【沖縄・砂川・三里塚通信】

砂川闘争65周年の回顧① 砂川闘争弁護団の相磯まつ江弁護士逝去


仲井 富

◆相磯まつ江弁護士の訃報と砂川現地闘争と社会党法律相談部の時代

 砂川平和ひろばの福島京子さんから先日、相磯まつ江弁護士が97歳で逝去されたとの報告があった。砂川闘争65周年にあたる今年、数少なくなった砂川闘争の仲間が亡くなった。私が左派社会党本部の青年部事務局長として、東京に来たのが55年の9月末、翌10月は左右社会党の統一大会となり、書記局配置で新設の軍事基地委員会のただ一人の担当書記となった。それがその後の人生を決めた砂川闘争現地への派遣だった。星霜を経て今年は砂川闘争65周年の年だ。

 相磯弁護士一年生の初仕事は1956年秋、激突の砂川米軍基地反対闘争の現場だった。相磯さんは次のように語っている。

 ――所属していた労働法律旬報社の事務所に所長の東城弁護士から、女だろうと男だろうと、弁護士なら誰でもいい。すぐに現場へ飛んでくれと言われた。「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」とスローガンを掲げた看板などが立ち並んでいる。「これが民衆の力なんだ」農民とスクラムを組み、調達庁の役人とにらみあうこともしばしばだった。だが同僚である新井章たちが、農民とともに闘争の最前線で闘ったのに対し、後方に回ることが多かった。
 激突の後に警察や検察とわたり合う人間が必要だったのだ。農民や労働者、学生が逮捕、拘留されるたび、彼らの釈放を求め、事務所に帰って必要な書類を書いた。その書類を抱え、連日、警察署に出向いた。気がつけば刑事事件を弁護する腕もすっかり上がっていた――

 社会党は砂川闘争の法廷闘争を強化するために、1997年衆議院議員会館のなかに「社会党法律相談部」をつくった。そこに法律旬報社の弁護の一部が入居して砂川闘争にあたった。当時の責任者は、後に師と仰ぐ軍事基地委員会の法律担当者だった亀田得治参議院議員だった。

 私は砂川の現地闘争とともに、社会党法律相談部に出入りしていた。今でも覚えているが、新井章、久保田明夫、鎌形寛之など、後に砂川闘争の最終的勝利を勝ち取った米軍基地内の土地明け渡し訴訟を担った人々である。

◆砂川闘争勝利のカギ三つ 強制測量中止と田中せんと法廷闘争

 砂川闘争勝利のカギは三つあった。その一つは1956年秋の激突による1,000名の重軽傷者による強制測量中止、二つには少数派となった23戸の農民、わけても最後まで土地を死守した田中せんさん親子、そして三つには支援団体が去った後も継続した法廷闘争が美濃部知事当選によって花開いた。知られざる地道な法廷闘争を担った弁護士団と宮岡政雄さんの苦闘の16年間は、宮岡さんの「米軍立川基地内民有地明渡事件経過報告 報告者 宮岡政雄」のなかに詳しい。

 相磯弁護士が始めて砂川闘争弁護団の一員として現地闘争に加わったのは1956年秋の激突の年だった。そこで相磯さんと知り合い、その延長線上に永田町の議員会館内の社会党法律相談部でしばしば顔を合わせていた。当時の私は23歳、相磯弁護士は33歳の時である。相磯さんに再会したのは、星霜を経て西新宿の西口法律事務所を、京子さんと共に訪ねたのは2015年6月のころだった。驚くべし、当時すでに92歳の相磯弁護士は、しっかりと覚えていてくださった。
 その後、砂川闘争60周年記念集会への砂川現地参加を御願いに、新宿西口法律事務所を訪ねた時、『道遠くとも 相磯まつ江』川口和正著の本を下さった。そこには「贈呈 仲井富様 平成二十七年一〇月三日」と記されていた。そして同年10月11日の砂川闘争60周年記念集会に、娘の芹沢真澄弁護士と参加して下さった。なおかつ堂々と当時の戦いぶりを語っていただいた。

◆夫婦別姓を貫く信念は、苦難の結婚、離婚と不当な差別への抵抗

 相磯さんは、自由法曹団東京支部ニュースのなかで以下のように語っている。

 ――日本で14番目(推定)の女性弁護士となった私は、89歳と8カ月に到達した今も弁護士を名乗って、青梅街道を闊歩して新宿駅の西口に構える法律事務所に毎日通い、ペンを握り、書類に目を通して、元気に朗らかに生きています。弁護士に定年がないということは全くステキなことでした。
 私は女に生まれたがために、家族制度の荒縄にしばり上げられ、「嫁」という恐ろしい立場に耐え切れず、婚家から逃げだしました。私が女でも一人前の人間として扱われる世の中をめざして、再出発できたのは、皮肉にも日本が戦争に負けたからでした。敗戦の日はまさに女の復権の日でした。それから、私は三島市で小学校の先生をしながら、大学の夜間部で2年学び、それ以上に進みたくて、7年も続けた小学校の先生の職をポイと投げ捨て、上京しました。
 ふところには、辛苦してためた20万円をしっかり握り、「そのお金のあるうちに司法試験に必ず合格しなければならない。」と固く決心していました。そして幸運にも1回の受験で司法試験に合格したのでした。弁護士相磯まつ江の誕生は昭和31年4月のことでした。
 このような経歴の私を雇ってくれる法律事務所はなかなか見つからず、私は労働事件専門の旬報法律事務所の東城守一先生を訪ねました。雇用方を懇請したところ、「事件がきたらやってみろ。それまでは机だけは貸してやる。」と言われました。その後、私は無我夢中で事件に取り組みました。砂川訴訟も懸命に斗いました――

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 相磯さんは後年、弁護士仲間の芹沢孝雄氏と結婚し、共同で弁護士事務所を持つが、夫婦別姓を貫いている。娘の芹沢真澄弁護士も、結婚して3児の母親でもあるが、同じく夫婦別姓である。最終的には、新宿西口法律事務所を真澄さんとの共同事務所として今日に至った。
 相磯さんらと砂川闘争を担った弁護士団にも存命の方は少ない。同じころ弁護士一年生だった新井章さんは当時26歳。最後まで宮岡さんを支えた砂川米軍立川基地内民有地明渡事件の中心的存在だった。京子さんから聞いた電話にかけてみた。お元気だった。長電話してコロナが収まったら会いましょうということになった。「旧きを訪ねる」旅をもう少し楽しみたいものだ。

<参考資料>

①『道遠くとも──弁護士相磯まつ江』 川口和正/編著 コモンズ/2008年3月刊
 相磯弁護士の勝ち取った朝日訴訟などの裁判闘争
 1956年労働旬報法律事務所に入所、女性初の労働事件を扱う弁護士となる。
 1960年弁護士・芹津孝雄と結婚し、翌61年に芹達らと共同法律事務所を立ち上げ、独立開業。結婚後も夫婦別姓を貫く。
 労働事件をはじめ、砂川訴訟、朝日訴訟、国会乱闘事件、全日農米価訴訟などに携わる。離婚訴訟など女性の自由と自立を守る活動にも尽力し、日弁連の「女性の権利に関する特別委員会」委員長も務める。
 著書に『結婚と離婚』(三一書房)、『検察権の敗北』(共著、宮益坂法律事務所)。
②「日本で推定14番目女弁護士の鼻息」自由法曹団東京支部ニュース No.464 2012年7月/発行 新宿西口法律事務所・相磯 まつ江
③『砂川闘争の記録』宮岡政雄/著 三一書房
④「米軍立川基地内民有地明渡事件経過報告」報告者/宮岡政雄

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  2015年10月11日の砂川闘争六〇周年記念集会に娘の芹沢真澄弁護士と車椅子で参加した相磯まつ江弁護士

 (世論構造研究会代表・『オルタ広場』編集委員)

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