【コラム】
『論語』のわき道(7)

生苦(しょうく)

竹本 泰則

 「一切皆苦」―何もかもがすべて「苦」である―という理念が仏教の基本の一つだという。始祖・釈尊は人生を苦の世界と捉える。その具体的な姿として生(しょう)・老・病・死の四苦が示され、さらに別に四つの苦が加わって八苦となる。愚痴の身ながら、それら一つ一つには共感するところがある。しかし人生のすべてを苦と決めつけられるといささかたじろぐ。
 インド哲学 ・仏教学者の中村元は、 釈尊がいう苦とは 「自己の欲するがままにならぬこと」、「自己の希望に副わぬこと」をいい、必ずしも生理的な苦痛、あるいは心理的な苦悩のみを意味しているのではないと解説している。このようにいわれると少しホッとする。

 中国の古典『論語』には「苦」という文字は出てこない。
 意味から考えて、この字がくさかんむりから構成されているというのも妙な気がする。辞書を開くと、元々は植物の呼び名に当てられた字だった。その味からにがいというような意味に使われ、それが後にくるしいという風に転じたらしい。
 『論語』が書かれた時代はこの字をどのような意味に使っていたか知らないが、『論語』の中でくるしいと訓読みされる字は「困」だ。

  「 困 」 が現れるのは全体でおよそ五百章の内の三章。しかもそのうちの一章は伝説上の皇帝・堯、舜の言葉として記されているものの中にあるので、実質的には二章といっていいだろう。思った以上に少ない。
 その二章のうち一つでは、難なくできることを孔子がいくつか列挙しているが、その中の「酒困(しゅこん)を為(な)さず」という句に見える。悪酔い、あるいは二日酔いの苦しさなどを困で表しているようだ。
 もう一つは次の文句。

  生まれながらにしてこれを知る者は上なり。
  学びてこれを知る者は次なり。
  困(くるし)みてこれを学ぶはまたその次なり。
  困みて学ばざる、民これを下となす。

 読み下し文のままで大意はつかめる。最後の句にはいきなり「民」が出てくるために一瞬戸惑うが、それにとらわれず「苦しんだ末でも学ぼうとしない輩、これが最低だ」という風に解釈していいようだ。

 くるしみは『論語』において重要なテーマとして扱われていないし、その内容も仏教思想のように深刻な響きを持たない。
 加持伸行という学者によれば、「中国人は、この世を楽しいところと考えた。ここがインド人と決定的に異なる」のだそうだ。さらには『論語』は「苦」でなく「楽」の世界である、冒頭からして「学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや」ではないかとも述べている。

 「楽」の字音は単一ではなく「ラク」と読めばたのしいの意だが、「ガク」は音楽の意味になる。『論語』の中でたのしいという意味の「楽」が出現する章の数を数えてみると十三章ある。苦に比べれば確かに多い。
 たとえばこんなものがある。

  疏食(そし)を飯(くら)い水を飮み、肱(ひじ)を曲げて枕とす。楽しみまたその中にあり
  ―粗末な物を食べ、飲み物は白湯(さゆ)か水ですます。寝るときは肘を枕にする。
   こんな暮らしの中にもまた楽しみはあるものだ―

 恵まれぬ状況下にあっても厭世を感じるより楽しみを思う、そのようにとれなくもない。『論語』に手放しの楽天主義が横溢しているわけではないが、端々には生に対するポジティヴな空気が感じられる。
 この世を楽しいと考えるならば、寿命が長いことはことさら望ましいものとなる。仙人・仙女の伝説は古代中国の産物であるし、秦の始皇帝をはじめ多くの皇帝が不老長寿の秘薬を求めたと伝わる。
 享受している生そのものを苦と捉える思想は古代の中国にはなさそうだ。

 かねてから四苦の一つに数えられている「生(しょう)」は誕生を指すのか、生きることをいっているのか、あるいは両方を包含するものなのか分らずに悩んでいる。特段悩むような問題ではなかろうが、時たまこのことが頭をもたげると落ち着かぬ気分になる。仏教経典の中には産道を通る際の苦痛を説くものもあると聞くが、釈尊とてその時に味わった苦痛を記憶していたとは想像しにくい。矛盾・不合理に満ちた現実世界を生きる苦しみにとる方がしっくりする、そんな風に感じていた。

 このごろ子どもへの虐待がしばしば報じられる。少し前のことになるが当時五歳の男児がアパートに放置され、死後七年も経ってから見つかったという事例があった。この子と一緒に暮らしていた父親はある女性に出会って以来、次第に我が子の世話を怠るようになっていったらしい。部屋に閉じ込められたまま放っておかれて子どもは衰弱が進んだ。それでもたまに現れる男に向かって力ない声で「パパ、パパ」と呼ぶことがあったとその男は取り調べの場で述懐したという。
 また、別の事例では餓死した赤子の遺体を解剖したところ体内に化学繊維が未消化のままで残っており、検視に当たった医師がひもじさの余りおむつみたいなものまで食べたものかもしれないとコメントした例なども思い浮かぶ。
 今も幼児が犠牲となる事件は絶えない。

 この種の事案はマスコミが積極的に取り上げる傾向があり、またその陰湿さ、悲惨さゆえに印象も強く、虐待の件数が増えているのではないかという漠然とした怖れまでを感じる。ちなみに平成二十九年度(2017年4月~2018年3月)に虐待が原因で死亡した子どもは65人を数える。これを自分たちが子どもであった時代と比較しようとしても対象となる数字がない。犯罪等の被害者として死亡した子どもの数を調べることは可能だろうが、その内訳として虐待による数字だけを分別することはできない。虐待はそれが犯罪だという社会的認識があって初めて独立した区分として取り扱われる。このためくだんのデータなどは「児童虐待の防止に関する法律」ができた平成十二年前後からしかわからない。

 自分が子どもであった頃には、「捨て子」や「間引き」といった言葉はまだ完全には死語となっていなかった し、「人さらいにさらわれるぞ」という脅し文句も十分現実味をもっていた。さらに「折檻(せっかん)」という言葉も普通に大人の口にのぼっていたように思う。あれこれ考え合わせると、子どもの虐待事例もその犠牲者も間違いなく昔の方が今より多かったにちがいない。むしろ時をさかのぼるほど酷い状況であったのではないかとも思う。

 ユニセフが「世界子ども白書」というレポートを発表している。2017年版でみると、五歳の誕生日を迎えられずに死んでいった子どもの数は一日当たりおよそ一万五千人にのぼる。一分間に十人の子ども(五歳未満児)が死んでいる。ユニセフが訴えているが、泥水を飲まずに済むよう普通の飲み水があれば失われない命、薬とまでいかぬとも蚊帳一つあれば助かる生命がこの中に多く含まれる。釈尊の故国インドでも一日当たり三千人弱の子どもたちが命をなくしているという。

 生まれることに関して当人の選択は一切ない。幼い子どもには生命の安全を自ら確保する知識も力もない。また苦しみを絶つ知恵もない。生を維持するためには渇きをいやし餓えを満たさねばならないが、そのためにはたとえどんな親(養育者)であろうともそれを一途に頼る本性に従うほかはない。環境の苛酷さも彼らにはどうすることもできない。
 幼いがゆえにまだ自覚できなくても、生をめぐる理不尽さは子どもたちに容赦なく覆いかぶさっている。

 子どもたちを取り囲むこうした状況から敷衍して次のようなことが言えないだろうか。
 現実世界は常に不条理をはらんでおり、それを取り除くことはできない。その不条理が我が身に結びつけば苦となるのだが、結びつくかどうか、結びつくとすればいつなのかなどは分らない。分らないけれど苦の因(たね)とはいつも隣り合わせだ。だから生ある限り苦と無縁に済ますことはできないのだ。釈尊はこのようなことを生の苦といったのかもしれない。つまり、生まれる苦か、生きる苦かということなどに囚われることは無意味なのだ。
 信仰心すらあるかないか覚束ないような凡夫の戯論(けろん)をお釈迦様は笑うだろうか。

 (「随想を書く会」メンバー)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧