【沖縄の地鳴り・追悼】
生涯を「平和」に捧げる
―大田昌秀元沖縄県知事逝く
6月12日、92歳の誕生日に逝去された元沖縄県知事・大田昌秀さん。凄惨な戦争体験から滲み出た平和への志と、生涯をかけて「日本にとって沖縄とはなにか」を問い続けた、類ない存在だった。
大田さんの訃報が、またたく間に広く海外にまで伝わった反響の大きさに、学者、政治家としての軌跡と、計り知れぬ影響力、発信力を、あらためて実感した。たぶん、沖縄を代表する歴史上の人物として、戦後史に色濃く刻まれていくはずだ。
大学教授の大田さんは、1990年11月の知事選で当選以来、2期8年間、県政のトップリーダーとなった。喫緊の課題は、過重な米軍基地をどう整理縮小し、負担軽減を実現していくかで、在任中、心血を注ぐ連続だった。
強固な安保体制の下で、微動だにしない日米政府に真正面から対峙し、その厚い壁に風穴を開けて、海兵隊普天間基地開放への道筋をつけたのは大田さんである。
ところが、大田さんの意に反し、辺野古新基地をめぐって、20年余も国と県の相容れない対立が続き、海兵隊輸送機オスプレイの常駐化で、普天間基地返還のメドさえ立っていない。膠着状態が続くなか、図らずも大田さんの意思は、20年後の今、「オール沖縄」を標榜する翁長知事に継承された。「辺野古に新基地は造らせない」との決意に、民意が集約されている。
1998年2月6日、大田さんは県の方針として正式に海上基地反対を表明した。そこで「安保条約が重要というなら、全国民がその重要性を認識し、責任を負うべきだ」とのコメントを発し、政府や国民に問いかけた。
翁長知事も、ことあるたびに同じ趣旨の発言を繰り返しており、沖縄基地問題の根底で、大田さんとの共通認識に立つことになった、と解したい。
基地をめぐる大田県政の道のりは、一筋縄ではなく、波乱の連続だった。国と自治体の関係は、通常では対決の構図ではないはずなのに、なぜ沖縄だけで日常化するのか。それは、過重な基地の存在に帰結する。
県知事として、大田さんが窮地に立たされたことが何度かあった。政府の懐柔策、分断、圧力など、あの手この手の工作で、意に反し、米軍基地強制使用の公示縦覧の代行や海上ヘリ基地調査の受け入れに一時追い込まれた時だ。支持団体や陣営内からも批判や抗議の声が浴びせられ、板ばさみの事態となった。
大田さんが、政府の重圧をはねのけ、反基地を明確に打ち出す契機となったのは、95年9月に発生した米兵による痛ましい少女暴行事件である。ついに大田さんは、米軍基地使用代理署名の拒否を国に突き付けた。
これをめぐって、国と県が真正面から裁判で争う異例の事態に発展したのである。96年8月、この代理署名訴訟で、最高裁は県の上告を棄却。県の敗訴となり、理不尽な国の厚い壁は破れなかった。
さらに大田さんは、97年12月の名護市民投票で、海上基地反対が過半数を占めたのを受け、98年2月、正式に海上基地反対を表明。20年余にわたる国との抜き差しならぬ対立の起点となった。
98年11月の知事選で、大田さんは3選を目指して出馬した。折からの経済不振の逆風のさなか、政府、地元保守、公明党ぐるみの「県政不況」のバッシングにあい、あえなく敗れた。この時点で県政の柱として大田さんが掲げた「沖縄米軍基地返還アクションプログラム」も立ち消えになった。
大田さんの超人的ともいえる豊富な論考や行動のバックボーンは長年、大学教授として新聞学(ジャーナリズム論)を講じ、広い視野で自由と公正を探究したこと。さらに、終生のテーマとして、沖縄戦を中心に平和学に徹したことであろう。
去る沖縄戦で、県立師範学校の学徒として戦場に駆り出され、学友の多くを戦火で失った。自らは九死に一生を得たが、悲惨な戦争体験が身に染み付き、大田さんの思想の原点になっている。「軍隊は住民を守らない」が口癖だった。
80冊を超える著書。論文やエッセイを加えると数えきれない。この旺盛なエネルギーと学識には、誰もが驚嘆した。著作の多くは、戦争と平和がテーマで、その発信力は国内、国際的にもずば抜けており、影響力の大きさが伺える。
大田さんの県知事時代の最大の功績は、1996年6月、沖縄戦終焉の地・摩文仁に「平和の礎」を建立したことだ。沖縄県民の犠牲者だけではなく、全国の将兵、民間人、韓国、台湾など外国人戦没者、戦勝国のアメリカ軍人、国連加盟国兵士など、分け隔てなく沖縄戦に関わる24万余の戦死者が銘記されている。大田さんの平和への思いがにじみ出た永遠の記念碑なのだ。
大田さんは政界を引退後、13年6月にNPO法人「沖縄国際平和研究所」を設立。ここを生涯の足場とした。そこには、大田さんが長年をかけて収集した貴重な戦争、平和に関する膨大な資料や公文書、書籍、映像、写真、ネガなどが収蔵されている。沖縄戦、ホロコーストなどのパネルも一部展示公開され、平和教育を担った。
大田さんが逝去し、戦争実体験者もやがていなくなる。これからどう次世代に戦争を語り継いでいけばいいのか。大田さんから教えてもらいたいことは、まだまだ山ほどあった。
(元沖縄タイムス編集局長)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ/掲載号トップ /直前のページへ戻る/ページのトップ/バックナンバー/ 執筆者一覧