【コラム】『論語』のわき道(23)''''

竹本 泰則

 東日本大震災から10年が経つ。
 政府が2019年11月末に発表した復興状況のまとめを読んでみた。地震・津波被災地域における生活インフラの復旧はおおむね終了、産業・生業の再生も着実に進展しており、復興は総仕上げの段階だという。また、原子力発電所事故の被災地域は、帰還困難区域を除いて、ほとんどの地域の避難指示が同年4月までに解除され、復興・再生に向けた動きが本格的に始まっているとしている。これだけを一読すると復興は順調に進んでいるように錯覚する。

 去年12月からことし1月にかけて、NHKが被災者4千人余りを対象に実施したアンケートの回答(回答者:1,805人)では、復興の進捗状況に対する評価はほぼ二分され、否定的な回答の割合は合わせて50.7%で、肯定的な回答を上回っている。
 避難者の数を見ると震災直後の約47万人が、2020年12月末時点は4.2万人となっている。これとても、まだこんなにも多いのかというため息を呼ぶ。

 道路やら建物の復旧はその姿が目に見える。しかし、大震災によって突きつけられたこの国の大きな問題・課題の始末は目に見えないものがある。防災、エネルギー政策や放射能汚染にかかわる理念、姿勢については、それこそ根底から議論し尽くして、後世の歴史の批判に耐えうるだけの答えを求めなければならないが、それが確と見えないのが気になるところである。

 この震災といえば、絆という漢字が思い浮かぶ。さすがに10年も経つこのごろではあまり見かけなくなったが……。
 この字は常用漢字に入っていない。したがって中学校までは学校の漢字教育で教えられることはないはずである。それでも、高学年の小学生、あるいは中学生などにはこの字を読める子どもが多いのではないだろうか。大震災の年の「今年の漢字」にも選ばれ、その後もよく目についたし、結構人気がある字でもあるようだ。

 常用漢字表の改定は、大震災の三月あまり前の2010年11月末が直近である。この時の改定で、鬱や誰、俺などといった196字が追加され、匁などの5字が削除された。その検討過程では、日本新聞協会などから追加を希望する漢字の一つとして絆の字も挙げられていた。そのころNHK(日本新聞協会に加入している)が全国の約1万1千5百人の高校3年生の協力を得て行った調査では、この字の読みの正答率は98.8%であった。

 文化庁が実施している国語に関する世論調査(2018年版)においてもこの字は取り上げられている。常用漢字表には入っていない漢字の表記に関する設問である。「訊問」、「交叉」、(手を)「叩」く、「障碍」、「癌」とともに、絆についても、どのような表記がいいと感じるかが調査された。漢字そのままがいいか、ルビ付きの漢字がいいか、ひらがなとする方がいいかなどを選ばせたものだが、絆は「この漢字を使うのがいい」との回答が9割を占め(訊問、交叉などは20~30%、癌は約7割)、「仮名で書くのがいい」という回答は2.6%にとどまっている。

 十分認知された漢字ではあったが、常用漢字表への追加は成らなかった。改定時期がもう少し後であったならば、あるいは結果が違っていたかもしれない。それはともかく、常用漢字であるなしにかかわりなく、今ではすっかり暮らしに定着した漢字といえよう。
 ところでこの字が使われている熟語となるとなかなか浮かんでこない。絆創膏と教えられれてようやく気がつくくらいではないだろうか。まして脚絆(きゃはん)といわれても、戦時中の巻脚絆すら実物を知らない人が大部分であろう。先のNHKの調査で脚絆の読みが問われているが、その正答率は2.2%にとどまっている。

 絆は、現代においては「きず(づ)な」という訓読みがもっぱらで、意味も人と人との結びつき、心の通い合いといった好ましいニュアンスで肯定的に使われている。「絆を深める」、「親子の絆」などといった使い方である。親子以外であっても、兄弟・夫婦、友人・仲間など、絆の字は人間関係の何にでもくっつく。先生と教え子の間であれば「師弟の絆」も成り立つ。

 『論語』の中に「師弟の絆」を感じる例を探すにはあまり苦がない。孔子と弟子との厚い交情を伝える章句はそこそこある。その一つに、孔子が病に伏し、その病状が重篤となったとき、子路(しろ)という古株が他の弟子たちを臣下に仕立てて立派な葬式を出そうと画策していた話がある。病間に意識を取り戻した孔子はそのごまかしを嘆き、次の言葉を継ぐ。

  われその臣の手に死せんよりは、むしろ二三子(にさんし)の手に死せんか

 たとえわたしが朝廷の中で地位を得て本当に家臣がいたとしても、わたしはその者たちの手で葬られるよりは、(弟子である)あなたたちの手の中で死にたい

 多少芝居めいてはいるが、孔子の本音だろうと思っている。

 もともと絆は馬をつないでおく綱、さらには拘束するものといった意味をもつ字であったらしい。漢字に初めて接したころには、わが国でもそのような言葉として受け入れられていたのだろう。古語辞典で「きづな」を引くと、(1)馬・牛・犬・鷹などをつなぎとめる綱、(2)断ちがたい煩悩といった説明がある。一方で、この漢字を「ほだし」という和語にあてている。今でも「情にほだされて……」などという「ほだし」である。

 中世の日本語を知るための資料としてよく引用される『日葡辞書』ではQizzuna とあらわされて、係累または拘束。ただし、精神的な事柄にしか用いられないとの説明になっているようである。動物をつなぎ留めておく綱、紐といった意味は消えている。いつからなのか明確には言えないが、絆は心の自由を妨げ束縛するもの、厄介だが断ち切り難いものといった好ましくないニュアンスの語義が主流となって使われていたと想像される。

 現代のような意味での使い方に変わったのは存外新しいのかもしれない。中野好夫が『人間の絆』の邦題でサマセット・モーム の作品を翻訳、出版したのは戦後間もないころのことだが、この絆は現代の肯定的な意味をもつ単語ではない(原語は bondage)。言葉の意味あいは時代によって変化するのは自然なことであり、人間の絆と訳出したのも当時にあっては的を射たものであったろう。
 漱石の『彼岸過迄』にも絆の文字が幾度か出てくる。主人公(僕)が許嫁との関係を述懐する段で、絆を「怪しい文字」と表現している。なぜ怪しいのかよくわからぬままなのだが、糢糊とした部分のあるこの字の語義からくる感覚なのかもしれない。

 東日本大震災の直後、人々の口から出たのは「がんばろう」であったように思う。震災直後にあってこの語は自然であり、怪しくもない。その後、被災者サイドに自分たちは必死でがんばっている、これ以上どうがんばれというのかといった声が聞こえるようになったせいだろうか、メディアを中心に代わって絆の字が登場したような気がする。
 しかし、実のところ、絆の文字が大震災とどう結びつくのか得心できていない。現代の肯定的な意味で使われていることはもちろんだろうが、それで何を伝えようとしているかが具体的に浮かんでこないのである。そのせいだろうか、この字を見ると、ある種の押しつけがましさとか空々しさといったものまでを感じてしまう。

 (「随想を書く会」メンバー)
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