▽無所属11
 参院選では、▽自民69 ▽社会22 ▽公明12 ▽共産7 ▽民社6 ▽諸派2 ▽無所属8
          ▼          ▼          ▼

 どのくらい自民党の勝ち方が凄かったかを具体的数字で検証してみよう。衆院における同党当選者284議席が全候補者(310人)に対する当選率は91.6%で過去最高(それまでは1967年1月の第31回衆院選での87.8%)。全国130選挙区のうち111選挙区で自民党候補がトップ当選。

 参院での当選率も地方区88.9%、全国区91.3%と驚異的だ。有権者総数に対する得票の割合を「絶対得票率」というが、地方区では30.3%と、前回参院選(1977年)を4.2%上回った。全国区の絶対得票率も29.3%と前回の23.2%を大きく上回った。

 個人候補別に検証すると、死去した大平首相に代わって急遽出馬した森田一氏(首相秘書官、自民、香川2区)は15万1,546票と大平氏の前回票を2万4,656票も上回る大量得票だった。田中六助・前官房長官(福岡4区)は5万2,947票増、伊東正義・臨時首相代理(福島2区)は3万6,789票増、加藤紘一・官房副長官(山形2区)は3万4,424票増などと大平派の面々は軒並み票を大きく伸ばした。逆に反主流派では首班指名選挙の欠席作戦に出た福家俊一氏(福田派、香川1区)や稲葉修氏(中曽根派、新潟2区)らが落選したほか、赤城宗徳・元農相(三木派、茨城3区)が前回比1万8,113票減など得票を減らすのが目立った。

 こうして見ると、国政選挙における投票行動が、いかに「理」でなく「情」によって左右されているが分かってくる。事前には「社公民の連合政権構想」を打ち出していた野党側では、社会党書記長の多賀谷真稔氏(福岡2区)が落選したのをはじめ退潮傾向が目立った。当時の不破哲三共産党書記長は、記者会見などで敗因について「大平首相死去に伴って自民党が人情論で布陣し、野党側は自民党路線への批判を欠く連合論を繰り返したことが原因だ」と語っている。

 当時から政治学者の間では「計量政治学」が流行りだし、マスコミも選挙学会の学者たちとタイアップして選挙予測や結果分析に力を入れ始めていた。東京新聞の場合は慶応大学の堀江研究室(堀江湛教授=当時)とタイアップして衆参同日選挙中に全国有数の激戦区・東京3区(目黒、世田谷)を対象に約720人の面接調査を行った。一般的な世論調査と違って対象者を前年10月の総選挙と同一人物にして、意識の変化を探ったのである。

 その結果、「東京3区で投票率が前回より16%アップしたが、その大半が自民党と新自由クラブに流れた」「特に無党派層の票は3分の1以上が自民候補に回った」「大平首相死去への同情票は約15%と推定された」(1980年6月23日朝刊掲載)ことなどが明らかになった。

 当時、筆者は読売新聞の世論調査室長をしていた加藤博久氏(後に大阪読売社長・会長。故人)と個人的に親しくしていたが、彼が同社のデータを中心にしてまとめた『衆参同日選挙の分析』(1980年、政治広報センター)という著作がある。この中で興味深いデータは、「衆院選」「参院選地方区」「参院選全国区」という3つの投票行動で「一貫して同じ党派の候補に投票したと答えた人」のパーセンテージである。「自民党」が43.2%と断トツで、以下「社会党」10.3%、「共産党」3.3%、「公明党」2.6%、「民社党」2.1%、「新自由クラブ」0.1%。「自民党」に次いで多かったのは「政党を変更した」38.4%だった。これも「大平同情票」が自民圧勝の要因だったことを裏付ける数値といえよう。

 政治学者の間には「衆議院、参議院という2院制の意味が薄れる」として衆参ダブル選挙の実施には批判的な意見もある。その一方で自民党内では1980年のダブル選勝利に味をしめて「夢よ、もう一度」と、その時期を虎視眈々と狙っていた政治家がいた。

 (東京新聞相談役)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧