【アフリカ大湖地域の雑草たち】

生涯感謝している―アフリカ大湖地域の雑草たち(23)

大賀 敏子

本稿は、コンゴ動乱についての先行する三稿『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)(18)(19)(21)(22)(それぞれオルタ広場2022年5月号6月号7月号9月号10月号掲載)』の続きである。

ベルギー人のおかげ

 ナイロビのガソリンスタンドで、男性従業員が給油しながら「あなた日本人ですか?」と尋ねた。そうだと答えると、「アリガトウ」「日本人には生涯感謝している」と言う。
 典型的な「貧乏人の子だくさん」でシングルマザーの家庭だった。ひもじかった。雑用をして身銭を得たり、ときには盗んだりして、とにかく空腹を満たしたかったから、学校どころではなかった。そんなとき一人の日本人男性教師が着任した。先生も大人たちも大嫌いだったが、この先生のことは好きで、おかげで通学できるようになった。「あの先生は私を完全に生まれ変わらせてくれた」
 つい顔がほころんでしまうような美談だ。JICA海外協力隊の功績だろう。
 さて、1960年独立当初のコンゴ(いまのコンゴ民主共和国)について調べていると、「ベルギー人には生涯感謝している」というコンゴ人が、少なからずいたのではないかという気がしてくることがある。
 独立に先立つ80年間のベルギー統治は、確かに人種差別と残忍さに満ちていた(オルタ広場2022年6月号拙稿)。しかし、なかには様々なケースがあったのではないか。ベルギーのおかげで、行けるはずのなかった学校に行けた、車の運転を覚えた、抗生物質をもらって子供の命を救えた、など。

ベルギー人帰還
 
 国連(ONUC)がコンゴに介入したきっかけは、ベルギー軍がカタンガ州に侵攻し、同州(チョンべ政権)が分離独立を宣言した(7月11日)ことだ。国連安保理は、コンゴの領土と統一をまもれと、ベルギー軍の完全撤退を求めた(7月14日、7月22日、8月9日決議)。
 これを受けベルギー軍は順次撤退し、10月にはコンゴ全土から完全に撤退した。ただしこれは「レギュラー軍(regular Belgium troops)」であり、「ベルギー人」では必ずしもない。それどころか同じ10月ころ、ベルギー人たちは着々とコンゴに帰還してきた。一時避難していた人たちだ。
 独立(6月30日)の祝賀行事が終わるか終わらぬかのうち、あちこちの主要都市で暴動が起きた。独立さえすればすぐ暮らしが良くなると、素朴だが単純すぎる期待を抱き、それが裏切られたと感じた人たちは、ベルギー人をはじめとするヨーロッパ人をねらい撃ちにした。パニックのなかでヨーロッパ人の多くが、コンゴ河対岸のブラザビル(ブラザビル・コンゴ)や北ローデシア(英領、今のザンビア)に逃れた。その彼らが戻ってきた。
 なぜか。あきらめきれない利権のためだと言われるが、それだけだろうか。コンゴのためであり、またコンゴ人たちもそれを望んだという面はなかっただろうか。

ベルギー人アドバイザー

 たとえば行政府には、ベルギー人アドバイザーが必要だった。
 首都レオポードビル(今のキンシャサ)では委員会内閣が行政実務を担当していた。カサブブ大統領とルムンバ首相が互いに罷免しあう(9月5日)混乱のなか、モブツ陸軍参謀長がクーデター(9月14日)で全権を掌握したうえ、内閣を指名し(9月20日)、大統領がこれに形式的ながら承認を与えた(1961年2月まで)。首相は失脚したままである。
 委員会内閣は、いわゆる「高級官僚の卵」たちで構成され、多くは20代の学生だった。一国の行政運営を担うにはあまりに頼りなかったが、勉強熱心でアドバイスを真剣に聴いたという。
 「若い閣僚たちは、いつも多くのベルギー人顧問を従えていた。なかには、かつての恩師を登用する者もいた」「この結果、国連の専門家と協力するより、自分たちのメンターの言うことに傾聴」した。これは事務総長特別代表の報告の一部だが、国連の仕事が進めにくかったとのことだ。
 国軍と警察もベルギー人を必要としていた。武器や機械の扱い方や、組織運営の方法を伝授してもらわねばならない。エリートが選別されベルギーでの研修に出されたほか、ベルギー人専門家が来て技術研修に当たった。
 モブツ参謀長(独立当時ほぼ30歳)は、後に再度クーデターを起こし30年以上コンゴを統治した(1965-1997年)。経歴を見ると、もともとはルムンバの腹心で、わずかながらベルギー滞在経験がありブリュッセルとチャンネルを持っていたようである。

ユニオン・ミニエール社

 ベルギー人の役割はカタンガ州で顕著だった。鉱山会社ユニオン・ミニエール社(the Union Minière du Haut Katanga (UMHK))のためだ(ベルギー・イギリス合弁で、操業は1906-1966年)。
 同社は1960年当時、銅、コバルトなどの世界市場で圧倒的なシェアをもち、コンゴ政府予算の3分の1(ほぼ2分の1という情報もある)は同社の納税でまかなわれた。およそ20000人を雇用したほか、9のタウン(労働者の社宅群)、4基の水力発電所、6つの病院と多くの学校、鉄道(北ローデシア線、アンゴラ線(ベンゲラ鉄道))を持っていた。
 第二次大戦中、原爆製造のためのマンハッタン計画が進められた。カタンガのウランは良質、かつ、圧倒的な埋蔵量があり、米英はこれを「好ましからざる者の手」に渡してはならぬと、全埋蔵量を買い取ることを考えた。ルーズベルト大統領とチャーチル首相の勅使が交渉した相手が、ベルギー政府とともに、ユニオン・ミニエール社代表(Edgar Sengier)だった(US Department of Energy-Office of History and Heritage Resources)。
 カタンガの分離独立を指導したモイゼ・チョンべは、癒着と利権で批判の的になった。ユニオン・ミニエールであれ、西側諸国であれ、傭兵・武器商人であれ、ときの強者にばかりいい顔をしていると。
 しかし考えてみるとどうだろう。ベルギー人がいなくなると、人々は失職し、家を失い、医者にかかれず、電気が止まり、子供は勉強を続けられない。チョンべは確かに自分の懐の心配もしただろうが、常識的な指導者であれば、庶民の生活が破壊されることをみすみす容認できただろうか。ましてや、ユニオン・ミニエールという強い味方がいたのだから、国連安保理にもルムンバ政権にもひるむ理由はないと考えてもおかしくはない。
 なおチョンべは、後にコンゴ中央政府の首相になった(1964年6月-1965年10月)。

ベルギー人をどう活用したらいいのか

 ユニオン・ミニエール社のベルギー人職員(約2000人、家族を含めると数千人)が避難したときについて、こんな記録がある。ベルギー人技術者に代わって、ごく短期間だがベルギー人のカトリック神父がコンゴ人従業員を指揮監督して操業を続けたという。この神父に専門技術があったのではなく、機械室や事務所の鍵束を任されたというようなことであろう。
 ONUCは軍事のみならず、医療、教育、財務、公共事業など民生部門を柱にしていた。多くの専門家を送り込むなかで、事務総長以下ONUC職員たちは、この無視できないベルギー人たちをどう活用したらいいのかと、頭を抱えたようである。この神父の事例は極端かもしれないが、ニューヨークの会議室での評価と現場の判断は、必ずしも一致するわけではない。
 この後もルムンバ首相殺害(1961年1月)、ONUCとカタンガ州の武力衝突(1961年9月)など大きな出来事が続いた。いつも必ずと言っていいほど、ベルギー人―それは傭兵であれビジネスマンであれ―がどこかに関与し、陰に日向にコンゴに影響を与え続けていた。

人の心のヒダ

 ヨーロッパ人植民者とアフリカ人の関係は、思いのほか深く複雑だ。たとえば、筆者の知るある老齢のケニア人は、イギリス紅茶の会社で運転手をしていた。イギリス人のことを好きなわけではないが、彼らがいなかったら、まったく異なる人生を歩んでいただろうという。
 独立当時のコンゴ人にとって、ユニオン・ミニエール社とは祖父、曾祖父からの関係だ。生まれたときから、ずうっとその煙突を見てきた。一方、少なからぬヨーロッパ人が現地で生まれた。おむつを替えてくれたのはメイドのコンゴ人女性だっただろう。大人の見ていないところで、アフリカ人の子供と一緒に泥だらけになって遊んだ記憶もあるかもしれない。このような関係は、数週間前に地球の裏側からやって来た国連チームが、とって代われるものではないだろう。
 このシリーズの初稿にこう書いた。「国連によるコンゴへの大規模な介入は、東西冷戦の脈絡で振り返られることが多い。しかし、もともとは、脱植民地、独立国の主権と領土保全、国民国家づくりといった、人類全体の大きなゴールあってのことだった」(2022年5月号拙稿)
 さらに、人種・民族の平等、人権と尊厳、国家主権、民主主義、国際平和も加えることができる。いずれも力を合わせて希求していくに値する理念であり、政策目標だ。
 しかしである。出来事を動かすのは人である。そして人の心のヒダは、理念と国際法と理屈だけでは、必ずしもいつも説明できるとはかぎらない。

画像の説明
パトリス・ルムンバ首相

画像の説明
モブツ・セセ・セコ大統領・モイゼ・チョンべ・カタンガの指導者

ライター・ナイロビ在住

(2022.11.20)
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