【コラム】
槿と桜(55)

相手への呼びかけ方「○○さん」

延 恩株


 日本ではそこにいる人に声を掛けるとき、あるいは話題としてその人物を取り上げる場合、「○○さん」というように「さん」をつけるのが一般的です。この人物の性別、年齢、職位、人間関係の親密度などにもあまり気を遣わなく「さん」をつければ、まず問題ありません。
 ところが韓国では、人に声を掛けるとき、日本語の「さん」のような万能とも言ってもいい便利な言葉がありません。

 「長幼有序」(ちょうようゆうじょ)という四字熟語があります。日本ではあまり使われなくなり、耳慣れない言葉になってしまっていますが、韓国ではむしろ誰でもが知っていると思います。   
 儒教的な思考がかなり薄れてきた韓国ですが、それでも日本よりはまだ色濃く、お年寄りや年長者、社会的地位の高い人への気の遣い方は社会のなかに定着しています。この「長幼」とは、年齢が上と下、「有序」とは、順序があることを言っています。
 儒教には五つの守るべき「仁・義・礼・智・信」の「五常」と「五倫」と呼ばれる「父子有親。君臣有義。夫婦有別。長幼有序。朋友有信」(父子に親(しん)あり、君臣に義(ぎ)あり、夫婦に別(べつ)あり、長幼に序(じょ)あり、朋友に信(しん)あり)があって、これらを守るように説いています。

 「父子の親」とは、父と子の間は親愛の情で、「君臣の義」とは、君主と臣下はそれぞれ相手を慈しむ情で、「夫婦の別」とは、夫と妻にはそれぞれ異なる役割があり、「長幼の序」とは、年少者は年長者を敬う情で、「朋友の信」とは、友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない、というものです。
 この「五倫」の一つが「長幼有序」になるわけで、これがあるために、冒頭で述べた「さん」をめぐって、日本との違いが生じてくるのです。

 韓国には日本語の「さん」のような、どのような場合でも使える表現がありませんから、使い分けをしなければなりません。相手がはっきり年上や年下だとわかれば、どの呼びかけ方が適切なのかは、すぐにわかります。ところが自分と比べて年齢的にどちらが年上かわからないこともしばしば生じます。こうなると、どう呼びかけていいのかわかりません。そこで日本だったら「常識がない」とか、「失礼なやつ」といったように見られてしまうに違いないのですが、韓国ではごく当たり前のように起きることがあります。
 それは、たとえ初対面でも相手に年齢を訊ねることです。社会的におつき合いするときに年齢の上下で言葉の使い方も相手への行動も大きく異なってきてしまいます。当然、呼びかけ方も違ってきます。年齢を訊くことは失礼になるということは韓国人も知っています。でもだからといって、相手の年齢を知らなかったために、かえって失礼な言葉遣いや行動になってしまう可能性も大いにあり得るからです。
 私ももちろん相手に訊くことはありますが、ただ直接的に「何歳」と訊くのは避けて、たいていは干支で訊くようにしています。相手の「ねずみ」とか「うし」といった返事によって、自分より年上か年下かを判断します。こうした習慣が身についているためか、韓国の若者は干支について、日本の若者よりずっと親しみを感じているはずです。

 それでは日本の「さん」にあたる呼びかけ方にはどのようなものがあるのでしょうか。代表的なのが以下の使い方です。

①「씨 シ 氏」
 日本でも「○○氏」と使いますが、呼びかけには使いません。一人の人物を指すときに使うのが一般的で、「さん」よりずっと固くるしい印象を与えます。
 ところが韓国では初対面の人やあまり親しくない相手、さらには仕事だけのつき合いをしている相手に使います。

△ 苗字+名前+氏→ 延恩株氏
△ 名前+氏→ 恩株氏 

 通常は、この二通りの使い方だけです。いずれもなんとなくよそよそしく、他人行儀な感じがあります。それでも「名前+氏」の方がくだけた感じになるでしょうか。そして、この「氏」を使うときにも「長幼有序」の考え方が顔をのぞかせますから、注意が必要です。

<注意点>
・このどちらも自分より年上の人には使いません。
・「苗字+氏」は通常、使いません。

韓国では苗字が日本に比べると大変少ないですから、苗字だけでは人を特定するのが難しいことから、あえて人を特定するのを避ける場合に使われることがあります。たとえばニュースなどでプライバシーにかかわるということからですので、この場合には失礼にはなりません。
もう一つ、あまりいないと思いますが、かなり横柄な態度で接しても問題が起きない相手、たとえば自分の家の使用人などに使うことがあり、これも失礼にはなりません。
ただこれらは例外ですから、上記の2つの注意点からはずれますと、相手にはかなりの不快感を与えてしまいます。

②「兄さん、姉さん」
 自分より年上か、年下の相手への呼びかけになり、「○○さん」「○○ちゃん」といった感じになります。赤の他人にこのように使うのですから、日本とは異なった使い方ですし、日本の方は奇異に思われるかもしれません。
 自分より年上の女性には「누나 ヌナ」か「언니 オンニ」です。自分より年上の男性には「형 ヒョン」か「오빠 オッパ」です。
<注意点>
・自分との年齢差が目安として10歳程度までで、それ以上離れている場合は使わないのが一般的です。ここにも「長幼有序」の儒教的な考え方があります。 
・自分が男性か、女性かによって呼びかけ方が違います。
   男性が年上の女性を呼ぶ→ ヌナ (누나)
   女性が年上の女性を呼ぶ→ オンニ (언니)
   男性が年上の男性を呼ぶ→ヒョン(형)
   女性が年上の男性を呼ぶ→オッパ(오빠)
 さらに丁寧に言う場合は、たとえば男性から年上の男性や女性に呼びかけるとき、兄さんの「형(ヒョン)」を「형님(ヒョンニㇺ)」、姉さんの「누나(ヌナ)」を「누님(ヌニㇺ)」と言っても構いません(님(ニㇺ)は、日本語の「様」にあたります)。
 この言い方を使う場合は、いきなり「オンニ」「ヒョン」と呼びかけても、また「名前+オンニ」「名前+ヒョン」でも構いません。

③「○○+(야)ヤ」、「○○+(아)ア」
 これは両親が子どもを呼ぶとき、上の兄や姉が下の弟や妹を呼ぶとき、仲の良い友だち、あるいは年下の友だちに使います。
 仲の良い友だち、年下の友だちに使うときには「長幼有序」を考える必要はなさそうです。いたって気楽に名前のあとにつければいいだけです。
<注意点>
 ・「야 ヤ」と「아 ア」の違いは韓国語に触れたことがある方ならおわかりだと思いますが、パッチㇺがあるか、ないかで変わります。つまり、名前の最後が母音で終わるならば「야 ヤ」です。名前の最後が子音で終わると「야 ア」になります。

④「名字+職位+(님)ニㇺ」「名字+先生+(님)ニㇺ」
 年齢が自分の親ほどに離れている場合は、こうした呼びかけ方をするのが一般的です。ただし相手の職業がわからなければ、職位をつけての呼びかけ方はできなくなります。
なお「선생님 ソンセンニム 先生様」は日本語の意味とは異なって、敬意を込めた「〜さん」ですから、年配の方には使うことができます。
 いずれにしましても「長幼有序」があるため、自分より年上のあまり知らない方への呼びかけには、かなり神経を使わなければならなくなります。

 今回は街やお店で出会った人や、家族・親類への呼びかけ方には触れていません。まだまだ、さまざまなケースでの呼びかけ方がありますが、次の機会に譲ることにします。 
 ただ韓国では、相手に呼びかけるときには、自分の年齢とその方の年齢の差を知っておかないと、気安く「○○さん」と呼びかけられないことはおわかりいただけたのではないでしょうか。    
 
大妻女子大学准教授

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