■ 【エッセイ】

秋の遠出―浜松市楽器博物館        高沢 英子

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  夕暮、用があって出かけた帰り、郊外の駅を降りて住宅街を歩いていると、ど
こからか仄かな薫りが漂ってきた。見上げると、塀越しに、金木犀が黄金色の花
をつけているのが目にとまり、暫く立ち止まって季節の薫りに包まれた。

 生家に居た頃、秋祭りの季節になると、庭の金木犀が花をつけた。町中のさほ
ど広くない内庭の空間に広がる馥郁とした匂いは、開け放った廊下から、座敷の
中まで漂った。

 ひとが五感を持ち、さらにそれらを超えた六感まで所有しているとは何という
豊かな恵みなのだろう、と思う。そしてそれらが記憶と結びつくとき、途方もな
い広さと深さで、まるで湧き上がる雲のように果てしなく心の世界が広がってゆ
きもする。

 プルーストが、失われた時を求め、過ぎし日々へと旅をする始まりに味わった
あの歓喜、プチット・マドレーヌを浸した紅茶のひと匙、の挿話はあまりにも有
名だが、味覚に限らず、ふと耳にする風の音、遠い波の音、汽笛、人声 
などの音が、不意に喚起する得体の知れない感動。それが、一瞬、人生観を変
えるほどでなくとも、人知れず、現実を超えた純粋な感慨に浸らせる、そうした
経験の一つや二つ、持たない人はおそらくないと思う。

 秋になって、初めての遠出ができた日、娘と六歳の孫と3人で、思い立って浜
松へ日帰り旅行をした。十月一日の金曜日、東京大田区が区民休日なるものを定
め、行政機関はもちろん、公立私立を問わずすべての小・中学校や幼稚園、が一
斉に休日を実行したのである。こちらの童の幼稚園もお休みになった。大田区だ
けの休みなので、休日の子供のよき遊び相手の父親は出勤してしまう。

 いっそこの機会にどこかへ行こう、平日だから、幸い高速道路もさして混まな
いだろう、という事になり、日帰り小旅行の計画を立てた。浜松に15年前に出
来た楽器博物館を見物したらどうだろう。子どもにもみせてやりたいし、と娘が
言い出した。ついでに鰻を食べて、帰りは鞠子のとろろ、秋のと、女子供で話は
すんなりと決まった。

 実は、私がこの博物館を訪れるのは、初めてではない。1995年、設立され
た年の秋、ここを訪れる機会があった。それは私にとって忘れがたい感動的な旅
だった。楽器博物館もすばらしかったが、旅の思い出もまた忘れがたいものとし
て心に残っている。当時京都に住んでいた私を、浜松まで呼び出して、案内して
くれたのは、台湾のいもっ子ツアーの人たちだった。

 「いもっ子」というのは周知のとおり、台湾在住の、国姓爺の時代から住みつ
いている古い島民たち、戦後蒋介石に率いられて台湾に移住した国民党の人々と
は違い、いわば先住中国人であって、台湾の形が芋に似ていることから、いつか
らか、この名で呼ばれるようになった人たちである。台湾では、戦後移住してき
た国民党系の人たちは外省人と呼ばれ、戦前からの住民、つまり「いもっ子」は
内省人と呼ばれている。そして、かれら内省人は、戦中は、日本人としてあの戦
いに協力を強いられ、戦後は永らく国民党政府から大きな差別を受けてきた人た
ちでもあった。

 私がそうした事情について、ある程度知る事が出来たのは、その前年の199
4年、ひとりの台湾人が日本語で書き、集英社から刊行した「台湾のいもっ子」
という一冊の本によるものであった。著者は台南の高校の英語教師蔡徳本氏であ
る。それ以前から、留学生に日本語を教える仕事を始めていた私は、台湾の留学
生から、時々,外省人だとか、内省人という言葉や、その社会的立場、彼ら相互
の微妙な感情のずれについて、聞かされていたが、具体的に詳しいことは何も知
らないに等しかった。

 ある日、偶然出版されたばかりの、「台湾のいもっ子」という本を図書館で見
つけて借り出した。家に帰って読み出したところ止まらない。ついに夜を徹して
読了し、大きな衝撃を受けた。それは戦後間もなく国民党政府によって、主とし
て内省人の学生や知識階級、労働者たちに行われた大弾圧と戦慄すべき白色テロ
の実態を、生々しく克明に書き記したドキュメントだったのである。文章は勿
論、内容はすばらしかった。

 蔡氏は1925年、嘉義市郊外朴子鎮に生まれた。福岡県門司中学に入学、東
京の名教中学卒業後故国に帰る。戦時中陸軍航空部隊に招集され、8ヶ月後終戦
により復員し、台湾師範大学に学ぶ。卒業後、郷里朴子の高校で、英語教員をし
ていたが、マーシャルプランによる官費留学生として、アメリカに1年間留学。
帰国1ヶ月後の1954年10月、懲治判乱条例(1949年6月公布)に基づ
く密告を受け逮捕された。13ヶ月にわたる獄中生活を耐えぬき、1955年1
1月九死に一生を得て生還した。

 その後、台南第一高級中学で30年間英語の教鞭をとる。解放後も引き続き特
務の監視下にあったが、1987年に37年間続いた戒厳令が解除され、199
1年五月には叛乱条例も廃止され、漸く獄中のことを話せる時が来て、蔡さんは
筆をとって、驚くべき記憶力で、みずからの13ヶ月に及ぶ体験を書き記す。自
分のためではない。無辜の罪に散った友の無念を晴らさねばならない一心である
ことがわかる。

 描写は実に正確無比、一糸乱れぬ冷静沈着な釈明の前に、手も足も出ない当局
の様子が理路整然と述べられる。そして毅然とした姿勢の底から、繊細で情に厚
い魂の慟哭が切々と響き、読む者の胸を打つ。私はすぐさま著者に手紙を書き、
集英社に住所を問い合わせて直接蔡徳本氏に送った。そして思いがけず、間もな
く丁重な返事をもらった

 こうして私と蔡徳本氏とは互いに熱い友情で結ばれた。蔡さんは度々台湾に来
て下さい、と誘って下さったが、諸般の事情で実行できずにいた。一年後の秋、
蔡さんから、一通の招待状が届いた。蔡さんの亡き親友の姪に当たる人は、浜松
で医院を開業している医師の夫人であり、その医師が台南市に住む妻の両親や友
人たちの家族のために企画した愛知特産の次郎柿狩りツアーで、来日することに
なった。ついては、あなたに是非会いたいから、浜松までいらっしゃいません
か、という誘いであった。私はとるものもとりあえず、新幹線で、浜松に行き、
蔡さんご夫妻と初対面を果たしたのだった。

 その人たちは、台南市や嘉義市周辺在住の人たちが中心で、日本語を流暢に話
し、私が一夜漬けで覚えた台湾語は通じず、中国語は笑い飛ばされた。
  「僕らは日本語で育ったんです。戦後中国語を勉強したんですよ。北京語など
まるきり話せなかった」蔡さんの本にも「国歌を歌うにも、漢字の横に片仮名で
読みをつけて歌った」と書かれている。
 
  彼らは道々楽しそうに、こもごも日本統治時代の思い出を語ってくれた。教養
豊かで、日本の古典にも通じ、万葉調の歌を詠み、クラシック音楽を楽しむ、と
いったひとたちばかりである。

 ひとつには彼らが、総じて、昔で言えば、良家のお坊ちゃんたちであり、日本
の旧制中学や大学進学者たちであったことも関連があるかもしれない。特攻隊の
経験者や幹部候補生の経験者やその弟妹も居た。古きよき制度への郷愁、は「台
湾のいもっ子」にも縷々語られている。

 後藤新平が総督府民政局長だった時代、新渡戸稲造が請われて農林殖産技師と
して開発を指揮した時代、彼らが直接かかわったのは1890年代の僅か数年に
過ぎないが、衛生面や農水産面での現実的、かつ建設的な取り組みは、人道的な
識見と相俟って、ひとつのすぐれた布石となり、台湾の日本統治は総じて善政だ
った、と結論付けるのは乱暴かも知れないが、悪いことばかりではなかったよう
である。                         

 バスの中で、また、最初に訪れた楽器博物館で、どんな話をしたか、もう記憶
も朧ではあるけれども、道々この人たちは、こもごも戦前の子供時代の追憶を楽
しげに語り、日本の童謡等を口ずさんだ。楽器博物館のあと、沼津近郊の今は希
少になった次郎柿の山へ案内された。秋晴れの好天に恵まれ、広い山の中腹いち
めんに、熟した次郎柿が、つやつやと輝いていた。台湾に柿はなく、みんな、懐
かしい果物をたっぷり楽しみ、箱に詰めて自宅や友人たちに送った。
 
  蔡さんは一昨年大きな手術をし、自宅で家族の手厚い看護を受けて療養中であ
り今は逢うことは出来ない。いもっ子の戦いはまだ終わっていないが、静かな諦
観の中に日々をすごしているのだろうか。集英社版は一旦絶版となったが、20
07年角川学芸出版から装いを新たにして出版された。蔡さんの義姉の兄弟だっ
た故周英明氏と夫人の金美齢氏の尽力によるものである。

 図らずも、二度目の訪問となった浜松楽器博物館は、2006年に改装され、
益々充実していた。 展示ホールは1階と地下にあり、1階はアジヤの楽器が集
められている。入った途端、集められた楽器の多様さに圧倒された。
 
  アジヤの楽器のデザインの多様さと華麗さにも驚いた。設備も整っていて、こ
れらの楽器は、各ジャンルごとに、イヤホンで聴くこともできる。
  日本の楽器は、総じて色も形も地味で、全般的には音も柔らかいが、突然昂ぶ
ることがある。琵琶法師の奏でる琵琶。曾祖父母の三味線、のびやかな宮廷雅楽
の音色。そして武満トーンの世界。
  とりとめもなくそんなことを考えて、ぼんやり立ちつくす。

 地下には主としてヨーロッパの楽器が展示され、繊細で優美なものも多いが、
ピアノや、パイプオルガンなど、巨大な楽器も網羅されていた。
 
  オセアニアのコーナーでは、シドニー湾の船着場で、ユーカリの幹ををくりぬ
いて拵えた巨大な笛を吹いていたアボリジナルたちを思い出した。シドニーの場
末で聴いた望郷のスコットランドのバグパイプの音色。西アフリカ、マリ共和国
の断崖に住むドゴンのひとびとのシギの祭り。人と音楽との切っても切れないか
かわりと宗教性。音楽が結びつける民族の結束。旅しつつ、こうしたことを探索
し、耳を傾け、思索するだけで、優に数冊の美しい本が出来上がるに違いない。
 
  地下には、防音設備の整った体験ルームもあった。4歳になる少し前からピア
ノを習い始めている孫は、ピアノには目もくれず、ならべられたドラムの前に座
り込んで、叩きまくり、飽きる事を知らず、時間が来てやめさせるのが一苦労
で、やっとのことで引っ張り出さねばならなかった。

 鰻は格別に美味しかったが、童は頑として「鰻はイヤダ、蕎麦がいい」といい
張り、「イヤダカライヤダ」というわけで、てこでも動かない。しまいに泣き出
し、鰻屋さんのほうが気の毒がって、美味しい蕎麦屋を教えてくれた。
  浜松に来たからには、と、大人たちも大人気なく、ひとまず童だけに蕎麦を食
べさせて、自分たちはお団子を食べ、子供に言い含め、もういちど同じ鰻屋に戻
ったのである。

 帰途は予定通り鞠子の丁子屋で、とろろを食べる。夕暮近く、秋の気配の漂う
庭を辿ってゆくと、足元の草叢で虫が鳴いている。
  茅葺屋根の店内はめずらしくひっそりして、客は私たちだけだった。中二階で
は,十返舎一九翁が、くつろいで座り、一献傾けている。総じて静岡の人は気持
ちが穏やかで親切である。浜松の人々も優しかった。

                     (筆者はエッセイスト)

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