【沖縄・砂川・三里塚通信】

砂川闘争65周年の回顧② 宮岡政雄さんとの再会で知った裁判闘争

仲井 富

 はしがき 私が宮岡政雄さんと再会したのは1980年の秋である。激突の1955年から57年の3年間は砂川に専念したが、以降は社会党青年部長として全学連や総評青年対策部、社青同などとの青年学生共闘会議を中心に、和歌山の勤務評定反対闘争、警職法反対闘争、安保闘争と、全国的な闘争の中にいたからだ。そして1970年からは社会党本部を辞めて公害問題研究会を発足させ、これまた全国の主な住民運動の現場に足を運んだ。

 1980年、その中間総括の意味を込めて取り組んだのが、月刊総評の「わが戦後史と住民運動」という連載企画だった。当時は編集部に社青同のかつて書記局にいた中林美恵子さんがいた。そこへ持ち込んで北海道から沖縄までの交通費、宿泊費をすべてまかなってもらい、住民運動のリーダーたちの戦前、戦後から今日までの個人史を語ってもらった。その一環として、私の原点である砂川闘争の生き証人として宮岡さんを訪ねた。そして私は打ちのめされた。砂川現地の3年間を砂川闘争と思い込んでいた無知に気づいたのである。

◆ 12年ぶり砂川を訪ねて宮岡夫妻と再会

 1980年の秋ごろ、それこそ十数年ぶりの再会だった。しかし宮岡さん夫妻はちゃんと覚えていて下さった。秋日和の縁側で宮岡さん夫妻を撮った写真が残っている。楽しく懐かしい時間だったが、宮岡さんは2年前脳出血で倒れ不自由な体だった。今でも覚えているが、別れ際に「仲井さん、リハビリのために畑の土を踏んで歩いている。病院の廊下よりよっぽど気持ちいいですよ」と言われた。嗚呼、この方はほんとの百姓だと感嘆した。
 そして2年後の1982年8月8日、69歳の生涯を閉じた。砂川闘争開始の1955年、小学校1年生だった娘の京子さんは、いまや父親の年を超えて70歳だ。

 かつて1950年代に、砂川闘争や百里原闘争で宮岡さんとご一緒したことはしばしばある。だがそういう時は、当面のことで一杯で、お互いの個人史を話し合うなど不可能だった。
 この月刊総評のインタビューで、幸いにして砂川米軍基地反対闘争の歴史的背景を含めて、宮岡さんの個人史までも聞くことができた。そして私の砂川米軍基地闘争の3年間は、その一部に過ぎないこと、56年秋の大激突と強行測量の中止という劇的な出来事だけで、思考停止していたことを思い知らされたのである。

◆ 宮岡さんの出自は16代続く地主 近衛歩兵第一連隊へ

 インタビューの冒頭、宮岡さんは自らの出自を語った。
 ――1913年(大正2年)生まれで、大正デモクラシーは身に受けている。学問としてではなく、自分の肌で感じた自由・民権というものだ。砂川は政争の多い町だった。ここでの生活は旧い方で、私で16代目です。だから私の親戚には町の有力者が多くて、砂川で運動が起こった時でも、神社の境内を借りに行く時に、私が言ったらすぐ貸してくれるが、町長や議長が言っても貸さない。神社を支えているのは皆私の親戚ですから――
 なるほどと合点した。中学校の講堂を丸ごと全学連の宿舎にしたのも教育委員会をおさえていたからだ。

 宮岡さんは小学校一年の時に父親を亡くした。その後本当に苦労したと言う。
 ――比較的大きい経営面積を持ちながら、金がないから叔父さん(父親の弟)が同居し、私が20歳になるまで祖母の実家が後見人になっていた。金の苦労はしたけれど、経営面積が広いから自分の力が出てくると復活も早かった。子供のころからたゆまぬ努力をしたから周囲の人達も認めてくれた――

 もう一つ、宮岡さんはあまり多くを語ってはいないが、20歳の時の徴兵検査で近衛歩兵第一連隊に抜擢されている。当時は全国の優秀な壮丁を選抜して入隊させた。やはり宮岡さんは体力頭脳ともに優れた人材だったことを証明するものだ。

◆ 農地改革への取り組み 農地改革の補助員として実務担当

 ――昭和20年の12月に復員してきて、農地改革の補助員と言うのをやった。職員がいるわけではないので、下手をやるとみんなボスに取られてしまう。その辺のところは、私は正直だから、2,000町歩もある農民の構図を写してきて、それぞれ小作が自分で構図の中に書き込むようにした。それで買収計画を立てるという方針を出した。構図に書き込んだら、もう誰も動かせない。そこを誰が作っているかということがはっきりした――
 こういう地道な世話役活動が、宮岡さんに対する絶対的な信頼となったといえよう。

◆ 田中せん親子の死守した土地が基地拡張阻止の切り札だった

 何故、砂川米軍基地拡張が阻止できたのか。切り札は百数十戸の反対同盟が次々と切り崩された中で、最後まで土地買収を拒否した田中せんさん親子の闘いだった。私は、1956年の全学連が参加した1千人を超える負傷者を出す闘争で強制測量中止に追い込んだところまでしか知らなかった。しかし革新政党・労組や学生が去った後も闘争は延々と1969年まで続いたわけである。そのなかで宮岡さんが特筆大書したのが田中せん親子の闘いだった。

 宮岡さんは1980年に再会した時、『砂川闘争の記録』初版本(三一書房)を下さった。そのなかに田中せん親子のことを以下のように記述している。
 ――何といっても、滑走路延長線上の土地を守って最後まで踏みとどまった人といえば、78歳の田中せんさんである。この人は滑走路の北端から僅か80メートルのところに住んでいて、基地の端に隣接して約1,300坪の土地を所有している。この人が移転しなければ滑走路の延長は絶対できない。この人がもし移転してしまえば、飛行場の改善は最低限保障され、実質的に基地拡張はできたことになる――

 田中さんに対する防衛施設庁のあくどい攻撃は、すさまじいものだった。親戚・知己に手を回し、説得を頼み、一時は身を隠すようなことまでして、田中さんは闘いつづけた。

◆ 砂川の非暴力闘争の象徴―日本山西本敦上人との出会い

 宮岡さんが砂川の非暴力闘争の信念を貫くもととなったのが、日本山妙法寺の西本敦上人との出会いである。記録映画『流血の記録 砂川』に登場する西本上人は、1956年10月の機動隊による暴行で重傷を負い入院した。その西本上人たちが警官隊の警棒に無抵抗のまま乱打されている姿を基地内から目撃していた米軍の若い兵士がいた。それが後年、日本山に帰依することになる、デニス・J・バンクスだった。

 日本山妙法寺の藤井日達上人と親交のあったガンジーの非暴力不服従の戦いに共鳴。1967年以降、三派全学連などが参加してきたが、一貫して非暴力闘争を訴え、砂川の集会では一度も内ゲバなどは起きなかった。
 沖縄の非暴力闘争の象徴だった伊江島米軍基地と非暴力闘争が1955年前後に相呼応して起きていたことや、砂川の宮岡政雄行動隊副隊長らと、沖縄のガンジー阿波根昌鴻との交流と連帯が当時から続いていたことを知った。

 宮岡さんは別れ際に、「仲井さんこれを呼んでください」と一冊の本を取り出した。それはガンジーの「非暴力不服従」を説いた言葉を日本山妙法寺の方が訳した本だった。

◆ 百年後を見据えた戦略家 米軍基地返還後住居建て音楽大誘致

 凡俗の及ばないことを痛感したのは、米軍基地返還後、常人ならそれで万歳だが、宮岡さんは国立音楽大学を立川市砂川町(当時)に誘致した。もし万一、将来、米軍にせよ自衛隊にせよ、国家権力が基地拡張計画を立てた場合に備えて、音楽大学の頭上を飛ぶような計画は立て難いということを念頭においたものだ。

 また宮岡さんは、米軍基地拡張中止後、直ちに、滑走路計画のコースの土地に借家を建てた。現在は京子さんが引き継いで「砂川平和ひろば」となっている場所だ。
 単に米軍基地だけでなく、戦前の大正時代から日本軍の飛行場として、太平洋戦争時代、前後9回、面積にして約51万坪の土地を接収された。また太平洋戦争末期、米軍の空爆によって砂川町民の受けた物的・人的損害は、全焼家屋149戸、半焼壊111戸、死者25人、負傷者13人に達した。戦前から日本軍の基地として強制収用された歴史を抜きに語れない。

 いわば戦前、戦後の軍事基地として翻弄された砂川町の歴史があるからこそ、返還後も百年の計で、念には念を入れた基地拡張阻止のための戦略が立てられたということである。この国立音楽大誘致には、昭和42年5月7日付けで中館耕藏理事長の名で以下のような感謝状が贈られている。

画像の説明

◆ 革新政党労組依存から沖縄などとの新たな連帯へ 共産主義大嫌い

 宮岡さんはインタビューのなかでこう言われた。「私はどちらかというと社会主義は嫌いなんだよ。共産主義は大嫌いなんだ。自由主義者なんだよね」。
 その意図がどこにあるかを私は考えた。かつての鈴木・浅沼時代の社会党や当時の飛鳥田委員長の時代と比べて、いまの社会党はもはや砂川時代の社会党や労組ではないと発言したこととも関連する。
 かつての社会党・総評や三多摩労協などという革新政党や労組依存から、個別の住民運動主体の運動体でなければ闘えないという考えに変わっていた。

 その現れが、1976年11月28日、砂川公民館で開催した「11・28全国住民運動交流会・共同宣言」のなかにはっきりと示されている。
 交流会の主催団体は北富士忍草母の会、三里塚芝山空港反対同盟、砂川基地拡張反対同盟の三者となっている。そして今なお続く沖縄米軍基地反対闘争との連帯を誓いあった。砂川闘争と伊江島の伊江島米軍基地と非暴力闘争が、1955年前後に相呼応して起きていたことや、砂川の宮岡政雄行動隊副隊長らと沖縄のガンジー阿波根昌鴻との交流と連帯が、当時から続いていたことを知った。

 1972年3月2日付けで、砂川における「住民運動総決起大会」の決議と声明文への礼状が残っている。当時阿波根71歳、宮岡59歳。そして後年、宮岡副行動隊長の娘である福島京子さんが、辺野古現地闘争に参加し、砂川闘争の歴史ある旗を掲げ、連帯のメッセージを送ったことも特筆すべき出来事だった。ともに非暴力不服従の旗を掲げて闘い今日の辺野古闘争に引き継がれている。

◆ 反対同盟と最後まで行動をともにした砂川ちよさん

 私は1975年10月、最後まで23戸の反対同盟員と行動をともにした砂川教育委員長だった砂川ちよさんを訪ねた。その時砂川さんから著書『ごまめのはぎしり』を送呈された。その見開きに一文がそえてあった。「ありのまま記録が風化しないようにとここに出版にこぎつけました。ご照覧いただければまことに幸いと存知あげます。 昭和五十年十月 七十五歳十ケ月 ちよ」とあった。

 著書の中に、「砂川基地反対闘争十周年に」と題して、砂川のリーダー青木行動隊長と宮岡副行動隊長への、色紙にしたため贈った二首があった。

  土地に杭 うたれたりとも 心には 杭うたれじと さとすますらお <青木氏に>
  ひたすらに 平和の基礎をきづかんと たえにしととせ とうとからずや <宮岡氏に>
  ととせすぎ なお弾圧のつづくとも 肩のおもみに たえてゆかまし <心から反対同盟の皆様方のご苦労を謝し>

◆ 切り札となった裁判闘争の知られざる15年間 新井・相磯弁護士ら

 砂川闘争のすべてに於いて法廷闘争を抜きには語れない。大きく新聞記事にはならなかったが、最後の切り札は法廷闘争の粘り強い闘いであり、その継続なくしては勝利はなかった。これを終始一貫して担ったのが、新井弁護士ら砂川弁護団の知られざる闘いであった。宮岡さんも持って生まれた緻密な頭脳で、宮崎町長が「砂川の法務大臣」というほど、六法全書をかたわらに、新井・相磯弁護士ら砂川弁護団とともに砂川の法廷闘争を戦い抜いた。

 以下に砂川闘争の主な法廷闘争を列挙する。1967年の美濃部革新都知事の誕生によって強制収用は不可能となった。この政治的背景の変化によって、ついに1969年10月30日、米軍は立川基地からの飛行部隊撤退を発表したのである。

 以下は砂川闘争の最後の切り札となった、政府と東京都の強制収用に対する闘いの主な訴訟である。宮岡さんの著書『砂川闘争の記録』を見れば歴然とする。私たちが砂川を去った1958年以降、その記述のほとんどは裁判闘争の記録で埋め尽くされている。以下に名を連ねた弁護団がその後の砂川関係訴訟を担っていった方々である。

 新井章 相磯まつ江 生井重男 江森民雄 大森典子 岡村親宣 鎌形寛之 亀田得治 川口巌 久保田忠夫 小島誠一 鈴木紀夫 芹沢孝雄 高野範城 内藤功 中村高一 本城守一 松崎勝一 松本善明 村井正義

 ① 土地明け渡し請求訴訟
 ② 砂川町長職務執行請求訴訟
 ③ 収容認定無効確認取り消し訴訟
 ④ 砂川第一次刑事事件
 ⑤ 砂川刑事特別法事件
 ⑥ 基地内土地返還請求訴訟
 ⑦ 収用委員会権限不存在の確認請求訴訟
 ⑧ 基地拡張中止による収容認定の行政処分取り消し請求

<参考文献資料>
 ①『砂川闘争の記録』宮岡政雄/著 お茶の水書房(旧版は三一書房)/刊
 ②『麦はふまれても』全日本婦人団体連合会/編集・刊行 1955年刊
 ③『砂川 ひろがりゆく日本の抵抗』砂川町基地拡張反対支援協議会/刊
 ④『心に杭は打たれない 砂川闘争不屈の抵抗15年』石野昇/著 
 ⑤『十一・二八 全国住民運動交流会』全国住民運動交流会 1977年発行 
 ⑥『北富士入会の闘い 忍草母の会の42年』忍草母の会事務局 お茶の水書房
 ⑨『道遠くとも 弁護士相磯まつ江』川口和正/著 コモンズ社/刊
 ⑩『砂川 私の戦後史 ごまめのはぎしり』砂川ちよ/著 たいまつ社/刊

画像の説明
  1980年秋、宮岡夫妻と再会。

●月刊総評「わが戦後史と住民運動 第七回」
 立川米軍基地拡張反対同盟の宮岡政雄さんにきく/インタビュアー 仲井富

 (世論構造研究会代表・『オルタ広場』編集委員)

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