【戦後70年を考える(4)私にとってのアジア】

私の戦後70年談話

横山 泰治


 戦後70年の節目にあらためて感ずること — 3つほど。
 1つは、かつて私も軍国少年の一人であったが、幸いにして破壊と殺りくの悲惨な戦場に駆り出されることもなく、シベリア抑留のような過酷な目にあうこともなく、平和主義、民主主義の普遍的価値観のあり方を求めた「戦後平和と民主主義」の空気の中で70年の歳月を過ごすことができた、そのことへの感謝の念である。今日、超大国アメリカの斜陽化とともに世界のナショナリズムが台頭し、様々な戦争の火種がくすぶる状況下で、日本のあるべき姿は、戦後70年のあいだ培ってきた平和主義の信念のもとに、核兵器廃絶はじめ軍縮平和への諸施策を積極的に世界に発信していくことだと思う。だが現実は逆である。
 そこで2つめの思いは、時代逆行の安部自公政権に対する強い憤りである。安部政権は、“平和主義の豊かな国”として世界の人々からも敬愛されてきた戦後日本の良き外交資産を投げ捨て、対米追随の富国強兵路線をひた走ろうとしている。三百代言的屁理屈を並べた違憲の安保関連法案は、撤回させなければならない。
 3つめは、1950年代から60年代にかけての日本社会党を、政権党として成長させることが出来なかったことへの痛恨の反省と政治責任の思いである。55年体制下、野党第一党でありながら社会党はマルクス主義的革命論に影響されて自身も加盟する社会主義インター諸党のような民主的改革路線を放棄し、万年野党に終始した。結果として日本の議会制民主主義の成熟を大きく遅らせた、その政治責任は小さくない。

 以上の3つの思いに若干の補足を付け加えたい。
 私は海軍兵学校で敗戦を迎えたが、戦後の大転換の渦中で、これからの日本は国際社会の一員として平和主義の先駆け的役割を担っていくべきだ、これは仏教的慈悲心の伝統をもつ日本の天命とも言えるのではないか、と考えるようになった。戦後まもなく出た高坂正顕訳のカント「永遠平和のために」を読んで「あるべきこと」は「ありうる」として「戦争が常態」(カント)の当時のヨーロッパで平和のあり方を追求した理想主義的思想方法に感銘を受けた。18世紀末のカント提言が、20世紀の第1次大戦の惨禍を経て国際聯盟の成立、次いで不戦条約として結実したことに、近代啓蒙思想以来の人間の英知を思い知らされた。思想史的には日本国憲法もその延長線上にある。
 政治面では、第2次大戦直後の英労働党アトリー政権が「揺り籠から墓場まで」の包括的社会保障を実施したことに、改革実践の手本を見た気がした。他方、旧制佐賀高校の時代にマルクス主義・唯物史観を知り、社会主義、共産主義への移行の歴史的必然性という考え方に影響された。このため自分の中に民主的改革論と革命論の葛藤を抱え込むことになった。

 私は大学卒業とともに偶然の機縁で日本社会党(左派)本部政策審議会で働くことになった。左社の平和四原則に代表される平和主義に共感していたのが動機だった。当時、世間では第一次吉田内閣の農林大臣や片山内閣の経済安定本部長官を勤めた左社政審会長の和田博雄氏が「時の人」として自民党政権に代わる革新政権の首相候補と目されていた。しかし、左右再統一で野党第一党になりながら社会党は、理論的には左社綱領を主導した労農派マルクス主義の革命論や総評労働運動における日本共産党との主導権争いの思惑などあって、改良・改革の現実主義路線を嫌った。
 また、社会党内主流の鈴木・佐々木派は派閥の閥利優先の行動により、折角の人材を生かそうとしなかった。60年安保闘争のあと、江田三郎氏により構造改革方針が提起され、左社綱領的左翼バネに対抗する戦略発想転換の端緒をつくったが、時すでに遅かった。今にして思えば、左社綱領作成段階でドイツ社会民主党(SPD)の綱領論争に学んでいれば、と悔やまれる。浅学非才ゆえに、私がマルクス主義的革命綱領を排して自由、人権を尊重するバートゴーデスベルグ綱領(1959年)を採択し、政権党への道を歩んだ当時の西ドイツ民主党(SPD)の道行きを知ったのは、ずっと後年のことであった。

 最後に、日本社会党の存在意義について述べれば、この党は社会民主主義政党としてのアイデンティティ(自己証明)を確立できずに本格的な政権樹立には至らなかったが、しかし、戦前体制の反省から「戦後平和と民主主義」の精神を尊重し、不戦の誓いと共に戦前回帰の様々な動きの阻止に力を傾けた。まさにその努力が、公布(1946年11月3日)以来足かけ70年にわたり、世界の平和主義の灯であり続けた日本国憲法の今日の長寿につながったのである。

 (筆者は元別府大学教授)