【アフリカ大湖地域の雑草たち】(31)

用済みにされた英雄 

大賀 敏子
 
 本稿は、コンゴ動乱をテーマにした先行の12稿(『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)-(19)、(21)-(29)』(それぞれオルタ広場2022年5-7月号、9-11月号、2023年1-2月号、4-5月号、7-8月号掲載(末尾のリンク参照)※)の続きである。
 
 I 元首相をお縄に

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 モブツの懐刀
 
               
 先稿(2022年8月号)では、ルムンバ首相の右腕であったビクター・ルンドゥラ司令官について紹介した。モブツ大佐・参謀長も多くの部下に支えられていたが、なかでも、ANC(Armée Nationale Congolaise、コンゴ国軍)のギルバート・ポンゴSecurity Chiefは懐刀だった。ただし、1960年にかぎって(写真1)。                
                                                                                                                                                                

 ポンゴが有名になったのは、モブツの命を受け、ルムンバを追跡し逮捕に成功したためだ(1960年12月1日)(写真2※、逮捕翌日12月2日)。
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 ルムンバはその4日前(11月27日夜)、首都レオポードビル(いまのキンシャサ)を出て、政治的本拠地であったスタンレービル(いまのキサンガニ)を目指した。自宅は国連兵と国軍兵(ONUCとANC)に取り囲まれていたが、ルムンバはその二重の輪を極秘にくぐり抜け、「ルムンバがいなくなった」ことが確認されたのは翌朝だ(事務総長報告S/4571)(地図参照)。
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 ポンゴにはムリだろう
 
 ONUCレオポードビルは逐次ニューヨーク国連本部に報告を送った(電報の出典はUnited Nations Archives)。
 11月29日付け電報。11月29日、ルムンバはKikwitに到着したとの情報。そこではルムンバ支持が圧倒的だ。ポンゴはサベナ社のヘリコプターで追跡しているが、ルムンバ捕獲はむりだろう(B-1544-45; S-0736‐0006‐01‐00001)。
 11月30日付け電報。ルムンバは、KikwitからPort Francqui(筆者註:いまのイレボ)に向かうのか、あるいは別のルートか、いずれにせよ、ルルアバーグ(同:いまのカナンガ)かどこかのエア・フィールドで飛行機に乗り換えるだろう。ギゼンガ(同:ルムンバ側代表)には二機、カロンジ(同:南カサイ分離の指導者)には五機のプライベート機があるとの由(B-1555,1556; S-0736‐0006‐01‐00001)。
 
 国連は協力しない
 
 さらに、11月30日付け電報。ポンゴはエア・コンゴ機で、11月29日夜半、Kikwitに到着した。翌朝ONUC現地事務所に現れ、「UNの車両を使わせてほしい」「ONUCレオポードビル本部からの依頼だ」と言ってきたが、断った(B-1555,1556; S-0736‐0006‐01‐00001)。
 ONUC本部の依頼だというのは、ポンゴのはったりである。なぜなら、この前日(11月29日)、ONUCヘリコプターを使わせてくれと依頼したが、すでに断られていたからだ(12月1日付けB-1561,1562; S-0736-0006‐05‐00002)。
 ONUCは以前にも、ルムンバ逮捕への協力を拒絶していた(9月15日、10月10日)。国連の中立原則のためだ。そんなダメもとの国連まで依頼を受けたくらいだから、国連と同様、いや、それ以上に事態を注目していた外国が、助力を求められていただろうことは想像に難くない。
 
 厳命とは言え
 
 ONUC全軍に、逃亡者、追跡者「いずれの側にもぜったいに加担してはならぬ」という厳命が下されていた(S/4571)。ところが、こんな記録もある。
 12月1日付け電報。イレオ首相から(ONUC本部に)電話あり。ルムンバはPort FrancquiでANCに逮捕されたが、ONUCガーナ兵が逃がしたとのこと。ガーナ部隊に至急確認中(B-1564; 0736‐0006‐05‐00002)。
 ガーナをはじめ、アラブ連合、ギニア、モロッコなどいくつかの国が熱心にルムンバを支援していた。カサブランカ・グループと呼ばれた国々だ。ONUC兵はコンゴ全土に配置されていたが、このうち友好国出身兵はどこにいるのか、そんな地図を思い浮かべながら、逃亡者が行動していたとしてもおかしくはない。
 
 英雄になって当然
 
 国連事務局にとっては、24時間ガードしながら脱出を見逃したこと自体が失態だ。このうえさらに、ONUC兵が上官の厳命より出身国の意向に従っていたとしたら、国連軍の指揮命令という仕組みの本質を揺るがす大問題だ。にもかかわらず、安保理を混乱させるほどの批判を受けず済んだのは、結果的に、ルムンバ逮捕が成ったからだと言えよう。結果オーライだ。
 なお、ガーナ兵は逃亡者を本当に助けたのだろうか。確かに、ANCによる暴行を制した場面はあったようだ(Ludo de Witte, “The Assassination of Lumumba”, p.119)が、逃がしたという事実までは確認されていない。
 かくてこの逃走と追跡は、国内政治抗争のように見えて、その実態は、思惑のからみあったマルチの国際関係だった。その政治バランスを巧みにあやつり、逆境にひるまず、ポンゴは元首相を「お縄にした」。英雄になるのも当然だ。
 
 II 大活躍の1960年
 
 ガーナ外交官に退去命令
 
 この数日前にもポンゴの名が記録に出てくる。場所はレオポードビルのガーナ大使館だ。
 ガーナ政府の活発なルムンバ支援に対し、コンゴ政府は内政干渉であるとし、同国外交官に48時間以内の国外退去を命じた。この命令書を実際に大使館まで運んだのが彼だった(11月19日)(The New York Times 1960 “Ghanaian Barks at Congo Ouster”, 20 November 1960)。
 この外交官(Nathaniel Welbeck)は命令に従わず逆に公邸に立てこもり、これはONUCとANCとの間での最初の戦闘につながった(11月21日、死者はチュニジア兵7名、コンゴ兵多数)(S/4587)。
 
 働き甲斐のある一年
 
 このころのポンゴのことを事務総長特別代表(Rajeshwar Dayal、インド人)はこう書いた。
 「この2ヶ月ほどレオポードビルでは、ギルバート・ポンゴ司令官と呼ばれるANCオフィサーがやけに目立ち、彼は職権をはるかに超えた権力を持っている様子だ。航空機離着許可、ラジオ放送許可などにも指示を出している」「ほぼ30歳で、"Force Publique"インテリジェンスで勤務し、ベルギーでの研修を受けたことがある」(1961年1月8日付け電報D-35; S-0736-0007‐02‐00002)
 1960年は、ポンゴにとって働き甲斐のある一年だったようだ。
 さかのぼって1960年1月から2月にかけて、コンゴ独立準備のため、ベルギー政府とコンゴ人代表との間で円卓会議が開かれた。かぎられたコンゴ人代表者がブリュッセルに招聘されたが、参加者名簿を見ると、ポンゴの名もある(National Progress Partyの副代表)。
 なおルムンバは他の代表者に遅れ、急遽釈放され獄舎からブリュッセルに飛んだ。モブツはその補佐役だったとのことで、会議場にはいたものの参加者名簿には名がない(”The Historic Days of February 1961”, List of Participants)。
 
 III ルムンバ釈放を求める
 
 逮捕
 
 ルムンバ逮捕からおよそ1ヶ月後(1961年1月7日)、ポンゴは改めて話題になった。彼の声明がラジオ放送されたときだ。ただし、英雄ではなく囚人として、ルムンバの釈放を求めたものだ。
 モブツはギゼンガ支配下にあったキブ州の奪還を計画し、1961年1月1日、ANCをブカヴに進軍させた。ベルギー信託統治下のルワンダ‐ウルンディとの国境都市である。ポンゴはこの現場司令官だった。作戦は失敗し、ポンゴは捕まりスタンレービルに連行、投獄された。
 なお、この作戦のためにANCはベルギー領に越境し、これを許したとしてベルギー政府は非難された。
 
 コンゴのために
 
 ポンゴの声明はフランス語とリンガラ語で、宛て先はカサヴブ大統領(国連事務総長特別代表にコピー)で、上司のモブツではない。獄舎での録音(1月5日)には、ONUC現地代表が招かれ同席した。
 「大統領閣下、ご自身で行って、ルムンバ首相を解してください」「帝国主義者と組んで、モブツ大佐が陰で立ち回るのを、即刻止めさせてください」「ANCを国政に関与させてはなりません」「大統領は(首相)罷免を無効にし、(昨年)9月13日の議会決定に従ってください」「こうするのが国のためなのです」(1月8日付け電報D-35; S-0736-0007‐02‐00002)
 カサヴブ・モブツ政権はこの訴えを無視した。
 
 無節操なのか
 
 声明を報道する西側メディアは、その中身より、ポンゴの変わり身の早さを伝えた(The New York Times 1961 “Mobutu Aide, Now a Prisoner, Calls for Release of Lumumba”, 7 January 1961; The Gurdian 1961, “Man Arrested Lumumba Himself Arrested”, 7 January 1961)。
 同じころ、国連事務総長特別代表は、ポンゴの人物像を内部電報にこう書いた。
 「誰であれ、時の権力者についてきた。独立前はベルギー人、ルムンバ政権下ではルムンバ、その後はモブツだ」(1月8日付け電報D-35)。
 このとおりなら、無節操という意味にもなる。
 ただし、どんな時代だったのか考えてみよう。ルムンバ再起の可能性がまだまだあり、それだけはぜったい避けたいとする側が本気で殺害計画を進めていたときだ。いったいコンゴはどう転ぶのか、国内諸派も諸外国もおおいに気をもんでいたときだ。誰につくのが得策なのかと真剣に考えをめぐらせていたのは、ポンゴだけではあるまい。
 
 IV 21世紀のポンゴたち
 
 用済み
 
 無節操と言えばネガティブだが、機を見て、人を見て、固定観念にとらわれずに行動できるというのは才覚だ。そんなポンゴの能力が、その後もコンゴ政界に生かされたのかというと、実はそうではない。
 ほどなくして(1月23日)、ポンゴが処刑されたという情報が流れた。これは誤報だと否定された(1月24日付け電報D-192; S-0736‐0007‐01‐00002)ものの、さらにその約1ヶ月後、ルムンバ殺害の報を受け、双方による報復殺戮がエスカレートするなかで、ポンゴは犠牲になった(2月22日)ようである(The Times 1961 “15 Anti-Lumumbists Shot” Report, 23 February 1961)。
 「ようである」というのは、その死がほとんど話題にならなかったためだ。指導者たちにもメディアにも、ポンゴはとうに用済みだったのだろうか。
 ポンゴが逮捕されたブカヴ作戦は、クリスマスの日に始まった。せめてその出陣前に、家族や友人と楽しいひとときを過ごすことはできたのだろうか。余分なお世話だろうが、そう願わずにはいられない。
 
 2023年大統領選挙
 
 来る2023年12月20日、コンゴは大統領選挙を予定している。モブツ政権が倒れ、新憲法が制定されてから4回めだ(註1)。チセケディ大統領は再選を目指すが、ノーベル平和賞(2018年)受賞者の医師デニ・ムクウェゲ氏が立候補を表明した。
 21世紀のポンゴたちがしのぎを削っていることだろう。
 
 (註1)モブツ政権後のコンゴ政治略歴
 1997年5月ローラン・カビラが首都制圧・大統領就任、モブツ国外逃亡、ザイールからコンゴ民主共和国へ国名変更
 2001年1月ローラン・カビラ大統領暗殺、息子のジョゼフ・カビラが後継
 2002年プレトリア和平合意、2003年暫定政権成立
 2005月12月憲法草案に対する国民投票、2006年2月新憲法公布
 2006年大統領選挙、2006年12月ジョゼフ・カビラ大統領就任
 2011年12月大統領選挙、ジョセフ・カビラ大統領再選
 2018年12月大統領選挙、2019年1月チセケディ大統領就任

※写真2 The Washington Postから転写
Congo Prime Minister Patrice Lumumba, hands bound, sits in the bed of an army truck under guard of Congolese soldiers on Dec. 2, 1960, one day after his arrest by troops loyal to Col. Joseph Mobutu. (Horst Faas/AP)

 
 ナイロビ在住

※編集事務局注
・アフリカ大湖地域の雑草たち(17)「1960年の国連安保理
・アフリカ大湖地域の雑草たち(18)「ベルギー統治時代のコンゴ」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(19)「国連職員のクライアント」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(21)「相手の実力」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(22)「お兄さんと弟」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(23)「生涯感謝している」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(24)「国連のきれいごと」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(25)「誰が問われているのか」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(26)「武力をつかって平和を追求する」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(27)国連をダメにしたくない
・アフリカ大湖地域の雑草たち(28)思いやりは無用の長物
・アフリカ大湖地域の雑草たち(29)いちばんこわいこと
 
(2023.11.20)
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