【図書紹介】

石井知章編著『ポストコロナにおける中国の労働社会』

直面する中国労働世界の諸課題を実証的、多角的にさぐる
(日本経済評論社2024年2月 4100円)
井上 定彦

画像の説明

 編著者の石井氏は、もともと政治学(政治思想を含む)などの広い視野から調査研究に多くの業績をもち、しかもILOの専任職員(含む北京駐在)の経験を活かし、傑出した語学力を駆使して、日本のみならず海外でも多くの知人をもつ稀なかたである。
 このテーマ「中国の労働社会」は、中国という巨大な社会で、しかもダイナミックな政治変動をへながら、短期間で世界のGDP大国に駆け上がり、いずれアメリカとならぶ、そのなかでの焦点のひとつである。しかしながら、近年は新型コロナのパンデミックをも背景にした情報規制強化もあり、現地での調査研究・交流は大変に難しくなっている。

 だから、テーマそのものが困難なうえに、しかも現下の局面で、「ポストコロナの労働社会」を描きだすという大作業は並みたいていのことではない。
 本書は、このような困難をおして、多様で多才な第一線の研究者の参加によって編まれた貴重な研究書である。

集団的労使関係はどこまで定着したのか    

 巻頭の石井論文は、現代中国の労使関係のわずか30年の間での歴史的変貌をおいながら副題にかかげているように、情報社会、高学歴社会、個人化社会という、いずれの諸国でも直面している課題、すなわち「『集団的』なものから『個別的』なものへの逆行か?」についても、疑問符を付しながら踏み込んでいる。
 そこには、中国は以前の農村型社会の高い比重を持ついわば「前近代」の志向、次いでジェンダー平等などを含む「近代」への志向、加えて、今度はいちはやく高度情報社会や少子高齢社会の接近などの「ポストモダン」の社会様相など、幾重にも輻輳し、おり重なった社会課題が登場しているわけだ。
 近代の雇用労働者層の形成は、市場経済の発展と共におのずから多数派として現れたわけだが、その現れ方は、歴史的経緯をふまえ国ごとに大きく異なっている。

 私たちにとっては、産業民主主義がいかなる仕方で発展するのか、ILOの理念として承認されている自由な団体交渉、効果あるそれが、日本においても東アジア諸国においても重要だと考えている。それに伴って、「政・労・使」それぞれの独自の立場をふまえる「三者構成主義」の広がりも重要な視点となるわけだ。中国政府は1990年にこの三者構成主義のILO条約を批准し、2001年には国家レベルでこのことを公認してる。

 中国は、農村型社会から都市型社会へ、農業、零細企業、自営業の比重の高かった社会から、約30年のうちに、近代工業が瞬く間に興隆。いまや世界の「工場」となった。
 そして、人口・労働力人口の「爆発」の時代から、今度は労働力供給不足、人口停滞の社会へと、その「うねり」を転換。いまや、高学歴化と高度情報社会への接近が人口の高齢化とともに迫る。
 しかも、中国はその大変容を、「党の指導」のもとで、すなわち「三権分立」とはいささか異なった仕方で、それをおしすすめてきた。

政治経済体制改革のプロセスのなかでの労使関係の「市場化」

 まず、石井知章はこれについて、一連の政治・経済体制改革のプロセスのなかでの労使関係の「市場化」という視点で、四つの段階として描く。
 第一段階(1980年代から1990年代初頭)では、国営・国有企業の改革、市場経済の導入を含むプロセスのなかでの、労働改革の試行期間。次いで第二段階(1990年代初めから2000年代初頭)は、党=国家による強力なリーダーシップのもと、近代的企業制度の確立を目標にした。第三段階(2000年代はじめから、2008年の労働契約法が実施された時期)では、この新法制度の実施は労使関係をめぐる「集団化」への移行の大きな転機となった。ここまでは、改革による成果の定着をはかり、新たな労使関係を確たるものとし、法的にもそれを確立してきた過程としてよみとれる。

 しかし、この推移は複雑なものとなる。というのも、公認の「中国総工会」・工会は正規従業員を中心にしたものであり、農民工はむろんのこと、新たに生まれてくる様々な形態の独立労働者がますます分厚い層になるなかで、その位置・役割りが問われることとなる。また、公認された工会とは別の叢生してきた多数の労働NPOがこれらをつなぎ広がる事態については、指導層内の保守派、その堅固な層においての懸念・警戒が強まったことは、その後消滅することも多かったNPOの現実が示しているとおりである。
 加えて、2015年以降は、人権派弁護士や活動家、作家、ジャーナリストも、民族問題や台湾、香港問題にも連動して、次々と当局の弾圧の対象になっている、との報道も相次いだ。 

新たな課題と「共同富裕」を基礎にした分配構造是正への動き

 2015年ころには世界に連動して、上海株式市場株価の大幅な下落が起こり、中国経済が高成長時代から次のステップにはいってきたことの認識もひろがってきた。中国経済のこれまでの特別な発展構造、すなわちひとつには、(政府・民間にまたがる)固定資本形成の異常な比重の高さが問われはじめ、他方で、国際市場でこの20年のあいだでの頭抜けた輸出等での伸びが頭打ちしはじめた、ということがある。

 中長期的にみれば、産業の代表的な部門で、すでに先進国への「キャッチアップ」・追いつき過程はほぼ終わった。それは大規模な固定資本形成が一巡したということかもしれない。「世界の工場」としてのその巨大な役割と存在が、多くの国で認識され、「米中対立」というかたちでの反発も加え、世界市場での拡大の限界がみえてきたということでもあろうか。

 いずれにしても、それまでの中国の国際的規模での例外的な発展(8~10%成長)から、より低い成長率への移行期間にはいった、とみられるのだ(IMFとの最近の中国経済展望は2024年から2028年にかけて成長率は4%強から3%前半に低下するとしている)。このような重大な過渡期においては、さまざまな社会経済に関わる振幅が大きいのが通常であり、社会の歪み、紛争の多発が目立つというのが、これまでの世界の経験であった。
 石井稿によると、習近平指導部は、この点に気づかないわけではなかった。すでに2013年秋には「賃金の決定の全面的深化における若干の問題に関する決定」で「賃金の決定とその正常な増加メカニズムを整備し・・・企業における賃金の団体交渉制度の改善、所得分配格差の縮小、中間層が分厚いものとなる段階的な形成を志向する」ようになってきていた、とも石井は指摘している。「共同富裕」を基礎にして、社会の揺れ幅をおさえるということなのであろう。

工会機能の位置

 中国共産党は、2021年12月(コロナ禍)には「工会法」の改正を行った。この改正には第四条に「政治的、先進的、大衆的性格の維持」が明記されているという。一方での政治的とは党の指導性の堅持を意味するのであろうし、かといって、工会がそれによって官僚化するのはまずい、「大衆性」の保持も重要である、と併記されているわけだ。
 実際、総工会の音頭とりで、農民工を組織化し、そのなかに取り入れることも進められている。また、戸籍制度改革も中規模都市への流入制限の緩和、養老保険、医療保険への加入も拡げられていったという。これらが労働NGOへの抑圧と平行してすすめられたという現実もある。

 企業内でも、大企業の企業工会主席のもっとも関心を持つべき業務についての近年の推移を掲げた表も、筆者の興味をひく点である(66頁)。2008年から2019年のあいだでは、農民工の権益への関心、労働者の参加メカニズムの改善がとりあげられ、2021年と2023年では、「企業の発展を支援すること」「雇用の確保と安定」が焦点となっている。これはコロナ禍での困難だけではなく、中国経済が停滞局面に入ったこと、企業が雇用保護の難しさに直面していることの反映なのかもしれない。(この20年の日本の大企業・企業別組合のビヘイビアを連想しつつ。)

中国非正規雇用の顕著な「二重性」

 日本をはじめこの20-30年にもわたり、社会政策に関わる当局者などの頭をなやませつづけている「非正規労働者」層の問題は、殊に中国では、より鮮明に二層に分かれているようにみえる。第六章の梶谷懐氏が担当している「中国における非正規労働者の就業状況と課題」は、一方では農民工のような、農村戸籍で高い教育機会をうることのできなかった「非正規」層、他方ではこの10年内外で全国に普及した高等教育機関とその卒業者の急増。情報産業化が急進展する産業構造のなかで、独立志向が強くみずからに適した就業機会をみつけられないという青年を中心とする非正規の層の出現(高い若年失業率)がある。
      
 本書には、これ以外の章でそれぞれにとりあげられている、これまでの中国社会研究であまりとりあげてこなかったような、重要なアプローチや議論がいくつも提出されている。
 ここではあえて筆者の主観的関心にそって、あと二つの章についてのみ紹介をしたい。

中国は福祉国家か

 ひとつは、ジェーク・リンの第四章「福祉国家中国と商品化サイクルにおける出稼ぎ労働」である。ここでは西欧の福祉国家とはちがって、「東アジアの福祉は、儒教的独立独歩と家族主義の強調によって形成されてきた」とする。
 そして実際には、地域別の差異は大きいものの、2000年代に入ってから(2011年の社会保険法を基礎に)、医療保険の加入率の上昇、年金制度をふくむ5大保険のひろがりがみられるという。そこには、地域別のみならず、社会階層別での大きな格差、大きな自己負担比率ということもあり、生命保険市場をはじめ、福祉の市場化の進展が顕著であるという(再商品化)。
 だから、ここでは、中国は福祉国家であるという主張そのものがあらためて問い直されるということになろう(ペーター・フローラやウィレンスキー理論を尺度とすると、この理解はいくつかの点で違和感は大きいことになる)。
 (なお、だとすると日本はいったいどこまで「福祉国家」であるといえるのかどうか、「福祉レジ-ム」の一つであるとはたしかであるが・・・・。)
 興味深い問題提起だといえよう。

中国のジェンダー問題

 中国での女性の位置、ジェンダー格差問題は、日本などの東アジア諸国のなかでは、かなり状況はよいものだと思っていた。というのも初期の指導者には、宋慶齢、宋美齢、鄧穎超あるいは王光美、葉群などをすぐに想起するからである。たしかに、全人代の女性代表者比率や企業や従業員代表の役員にしめる割合をみると、日本、韓国よりはましである。
 第9章、阿古智子の「中国の女性たちによる性暴力と構造的な差別への反発」は、それにもかかわらず、中国でも性差別や家族の中の役割・位置づけが、課題としてとりあげられているという。職場での「セクハラ」などをキッカケとして、近年世界で広がった「Me-too」運動はここでもひろがりがあるとのことである。なかでも、女性は家庭を守るもの、育児や介護の主たる担い手として期待され、それが近代的な育児・介護保障制度の発展の阻害要因になっている可能性は依然としてあるように思われる。
      
 すでに世界の中で巨大な位置を占めるようになった中国経済社会の存在がある。2000~2015年のころとは違って、これまでのように国際市場の伸びが国内経済の発展をリードするという「グローバル経済時代」が、すでに異なった現局面に入っている。そこでは、中国の資本過剰・貯蓄過剰という問題は、これからの世界経済停滞に連動している。
 内需拡大が求められ、それも投機的な不動産投資ではなく、国内消費の拡大、また急増する福祉需要の伸びに対応して、経済構造の転換がもとめられているように思う。
 いずれにせよ、本書は多面的・多角的に中国社会の現状・課題に果敢に挑戦している。この分野に興味を持つ読者や研究者にとって不可欠な研究書となっている。
 書籍はこちらから購入可能です。https://amzn.to/3vYk5zP
                    
(2024.4.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧