【自由へのひろば】

相模原市障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件の2月24日の起訴を受けて

堀 利和


 「津久井やまゆり園」の残忍極まりない殺傷事件の本質を理解するためにも、本事件の経緯を簡単に検証しつつ、その意味するところを私たちの問題にひきつけて考えてみたい。

 事件を引き起こした植松被告、衆議院議長公邸に「手紙」を持って行った植松被告はそもそも、刑法第233条の偽計業務妨害罪の適用を受けるべき者であった。最初は安倍首相宛に自民党本部に「手紙」を持って行ったのだが断られ、やむなく衆議院議長公邸に持って行った。「手紙」は地元の麹町警察署に渡され、次いで神奈川県警に送られたのだが、その際、刑事課ではなく生活安全課に回された。そのため偽計業務妨害罪としては扱われず、相模原市精神保健福祉課の担当となり、いいかげんな診断によって措置入院となる。
 事件2日後に、安倍首相は関係閣僚会議を開いて、「措置入院のあり方を検討」するように指示をだした。その後、厚労省内に「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」が設置された。これは、措置入院経歴者に対する予断と偏見に基づくものに他ならない。「検討チーム」の設置そのものが問われなければならないだろう。
 年が明けて植松容疑者は2月24日に起訴された。つまり、横浜地検は、刑法第39条(心神喪失及び心神耗弱)「1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。」の適用外として、人格障害であっても善悪の判断ができる状態だったとの精神鑑定に基づいて刑事責任能力に問題がないとして、殺人罪などで起訴したのである。事件は「心神喪失」「心身耗弱」ではなく、善悪の判断ができて刑事責任能力があるとしたのである。

 そこで問題になるのが、事件の動機である。起訴状を読まないと正確なところはなんとも言えないが、これまでの「手紙」、措置入院時の記録、供述等の報道からは、少なくとも、「コミュニケーションができない」重度の知的障害者は生きている価値がない、不幸しか生まない、経済にとってもいない方がよいという優生思想、歪んだ正義感と使命感、こうした一連の思想的確信に根ざしている。植松被告は思想的確信犯である。植松被告の優生思想と障害者観、人間観と社会観、そして歪んだ正義感と使命感、まさにそれらが彼の手に包丁を握らせたのである。「津久井やまゆり園」の重度の知的障害者に的を絞ったのである。
 もし人格障害・異常な自己愛のパーソナル障害であるとするなら、「津久井やまゆり園」の重度の知的障害者だけではなく、無差別なそして不特定の者を対象にしたはずである。その意味では、「津久井やまゆり園」という収容型大規模施設が被告人植松を生み出したともいえるのであろう。したがって、地域で共に生き・自立生活につながらない「津久井やまゆり園」の収容型大規模施設の元通りの再建は、社会に対して誤ったメッセージであると言える。
 以上のことから、にもかかわらず、安倍首相は関係閣僚会議を開き、厚労省内に「検討チーム」を設置させた。その誤りは、2月24日の横浜地検の「起訴」が物語っている。

 次に問題なのは、横浜地検が被害者の匿名を裁判所に求めている理由である。それは、暴力団や性暴力の被害者の二次被害に配慮した場合にとられる措置、その二次被害を「根拠」として、今回の場合もそれを適用しようとするものである。二次被害とは、そして加害者とは?
 だれから、だれが被害を受けるというのか? 亡くなられた方が、誰から被害を受けるのか?

 誤解を恐れず私の推察を一般論にして言えば、家族の中に重度の知的障害者がいたこと、それが改めて近所の人に知られてしまうこと、あるいは、亡くなられた方の兄弟姉妹が結婚していて、それによって相手家族の親戚にそれがわかってしまうこと、そんなケースである。お姉さんの結婚披露宴の席に、車イスの脳性マヒの妹を出させまいとした母親。そこには相手の親戚、お姉さんの会社の偉い人が列席。家族の中に「コミュニケーションができない」重度の知的障害者がいることを知られたくない、隠しておきたい、居ては困る、あってはならない、こうしたマイナスの人間観。
 あれっ? この障害者観、人間観、価値観、どこか被告人植松と同じような・・・・・・。
 加害者と被害者がどこかで交錯してしまう。なぜならそれは、被告人植松を生み出したのが、私たち、世間、現代社会であるからであろう。

 (共同連代表・元参議院議員)

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